01/ジャーナリスト魂・編集者萌え

2021.12.08

河合香織◆分水嶺 ドキュメントコロナ対策専門家会議   …………“前のめり”の専門家にリスペクトしたノンフィクションの傑作 

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〔専門家会議解散後の8月20日、日本感染症学会の基調講演で尾身茂〕

「ウイルスという相手が攻め込んでくるのに対し、その相手の動きを見ながらなんとか凌いできた」
リスクゼロを目指すような、常時緊張を強いられる試みは長くは続けられないとして、こう語った。


「剣道では相手をコントロールして動かせて抑える、『後の先(ごのせん)』といった言い回しがあります」


「先の先」という何事にも早く打ち込む戦略もある。だが、相手によってはそれは通じない。〔…〕
後の先、打たせてから勝つという方策を体に染み込ませようとしてきた。
尾身の「後の先」には、次のような信念があるようだ。

「自分がこうしたいと思っても、当然のことながら相手がある。それはウイルスであり、政府であり、自治体であり、市民だ。つまり自分の気持ちだけ大事にしていてはいけないということです。世の中のリアリティ、人の動き、それぞれの思いが一人ひとりにある。そういうことを知らずに、自説を唱えているだけではうまくいかない」

◆分水嶺 ドキュメントコロナ対策専門家会議 河合香織/2021.04/岩波書店


 日本で最初の新型コロナウイルス患者が確認されたのは2020年1月15日。その1か月後の2月14日に、「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議」がつくられた。


 座長 脇田隆字・副座長 尾身茂・構成員 岡部信彦・押谷仁・釜萢敏・河岡義裕・川名明彦・鈴木基・舘田一博・中山ひとみ・武藤香織・吉田正樹の12名。

 本書は、7月3日に解散するまでの5か月間、官邸や官僚に翻弄されながらもめげない専門家たちの葛藤の記録である。

 一方で、副座長の尾身茂(地域医療機能推進機構理事長)は首相会見に同席し“御用学者”と揶揄され、他方、医学的な見地から助言する組織なのに経済支援や補償に口を出すと官邸に嫌がられた。

 たとえば、2月27日安倍首相は、専門家会議にいっさいの事前相談なく、国務大臣で構成する新型コロナウイルス感染症対策本部の会合で、全国すべての小・中・高に3月2日から一斉休校を要請する。
メンバーの一人、武藤香織(東京大学医科学研究所教授)の発言
「自分たちが前に出て、予想以上に目立ってしまった。そのことで、政治家が専門家を出し抜くようなイニシアチブを取ろうとする引き金になり、一斉休校につながってしまったのだとしたら、……」
 
 やがて同会議は、専門家会議と政府の役割分担が外から見るとわかりにくくなっていて、専門家が担うべき範疇を超えた部分を本来の姿に戻すべきだということ、そして法的安定性のため特措法に基づく会議体に変えるべきだといった理由から、同会議メンバーによって自ら解散を申し出、解散に際し“卒業論文”をまとめることとなる。

 その卒論、「次なる波に備えた専門家助言組織のあり方」(案)について、6月22日座長の脇田隆宇(国立感染症研究所所長)に厚労省幹部からメールが届く。“卒論案”は「全体に言い訳がましく、ネガティブに捉えられるだろう」


――脇田隆宇座長
「役人や政府は絶対に間違ってはいけないという無謬性の問題があります。でも僕らは科学者なので、間違っていたことは反省します。反省して、それをすぐに次に生かす。だからスタンスが違うんです。何を言われようと、我々としては出すものは出すんだと思いました」

――鈴木康裕厚労省医務技監
「気になったのは、文中に一項立てられた「『前のめり』になった専門家会議」という表現だった。「自分たちがやってきたことに対してやりすぎだった、前のめりだったと言うことにも違和感がありました。さらに国民に与える印象も考えます。専門家は政府と揉めていたわけでもないし、混乱をきたしたかったわけでもないのです」

 ――文書の冒頭に書いていた「我が国の危機管理体制が十分ではない」という言葉は、「感染症に対する危機管理を重要視する文化が醸成されてこなかった」と書き直した。尾身が卒業論文で一番伝えたかったことは、まさにここの部分であった。まだ今から必死になればこれから来る波に備えられるかもしれないと願っていた。(本書)

 6月24日専門家会議構成員の代表として尾身、脇田、岡部が記者会見し、“卒論”「次なる波に備えた専門家助言組織のあり方」について公表する。脇田の発言。

 ――「専門家による情報発信においても、あたかも専門家会議が政策を決定しているような印象を与えていたのではないか」、このため「本来の役割以上の期待と疑義の両方が生じた」。「一部の市民や自治体からは詳細で具体的な判断や提案を専門家会議が示すことに期待が寄せられたが、その半面で専門家会議が人々の生活に踏み込んだと受け止めて警戒感を高めた人もいた」

 記者からこんな質問が……。

 ――「西村大臣が特措法に基づく分科会を作ると会見で述べたそうです。新たな専門家助言組織というのは、そちらに移行するのか」
 尾身は驚いて、脇田や岡部と顔を見合わせた。
「大臣がそういう発表をされたのですか?」
 西村大臣は専門家のこの会見開始とほぼ同時刻に記者会見を開いて、「専門家会議は廃止する」と発言していた。
 尾身は「私はそれは知りませんでした」と応答した。(本書)

 この記者会見と同時刻に西村康稔大臣が会見を行っていた。いかなる政府の意図か、偶然であるはずがない。

 専門家会議が正式に廃止されたのは7月3日である。政府は、新型コロナウイルス感染症対策本部を持ち回り形式で開催して専門家会議の廃止を決定。特別措置法に基づいて設置されている新型インフルエンザ等対策有識者会議の下に、新型コロナウイルス感染症対策分科会を設置した。会長は尾身、会長代理には脇田が就任した。

 ――分科会がスタートしてすぐに、菅官房長官の肝いりで始められるGoToキャンペーンへの批判の声に、安倍首相は専門家の意見を聴取する考えを示した。だが、実施そのものは既定路線であった。〔…〕
 専門家が踏み出したルビコン川はさらに大きく深いものとなっていた。(本書)

