02/作家という病気

2021.06.07

02/作家という病気◆T版2021…………◎高野慎三・神保町「ガロ編集室」界隈◎荒俣宏・妖怪少年の日々 アラマタ自伝◎常盤新平・片隅の人たち 

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02/作家という病気
高野慎三◆神保町「ガロ編集室」界隈 

2021.2/筑摩書房

 

それにしても、読者の若さに注目する前に、作家の若さにもいまさらながら驚嘆する。


この頃、一番年長の水木しげるさんが40歳をこえたばかり、白土さんと滝田さんが、34、5歳、つげ義春さんが29歳、忠男さんが26歳だった。楠勝平、勝又進、池上遼一、林静一、佐々木マキ、つりたくにこさんらは、全員19か20歳そこそこだった。

 

つまり、楠さん以下はみな読者とほぼ同年齢だったのである。

 

「ガロ」の読者欄で、これら若い作家の作品に向けて賛否の大論争が延々と展開されたのは、それぞれの作品が十代の読者の心情を代弁するものと受けとられたからだろう。

 

*

漫画家たちの言動もさることながら、当方は山根貞夫、林静一、著者の3人と映画監督加藤泰との交流が興味深かった(当方は加藤泰ファン)。

1965年に「明治侠客伝 三代目襲名」を見た後、加藤泰から目が離せないと、ついに3人は京都太秦の撮影所を訪ね、インタビューをし、70年に『遊侠一匹 加藤泰の世界』300ページの布張り上製本を刊行するに至る。

さらに77年『江戸川乱歩の陰獣』では監督の要請にこたえ林静一の美しい少女の緊縛画2点が画面に登場する。

 

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02/作家という病気
荒俣宏◆妖怪少年の日々 アラマタ自伝 
2021.01/KADOKAWA

 

物事の起源を知るために古いものごとを捜索