 本書は、尾身茂をはじめ専門家会議のメンバーの視点に立って綴られている。ここではややセンセーションな部分を紹介したが、安倍官邸、厚労省など官僚のスキャンダラスな出来事に触れず、専門家の葛藤を冷静に綴った出色のノンフィクションである。なお、続編は「世界」に連載中。

 

 

 

 

 

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2021.12.06

三浦英之◆災害特派員   …………若手記者やジャーナリスト志望の学生に贈る「ジャーナリズムとは何か」

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  渡辺龍に捧ぐ――巻頭にはそんな一文を掲げたが、それは津波が押し寄せてくるなかでシャッターを切り続けた伝説的な報道カメラマンの固有名詞であり、同時に比喩でもある。

 かつてあの被災地には泣きながら現場を這いずり回った数十、数百の「災害特派員」がいた。

 悲惨な現場を目撃し、名も無き人々の物語を必死に書き残そうとした無数の「渡辺龍」たちと、今後ジャーナリズムの現場に飛び込もうと考えているまだ見ぬ「渡辺龍」たちに、この小さな手記を贈りたい。

◆災害特派員 三浦英之 /2021.02/朝日新聞出版


 著者のノンフィクションは全作品を読んでいるが、これは朝日新聞記者としての「個人」を強く表面に出した“手記”である。

 3.11発生翌日に被災地に入り、その後宮城県南三陸町に駐在員として赴任し、約1年現地の人々と生活を共にした。その“私生活”を回想したもの。著者独特の“新聞記者”としての仕事、その生身の日々を、あらためて驚きをもって読んだ。

 その後、アメリカ留学で学んだ「ジャーナリズムとは何か」を含め、これらの理論と被災地での実践は、若手記者や将来ジャーナリズムの世界に飛び込もうと考えている学生たちの必読書である。

 

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2021.10.28

金田信一郎◆ドキュメントがん治療選択 ――崖っぷちから自分に合う医療を探し当てたジャーナリストの闘病記   …………患者にできるのは「医者と病院を選ぶこと」だけ、か

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 夜になって、自宅の廊下で、18歳の次男とすれ違った。

 一通り、手術と放射線治療のメリットとデメリットを話して、「迷っているんだよなあ」と言ってみた。

 すると、次男は迷いなく、こう言った。
「それは、放射線でしょ」
「なんで?」
「いや、僕は長く生きるよりも、自分らしく生きたいから」

 

〔…〕たぶん、世の中の大半の患者は、手術を選ぶだろう。そう思っている。5年生存率が高いのだから、その選択は「正解」だと言っていい。だが、手術を受けた場合にも、術後の食事のとり方や生活の変化、傷の残り方など、デメリットもある。

 もちろん、放射線にも多くのデメリットがある。5年生存率が低いことに加えて、被ばくによる副作用がある。皮膚炎や食道炎といったヤケドを負い、さらには周辺臓器の肺や心臓にも大きな負担がかかる。

 だが、世の中には、いかに人生が短くなろうが、残された時間を思うように活動したい人もいるはずだ。

 

◆ドキュメントがん治療選択 ――崖っぷちから自分に合う医療を探し当てたジャーナリストの闘病記  金田信一郎/2021.07/ダイヤモンド社


 著者金田信一郎(1967~)はジャーナリスト。

 2020年3月1日から始まる。この日居酒屋で嘔吐、2週間後再び嘔吐。近くのクリニックで逆流性食道炎の見立てで薬を処方されるが治まらず、3月25日胃カメラの結果、がんと診断される。
 
 3月27日、紹介された東大病院院長の診察。そして入院し、抗がん剤治療。しかし「食道にがんが3つある」「ステージが2~3」「強い抗がん剤を3クールやってから手術する」以外の情報はない。強烈な抗がん剤が5日間連続で投与される。だが、いつまで待っても病状も治療も納得できる説明がない。

 某日院内のカフェテリアで、中年女性が医療スタッフから食道がんの手術後の注意事項を受けている場面に出くわす。食道の全摘、8時間の大手術になり、ICU (集中治療室)に2泊、翌日からリハビリなど、著者と同様の治療だ。質問はありますかの問いに、「8時間って長いなあ」と言いつつ、女性は「テレビありますか」。

 ――「いや、もう東大病院さんだから、全部お任せです」
なるほど、と思った。患者がそもそも、病状や治療について、細かい説明を求めていないのだ。偏差値教育の最高峰「東京大学医学部」の「附属病院」ならば、トップの医師たちが最高の医療を施してくれると信じ込んでいる。自分で医師や治療を選ぶことなど、微塵も考えていない……。(本書)

 悶々とした日々のなかで、友人の「患者ができることは、医者と病院を選ぶことだけ」という言葉が響く。ネットや書籍、また友人知人へのメールで情報収集の結果、がんセンター東病院のセカンドオピニオンに行ってみたいと医療の専門家に問い合わせる。「今はセカンドオピニオンを聞くのは、その医師自身も、別の意見を聞けるので、前向きに捉えているように思います」。
 
 紆余曲折のうえ、食道外科の“1000人に1人”という腕と人柄を兼ね備えた医師に出会う。千葉県柏市の国立がんセンター東病院に転院する。

 当初は自身のことしか眼中になかったが、やがて同室の患者、かつての職場の先輩や同僚など、多くの知人とのメールや電話での情報が紹介される。うち二人……。

「実は、私も大腸がんになってしまいました」という能楽師の女性からの衝撃のメール。

 ――「K病院にお世話になっていましたが、現代医療ではなく、自然治療で行くことにしました。今、そのー環で断食中です。ステージはかなり進んでいるらしいのですが(「らしい」というのは、即手術前提の正式告知前に辞してしまったからです)、自分自身で決めたことなので、今後どんな状況になっても粛々と受け止めようと思っています」(本書)

 もう一人は元某新聞論説委員の先輩。著者と同じステージ3の食道がん経験者。まずは抗がん剤を始めたという。だが、その効果が見られず、すぐに手術台に送られて10時間を超える手術を受ける。

 食欲がないんだよ。食事を1人前も食べられないんだから。ちょこっと手をつけて、あとは「ごめんなさい」をするわけだ。そもそも、横になって眠れないんだから。寝ていると、胃酸が上がってきてしまう。もう外に出るだけでも大変なんですよ。

「問題は手術の後だから。それはもう壮絶ですよ」と繰り返す先輩の言葉で、なんども自問する。このまま手術を受けたら、その後の仕事に大きな制限を受けることになる。それでいいのか。

 ――手術をやめることはできないのか。
 自問自答の末、日本一の食道がん執刀医による手術をやめて、放射線治療に切り替える、と著者は決意する。

 こうして食道がん告知から6カ月後の9月20日。ようやく5クールにわたる抗がん剤治療の点滴針が抜けた。明日は退院。

 ――あと、どれだけ生きていけるのか、それは分からない。
 だが、誰もが自分の人生の残り時間を正確に把握できないのと何も変わりはしない。
 誰にでも等しく死はやってくる。
 それよりも、瞬間を生きる大切さを感じることができた。(本書)

 ざっと著者の7カ月に及ぶ闘病生活のあらすじを書いてみた。当方も進行中のがんを抱えており、「患者にできるのは、医者と病院を選ぶことだけ」という本書について興味深く読んだが、ここではあらすじを記すのみで、いっさいのコメントをしない。


「俳句」2021年10月号に、こんな句。
「命より一日大事冬日和」(正木ゆう子)

 

 

 

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2021.09.22

溝口敦◆喰うか喰われるか 私の山口組体験     …………死ねば、その者を守り、隠してきた「取材源の秘匿」も解消されるべきだ

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 ノンフィクションや報道の世界では取材源の秘匿ということがいわれている。取材し、書くことで、取材され、書かれた人たちに迷惑を掛けるわけにはいかない。だからその情報の出所を隠し、ぼやかし、暖味にする。

 しかし、かつて取材された人が死ねば、取材源の秘匿はとりあえず解禁されるのではないか。その人にとって秘匿すべき姓名も立場も職責も地位も解消されたにちがいない。

 ことによると死後も秘匿されるべき秘密はあるかもしれない。しかし、私は「殺菌には日の光に晒すのが一番だ」という言葉を信奉する者である。

 基本的には、何ごとも露わにしたほうがいい。死ねば、それまでその者を守り、隠してきた「取材源の秘匿」も解消されるべきだ。

本書中には、いままで私が隠してきた情報源の開示がいくつか記されている。

 

◆喰うか喰われるか 私の山口組体験 溝口敦/2021.05/講談社/◎=おすすめ


 かつて当方は「神戸八景」という一文を書いたことがある。その八景の一つが神戸地裁前にあった山口組三代目旧宅兼事務所であり、その舞台は溝口敦が描いた『山口組ドキュメント――血と抗争』(1968)である。

 ノンフィクション作家溝口敦(1942~)のデビュー作である。そして半世紀、本書は取材活動を中心にした回顧録であり半自叙伝である。
同時に山口組三代目時代から六代目山口組、神戸山口組、任侠山口組に分裂した現在までの“小型の山口組通史”である。

 溝口敦は、1965年に徳間書店に入社、翌66年に創刊された月刊誌「TOWN」を担当(当時から雑誌好きの当方は、月刊誌にしては珍しく“中綴じ”の斬新なこの雑誌を愛読したが、すぐに廃刊になった)。68年徳間を退職し、『山口組ドキュメント――血と抗争』を刊行、ノンフィクション作家溝口敦が誕生した。

ノンフィクション作家としての溝口敦の姿勢を本書から……。

その1。無署名原稿は書かない。
 原稿を署名で書く者の特権は、その者の主観で書いても読者に許される点である。しかし、書く者の主観が読者に受け入れられるためには、同時に記された客観的事実で主観が支えられていなければならない。読者に納得されてこそ、その者の著作たり得るはずだ。

その2。「ペンの暴力」という一面があることを自覚する。
 とりわけノンフィクションには、売り買いする商品である以外に、文化性という属がある。たとえば書かれたことで顕彰された名誉、逆に毀損してしまった人の尊厳、読者に真実を知らせたという貢献、読者に虚偽を広めたという社会悪など、物理的な力ではなくても「ペンの暴力」という一面があることは否定できない。

その3。記事のタイトルの決定権を持たない。
 自分が書いた記事のタイトルづけは編集権の枠内、基本的に著作権は及ばずと理解していた。タイトルづけは編集部が記事をどう読者に売り込むか、売り方の問題であって、ライターは決定権を持たないという理解である。

その4。取材先からカネを受け取らない。
 当たり前のことだが、一度として取材でカネを受け取ったことがない。車代として差し出されるカネも拒否した。ただし飲食の接待は受けた(ゴルフや麻雀などはやったことがない)。その場合、お返しで奢ったことも、金額的に奢り返せなかったことも、何か後で物を贈って糊塗したこともあるが、カネと性サービスは受け取ったことがない。

 溝口は半世紀にわたって山口組のウオッチャーである。溝口やメディアと暴力団とはもちつもたれつ、相互に利用し合う関係にある。溝口は失礼ながら、安倍・菅官邸が代弁者として使う政治評論家田崎史郎のような存在かもしれない。田崎が官邸の内幕を語るようなものだ(語らないが)。

 溝口にとって暴力団幹部にも好き嫌いがある。当方は未読だが、『荒らぶる獅子 山口組四代目竹中正久の生涯』(1988)の取材以来、竹中正久の実弟竹中武、正の二人に全幅の信頼をおいているのが分かる。4代目竹中正久といえばニュース映像で“吠える男”という粗暴なイメージしかないが、三代目姐が推挙するだけの魅力が竹中正久にあったに違いないと、今になって『荒らぶる獅子』を読んでみたくなった。嫌いな幹部も実名でその理由を明かしている。

 本書はなんといっても組幹部と著者、編集者との取材をめぐるやり取り、かけひきが圧巻である。「いままで私が隠してきた情報源の開示」をして、スリリングである。

 山口組は、現在、六代目山口組、神戸山口組、任侠山口組(「絆会」)の三つに分裂しているが、著者は「もはや『生存できず』が山口組に限らず、全ヤクザに突きつけられた解かもしれない」と終章に記す。が、あとがきでこうも言う(末尾に“笑”と付け加えればよかった)。

 ――山口組はご存じの通り日本を代表する暴力団だが、憎むべき敵、壊滅すべきだ、と言い切れない曖昧さを、私は心のうちに感じている。〔…〕

権力を持って悪いことをする人より、彼らのほうが可愛げもあるし、救いもある。世の中、四角四面でないほうが多くの人にとって過ごしやすいのではないか。

 

 

 

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2021.06.03

01/ジャーナリスト魂・編集者萌え◆T版2021…………◎吉田信行・産経新聞と朝日新聞◎三浦英之・災害特派員◎魚住昭・出版と権力 講談社と野間家の110年 

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01/ジャーナリスト魂・編集者萌え
吉田信行◆産経新聞と朝日新聞 
2020.12/産経新聞出版

「どんな政府であっても日本が生んだ政府です。それを切って捨てるような物言いはどうかと思う。

陸羯南が言っていますが、政府にできる範囲内のことを社説で書き、時に政府を勇気づけ、みんなを勇気付ける新聞であってほしい」(司馬遼太郎)

*

元産経論説委員長による「平和だけを目的とした新聞と平和の維持を考える新聞。日本を敵視する国から「友好的」と褒められる新聞と「極右」と蔑まれる新聞」、朝日と産経の論調を過去にさかのぼって比較したもの。

――人についての批評は本人に出会った時でも逃げ出すことのないような程度に抑えるべきというのが福澤諭吉の戒めの言葉でした。また政府批判をする時も、能力以上のことを求め、それが達成できないからと言って叩くことは避けよ、というのが司馬が推奨した陸鵜南の言葉でした。(本書)

*

産経・フジのトップとの会合で産経OBのこの司馬の発言は、村山富市自社さ連立政権時の時らしい。当方いくら熱心な司馬読者であっても、安倍や菅を“勇気づける”新聞であってほしいとは、思わない。

 

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01/ジャーナリスト魂・編集者萌え
三浦英之◆災害特派員 
2021.02/朝日新聞出版

 

渡辺龍に捧ぐ――巻頭にはそんな一文を掲げたが、それは津波が押し寄せてくるなかでシャッターを切り続けた伝説的な報道カメラマンの固有名詞であり、同時に比喩でもある。

かつてあの被災地には泣きながら現場を這いずり回った数十、数百の「災害特派員」がいた。悲惨な現場を目撃し、名も無さ人々の物語を必死に書き残そうとした無数の「渡辺龍」たちと、今後ジャーナリズムの現場に飛び込もうと考えているまだ見ぬ「渡辺龍」たちに、この小さな手記を贈りたい。

*

著者のノンフィクションは全作品を読んでいるが、これは朝日新聞記者としての「個人」を強く表面に出した“手記”である。

3.11発生翌日に被災地に入り、その後宮城県南三陸町に駐在員として赴任し、約1年現地の人々と生活を共にした。その“私生活”を回想したもの。

その後、アメリカ留学で学んだ「ジャーナリズムとは何か」を含め、これらの理論と被災地での実践は若手記者や将来ジャーナリズムの世界に飛び込もうと考えている学生たちの必読書である。

 

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01/ジャーナリスト魂・編集者萌え
魚住昭◆出版と権力 講談社と野間家の110年 
2021.2/講談社

 

私がここで強調したいのは、この作品がいまはなき『月刊現代』の仲間たちの全面協力によってできあがったということだ。

さらに付け加えれば、権力から独立した自由な言論を目指そうという『月刊現代』の志がなければ、この作品は生まれなかったということである。

*

『現代』2008年休刊。前著『冤罪法廷』2010年から11年。

*

講談社が1959年に編纂した社史『講談社の歩んだ五十年』のもとになった秘蔵資料合本約150巻を基に綴った“講談社と野間家の110年”史である。

講談社の近年の功罪……。「功」として『昭和萬葉集』全21巻の刊行。「罪」として『儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇』(ケント・ギルバート著)の出版をあげている。

『昭和萬葉集』には、「出版物は、その時代、その民族の文化の水準を示すバロメータ」で「人類の共有財産」だという省一の理念が結晶化されている。その出版の経過が詳述されている。
また『儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇』はベストセラーになったヘイト本。編集者と会社の精神の荒廃を示すものではないかと批判している。

 

 

 

 

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2021.04.09

柳澤健◆2016年の週刊文春        …………究極の仲間ぼめによる「週刊文春」の60年

 

2016


「雑誌は編集長のものだ、たとえ社長でも口出しはできないと教えられてきたから、自分が編集長になった時には、やりたい放題をやってやろう。ずっとそう思っていました」〔…〕

 もっと昔、たとえば1990年前後の花田紀凱の時代に編集長になっていたら、潤沢な予算の下で、記事やページ作りだけに集中できたから楽しかっただろうな、と新谷[学]は思う。だが、毎号1億円の広告が入り、80万に近い部数を売り上げた時代は遠く過ぎ去っていた。

「ただ、俺は何度も粛清されたけど、牙を抜かれることなく、野放しの状態で突っ走ってきた。


そういう人間が編集長になれるのが文藝春秋。


 結局のところ文春はいい会社、ありがたい会社なんです」

柳澤健◆2016年の週刊文春  2020.12/ 光文社


『1976年のアントニオ猪木』『1964年のジャイアント馬場』などのノンフィクション作家柳澤健は、元文藝春秋社員、「週刊文春」編集部員だった。

 その著者による花田紀凱と新谷学という名物編集長を軸に“百花繚乱”の「週刊文春」編集部の60年を描いたノンフィクション。いまや官邸を右往左往させる1強のジャーナリズム。以下、その新谷学編集長時代を見てみる。

 ノンフィクション作家で元編集部員の西岡研介は、「新谷学は人脈を情報に変えてしまう能力に関しては圧倒的だ」という。

 ――要するに人脈。「新谷くん以外には会わへん、話さへん』というタマを山ほど持っとるわけです。そこまで落とし切っている。人間関係をズブズブにしてしまう力、人に可愛がられる力がとんでもない。(本書)

 その新谷編集長が3カ月の休養を命じられたことがある。「春画入門」という特集で、女性の局部をトリミングして拡大するカラーグラビア。“ヘアヌード”を掲載しないで家に持ち帰れる雑誌のイメージを損なったという判断だった。その昔、池島信平社長から花田紀凱が呼ばれ「ハナダ君、そこまで書かなくちゃいかんのかね」と “フーゾク記事”をやり玉にあげられたという。いわば社風である。

 2016年1月編集部に戻った新谷は、「ウチの最大に強みはやっぱり……」とスクープ路線を敷く。
 
 ――“文春砲”という言葉が、インターネット上で頻繁に使われるようになったのはこの頃から。もともとはAKB48のファンの間で使われていた言葉で、秋元才加、指原莉乃、峯岸みなみらのスキャンダルを『週刊文春』が次々に報じたことから命名されたものだ。〔…〕

 ひとたび文春砲に狙われれば、芸能人は休養し、大臣は辞任し、元プロ野球選手は逮捕され、元少年Aの恐るべき本性が剥き出しにされてしまう。インターネットとスマートフォンが完全に普及したことで、時代遅れの古くさいメディアと若者たちから蔑まれていた週刊誌がこれほどの存在感を放つとは、誰ひとり考えていなかった。(本書)

 文春独走! その理由を加藤晃彦デスクは語る。
 第1に、新聞がインターネットにも記事を配信するようになり、記者たちが忙しくなったこと。有能な記者は独自ネタを追う時間が無くなった。第2に、抗議を受けただけで上からストップがかかるなど、メディア全体が守りに入ってしまった。また、新聞社でもコンプライアンスが厳しくなって、ネタを持っているグレーな取材先とつきあうことができなくなった。

 ――他社が追いかけてこなければ本物のスクープにはなりません。今や僕たちは、どうやって新聞やテレビに追いかけてもらおうか、と考えなければならなくなった。(本書)

 株式会社文藝春秋を牽引してきた月刊文藝春秋の読者層は60代。いまは中心的な役割を担っている週刊文春だが、読者層は40、50代で高齢化している。そこで、30代以下の読者を『文春オンライン』が狙う。スマホによって時間、量、世代の3つの壁を超え、株式会社文藝春秋のプラットフォームになろうとしている。

 ――文藝春秋は不思議な会社だ。
 社を去ってもなお、文藝春秋を愛し続ける。
 花田紀凱はもちろん、「こんなクソみたいな会社」と吐き捨てて社を去った勝谷誠彦さえ、古巣への郷愁を私に隠さなかった。
 立花隆は後輩たちを見守り、励まし続けた。桐島洋子も「文春にいた頃が一番楽しかった」と。〔…〕

 田中健五も半藤一利も岡崎満義も斎藤禎も松井清人も西川満史も木俣正剛も同じだ。そして、おそらくは菊池寛も佐佐木茂素も池島信平も白石勝も設楽敦生もそうだったのだろう。(本書)

 記憶に残る事件を取材エピソードをまじえ綴ったクロニクルだが、当然物語のようにヤマ場があるわけではないが、しかし最後まで退屈させない。500ページを超える大冊、全編これ究極の編集者同士の仲間ぼめ本である。さすがに自社からの出版は控えたのだろう。

 

 

 

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2021.04.07

森 功◆鬼才 伝説の編集人齋藤十一          …………新潮社OBによる齋藤十一と「週刊新潮」の“評伝”

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  しかし、文士が集まって出版事業を始めた文藝春秋と新潮社では、おのずと出版社としての性格が異なる。

 なにより齋藤は作家を志したこともなく、一冊の本も描き残していない。一編の著作もなく、残っているのは名タイトルだけだ。

 とどのつまり齋藤は小説からノンフィクション、評論にいたるまで、その構想を示し作品を生み出すプロデューサーだったのである。

 編集者に徹してきたからこそ、ものすごい数の作家や作品を世に送り出せたのだろう。文芸誌「新潮」で20年も編集長を務め、週刊新潮で40年という長さにわたって誌面の指揮を執ってこられた。

◆鬼才 伝説の編集人齋藤十一 森 功 2021.01/幻冬舎


 齋藤十一(1914~2000)は、死去するまで新潮社に長く君臨した。著者森功はノンフィクション作家として活躍する以前、新潮社で「週刊新潮」次長などを務めた。その新潮社OBによる齋藤十一と「週刊新潮」の“評伝”である。

 毎週金曜日の正午過ぎ、野平健一常務と山田彦彌編集長が齋藤の部屋に入る。“御前会議”とよばれた「週刊新潮」の編集会議だ。4人の編集次長はもとより総勢60人の編集部員は参加できない。20枚近い企画案を齋藤が○×と印をつけていく。決めるのは齋藤一人だ。こうして次の号に掲載する6つの特集記事のテーマ選ばれる。

 また、のちに「新潮45」リニューアルの際、わずか4人の編集部員の1人だった伊藤幸人(のち取締役)は、“新潮45御前会議”での齋藤の発言を隠し録りしている。齋藤は独演会を続けながら、1mをこえる巻紙を取り出した。そこに記事のタイトルがびっしりと書かれていたという。

 当方は「週刊新潮」といえば、谷内六郎の表紙絵、山口瞳「男性自身」、ヤン・デンマン「東京情報」である(新潮より多く愛読したはずの「週刊文春」では小林信彦のコラムと「文春図書館」しか思い浮かばない)。

 週刊誌の特集記事は、取材コメントをつないで物語にするいわゆるコメント主義だが、この原型を編み出したのは、アンカーマンだった井上光晴だ、と本書で知った。

 ――これが世にいう週刊新潮の「薮の中」記事スタイルとなる。資料や物証がなければ、当事者の証言でそれを補い、それでも裏どりが難しければ、怪しさや疑いを匂わせながら書き手の捉え方を読者にぶつけて考えさせる。〔…〕
新聞では書けない疑惑報道が、週刊誌の真骨頂と呼ばれるようになったのも、週刊新潮の薮の中スタイルからである。その原型をつくったのが井上光晴であり、のちの週刊誌はみなそのあとを追った。(本書)

 先の伊藤幸人は、「齋藤を天才たらしめる3つの要素」をあげる。
第1。高貴な教養への志向、ある種精神的貴族でありながら「女とカネと権力」など俗的な興味をもっていること。
 第2。言葉のセンス。頭のなかにつまっている古今東西の有名な本のタイトルや名台詞、箴言をちょっと曲げたり、変化させたりして独自のコピーにする。
 第3。その凄さは、黒子に徹したこと。「齋藤さんは生前、いっさい『これは俺がやった仕事だ』と言わなかった」。

 ――その齋藤が会社を去ったあと、新潮社では2001年のフォーカスの休刊、09年の週刊新潮の誤報、18年の新潮45の廃刊、と受難続きだ。(本書)

 「墓は漬物石にしておくれ」と言い残した齋藤の墓は本物の漬物石だった、と著者は書く。「これはひょっとすると、本人が自任してきた俗物を意味しているのではないだろうか」。

 

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2020.12.14

01/ジャーナリスト魂・編集者萌え◆T版2020年…………◎三浦英之・白い土地◎柴山哲也・いま、解読する戦後ジャーナリズム秘史◎★週刊読書人・追悼文選―50人の知の巨人に捧ぐ◎柳澤秀夫・記者失格◎松井清人・異端者たちが時代をつくる◎芝田暁・共犯者 編集者のたくらみ◎寺崎央・伝説の編集者H・テラサキのショーワの常識

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01/ジャーナリスト魂・編集者萌え

三浦英之★白い土地 ルポ福島「帰還困難地域」とその周辺 2020.10/集英社クリエイティブ

 内閣総理大臣・安倍晋三が東京オリンピックの延期を正式に発表したのは、彼の福島県浪江町の視察から17日が過ぎた2020年3月24日の夜だった。

 首相官邸で開かれたぶら下がりの場で、安倍は世界的に拡大し始めた新型コロナウイルスの回避を延期の理由に挙げる一方、2021年夏に開催される予定になった大会における新たな政治的な意味を付け加えることも忘れなかった。

「人類が新型コロナウイルス感染症に打ち勝った証として、完全な形で東京オリンピックを開催するためにIOCと緊密に連携をしていく。日本として開催国の責任をしっかりと果たしていきたいと思います」

 インターネット中継で総理大臣の発言を聞きながら、私はなぜかそのとき、清々しい気持ちになった。

総理大臣が語る東京オリンピックにはもう「復興」という形容も「被災地」という地名も含まれていない。

それは政府がこれまで執拗に提唱してきた「復興五輪」という概念が過去のものになり、別の物へとすり替わった瞬間でもあった。

 

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01/ジャーナリスト魂・編集者萌え 

柴山哲也★いま、解読する戦後ジャーナリズム秘史  2020/ミネルヴァ書房

「朝日新聞阪神支局襲撃」事件で殺傷された記者銃撃事件が、日本の警察捜査と新聞社取材の総力を挙げたにもかかわらず解決しなかったことは、正直、新聞記者の限界を感じた。

言論機関を襲ったテロ犯がなぜ逮捕されないのか。先進国としてあり得ないことだと思った。

* 敗戦直後の日本の言論と新憲法発布/憲法改正論の台頭から、阪神・淡路大震災から東日本大震災へ/小泉ポピュリズム政治の誕生まで、ずらりと目次が並ぶが、元朝日記者の本書はどう読んでも、タイトルの「秘史」は「私史」の間違いでは?

 

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01/ジャーナリスト魂・編集者萌え

「週刊読書人」編集部★週刊読書人追悼文選――50人の知の巨人に捧ぐ /2020.01/読書人

 

 昔の記事はすでに新聞の形でしか残っておらず、その紙面も劣化が甚だしい。

うかうかすると消尽しかねない、60年前からの記事を保有するために、記事を一つずつテキストデータ化し、アーカイブとして後年の資料として活用していかなくてはならなくなった。

そのために昨年部署を新設し、現在進行形で作業を進めることとした。本書「週刊読書人追悼文選』はその過程の一環で生まれた書籍である。

*

 書評専門紙「週刊読書人」がこれまでに掲載した510名の著名人にあてた追悼記事を厳選し111編を収録したもの。

 

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01/ジャーナリスト魂・編集者萌え

柳澤秀夫★記者失格 /2020.03 /朝日新聞出版

 

「あさイチ」のMCをやめた直後、「この8年間で俺の世界観は広がった」とかみさんに言ったら、

一言、「人間らしくなったよ」と返ってきたことを、いまも鮮明に覚えている。

*

こうした自らの不甲斐なさを意識しながら、私は記者と名乗っていいのか? 記者としてその名に恥じない生き方をしてきたのか? そんな自問自答をまとめたのがこの本である。〔…〕

嘘偽りなく書に語ろうと思っていても、無意識のうちに自分を少しでも良く見せよう、あるいは正当化しようとする、そんなもう一人の私の姿が見えてきて、どうしても自己嫌悪に陥ってしまう。(まえがき)

*

と書きながら、ジャーナリスト論になると、どうしても建前に終始する。

 

20200524

01/ジャーナリスト魂・編集者萌え

松井清人■異端者たちが時代をつくる /2019.07/プレジデント社

 

 私には一つの仮説がある。

 少年A97年に起こした惨劇の原点は、95年の阪神淡路大震災にある、というものだ。

 Aはそんな供述はしていないし、鑑定書にも記されていない。一部の新聞が大震災との関連を報じてはいたが、具体的な根拠は何も書かれていない。

 しかし、『週刊文春』(97年7月10日号)が報じた以下のエピソードが、ずっと私の心に引っ掛かっていた。

〈阪神大震災はA少年が6年生の1月に起こった。

 同級生が振りかえる。

「A君と悲惨な現場を歩いている時、僕たちはみんな倒れている人たちから思わず目をそらしてしまった。だけどA君だけは『あの人は足をケガしている』とか『頭から血が出ている』と冷静に観察しているんで、ビックリしました」〉〔…〕

神戸の街で見たリアルな遺体が、神戸に住む少年の記憶に刻み込まれ、ある日突然、フラッシュバックしたのではないだろうか。

 

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01/ジャーナリスト魂・編集者萌え

芝田暁■共犯者 編集者のたくらみ /2018.11/駒草出版

 

 編集者であれば、「この作家」に「このテーマ」で書かせたいというたくらみが、必ずいくつかあるはずだ。

 それをいつ使うかはわからない。1年後なのか、20年後なのか。何となく腹蔵しておくと、ある日、千載一遇の機会が訪れる。

*

 書籍の編集者の仕事は基本、著者はひとり、編集者もひとり。つまり一対一の仕事だ。

 たったひとりの著者の頭の中にあった「たくらみ」が活字で表現されて一冊の本になり、たくさんの人の手に渡って読み継がれる。何という贅沢な「たくらみ」ではないか。

 編集者は著者が「たくらみ」を遂行する一部始終に立ち会うのが仕事だ。だとすると世間に一石を投じる「主犯者」に加担する「共犯者」こそ編集者を表す的確な言葉であろう。(「まえがき」)

 

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01/ジャーナリスト魂・編集者萌え

寺崎央■伝説の編集者 H・テラサキのショーワの常識 /2016.12 /エンジェルパサー 

 

 大浄敬順なる人物。〔…〕

 歩くこと、途中で野点をやること、名所旧跡には必ず落書きすること、これを何よりの楽しみ。元気元気。そして他人には厳しいけれど自分には大甘。こういう老人にわたしはなりたい、と思うね。もう十分なってます?

 51歳で寺の住職を退いて隠居暮らしを始め大浄敬順なる人物の逍遥記『遊歴雑記』がモチーフ。

 元気なおやじで、不良老年してるわけだ。いつも茶道具と菓子を持ち歩いて、これはと思う江戸郊外に遭遇するとすぐに野点が始まり句を詠むことになるが、これはウオーキングの副産物。歩くのが体にいいことを心得ていて、歩くこと、途中で野点をやること、名所旧跡には必ず落書きすること、これを何よりの楽しみにしていたらしい。元気元気。

 多趣味多芸で元気だけど、ちょいと偏屈で孤独大好き、といって家にいるのは大嫌い。そして他人には厳しいけれど自分には大甘。

 こういう老人にわたしはなりたい、と思うね。もう十分なってます?

*

 本書は、ある意味で、テラさんの自伝でもある。幼少時代から最近まで、仕事や趣味を通じて、どんなものに興味を持ち、熱く接し、生渡の大半の、「ショーワ」を生きてきたかがわかるからだ。

 テラさんばかりでなく、さまざまなジャンルのマニアックな人たちにとって、どこまでも知識欲を満足させ、趣味の世界を楽しむことのできる時代があったのだ。(「はじめに」)

 

 

 

 

 

 

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2020.11.26

吉田豪★書評の星座――吉田豪の格闘技本メッタ斬り2005-2019      …………いいたい放題の“明るい書評”本

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 自分の原稿を読み直してみてビックリ。これはちょっと口が悪すぎるでしょ!


 とにかく徹底した個人攻撃。プロだと思えない書き手は容赦なく糾弾するし、事実誤認も指摘せずにはいられないしで、めんどくさいことこの上ない。自分がこんな人間だったとは、自分でもすっかり忘れてた!

 そう、ボクは基本的に平和主義者で喧嘩も好きじゃないはずなのに、プロとしてどうかと思う人間に対してだけは昔から厳しかった。

 おそらく、この仕事を始めたばかりのとき、まだ年齢的にも若くて出版の仕事を始めて数年ってぐらいで、プロレスや格闘技を学習し始めてからも日が浅かったからこそ、

自分がそれほど詳しくないジャンルでデタラメなことを書いている年上の人間が許せなかったんだと思う。〔…〕

 もちろん選手に対してはリスペクトがあるので、そこは基本的に批判せず、あくまでも同じ土俵上にいる書き手や編集のみを叩くというスタンスで、だ。相手は同業者で、しかも年上で、もつと言うと業界的にも立場が上だったりするから、そんなの容赦するわけがない。

★書評の星座――吉田豪の格闘技本メッタ斬り2005-2019 /吉田豪 /2020.02 /ホーム社


 2005年から2019年までに書いた格闘技本の書評165冊分が500ページ近い大冊になった。
 

 メッタ斬りの毒舌書評もさることながら、なによりもすごいのは、帯のキャッチコピーにあるように、「この1冊でわかる格闘技『裏面史』!」であることだ。
 大量なのですぐには読めない。で、当方がすでに読んだ本の書評を中心に見た。

*

増田俊也『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』
 本書は「木村政彦を守るためには、どんな邪魔者でも排除する覚悟」で書かれた本なんだと思う。そして、その過程で増田俊也氏が力道山のことを認めるようになっていくのが美しいのである。

 

柳津健『完本1976年のアントニオ猪木』
「歴史書」の文庫版が登場。傑作と名高い単行本に大幅加筆しているというので、きっそく2冊を並べて全ページ読み比べてみた。

 

柳澤健『1964年のジャイアント馬場』
 ノンフィクションは公平ではなく、どちらかに肩入れして書くほうが面白いと痛感させられたのであった。

 

柳澤健『1984年のUWF』
 これは、あまりにも前田日明史観が定説になりすぎていたUWFを、柳澤健氏が佐山聡史観で捉え直した一冊。

 

田崎健太『真説・長州力1951-2015』
「プロレスを描くことは、果実を求めて森に行ったつもりで、マングローブの密林に踏み込んだようだった。取材を進め、資料を集めてもどこまで信用していいのかはっきりしない。足を前に進めと、ずぶずぶと泥の中に沈み込んでいくのだ」
 アマレスというガチの世界で生きてきた長州と同じように、ノンフィクションというガチの世界に生きてきた人間が、プロレスという不思議な世界に翻弄されまくるのがたまらないのである!

 

小島一志・塚本佳子『大山倍達正伝』
 この本には衝撃的な情報も多々含まれているのに、ページ数(624ページ)が無駄に多すぎるせいで肝心の衝撃が全く伝わってこないのである。

 

吉田豪『吉田豪の喋る‼道場破り』
 手前味噌で申し訳ないが、「プロレスなんてただの八百長裸踊り」だと思っているような格闘技好きの人にこそ、『吉田豪の喋る‼道場破り』を読んでいただきたいと思う。

 なんと自著の書評である。

 

Amazon吉田豪★書評の星座

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2020.05.14

元木昌彦★野垂れ死に ある講談社・雑誌編集者の回想

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 本田〔靖春〕さんが万年筆を手に縛りつけ、一字一字、石に刻むようにして書き遺した連載の最後の言葉は、講談社の編集者たちへの感謝であった。

 

「それがなかったら、私は疑いもなく尾羽打ち枯らしたキリギリスになって、いまごろホームレスにでも転落して、野垂れ死にしていたであろう。これは誇張でも何でもない」

 2004124日、享年71

 

 この本のタイトルを考えているとき、この「野垂れ死に」という言葉が卒然と浮かんだ。

私は本田さんの齢を超え、おめおめと馬齢を重ねているが、私のほうこそ、どこで野垂れ死んでいてもおかしくはなかった。

 

 私の周りには、刀折れ矢尽き、野垂れ死に同然に亡くなっていった同僚、仲間、物書きたちが何人もいる。

 無駄に永らえた人間がやるべきことは、自分が生きてきた時代の証言者になり、後の世代に“何か”を伝えていくことだろう

 

と考え、この本を書き上げた。

★野垂れ死に ある講談社・雑誌編集者の回想/元木昌彦/20204/現代書館  


 元木昌彦(1945~)は、1970年に講談社に入社、月刊『現代』編集部に在籍した。その翌年読売新聞を退社しフリーになった上掲の本田靖春(1933~2004)と知り合った。ふたりが本格的に組んだのは『「戦後」美空ひばりとその時代』(1987)だった。元木は遺品として貰った万年筆をいまも大切に使っているという(後藤正治『拗ね者たらん 本田靖春 人と作品』)。     

 同書には講談社編集者たちによる本田靖春へのリスペクトと愛惜の思いが語られている。

 元木昌彦は、週刊誌華やかりし時代に「週刊現代」編集長を務めた。「ヘア・ヌード」という言葉をつくった。オウム真理教事件でスクープを放った。東京地検の捜査も受けた。毎晩酒を呑み深夜に帰宅し、翌朝胸が締め付けられるような状態を、『昭和残侠伝』のDVDを観て、自らを鼓舞する。うつ病だと診断される。

 本書で当方が興味を持ったのは、2点。一つは元木の左遷、もう一つは上掲にある野垂れ死に同様の“戦友“たちのこと。

 1992年から1997年までの5年半という長い間「週刊現代」編集長を務めたのち、50代半ばで部下が一人もいないポストに左遷される。比ぶべくもないが、当方もある大型プロジェクトを担当して5年、その完成直前に左遷された経験がある。2年後に“復活”したものの、その屈辱の思いはいまだに払拭できない。

 元木は、左遷された職場でひとり、のちに「とてもいい発想だったけど、時代が早すぎたね」と言われたオンラインマガジン『web現代』を立ち上げる。

 この『web現代』に連載した第一線で活躍するジャーナリスト、ノンフィクション作家、編集者たちのインタビュー記事を『編集者の学校』(2001)として刊行する。当方も愛読した。熟読した。記憶に残る一書である。

 元木は、さらにその後子会社に左遷され、定年を迎える。だが『編集者の学校』を刊行したことで、定年後の人生が開ける。いくつかの大学から招聘される。

 ――個人事務所をつくった。肩書は編集者。

 名刺の裏には、私の略歴が小さな活字で印字されている。見る人にとっては見にくくて迷惑だろうが、私にすると、オレのこれまでの人生は名刺半分にしかならないのだと感慨深かった。(本書)

 野垂れ死に同様の“戦友“たちのことについては、元木は機会あるごとに「あの時代を一緒に駆け抜けて来た仲間のことを書き残すことは、後に残った者の義務である」と考え、書いている。たとえば……。

 ――年を取って働けなくなるとあっという間に下流老人になってしまう。大きな賞である大宅壮一ノンフィクション賞をとったノンフィクション・ライターでも苦しい生活をしている人が多くて、地方にいて東京に出てくる電車賃がないという人もいます。病気をして奥さんが救急車を呼んだけど「カネがないから入院しない」と救急車を返してしまった先輩ライターもいる。(『現代の“見えざる手”――19の闇』2017)

 本書では『週刊現代』で組み、小沢一郎を追い、多くのスクープを放った松田賢弥(1954~)について書いている。松田は、のちに妻子と別れ、脳梗塞に倒れ、生活保護で病院の支払いをすれば手元にはほとんど残らない日々に。フリーのライターのやりきれない末路を描いている。

 著者はネット上で、週刊誌時評を続けている。その巻末付録でセクシーグラビアを紹介するのもいいが、できればもっと多くのライター、編集者の“挽歌”を記録に残してほしい。

元木昌彦★野垂れ死に

 

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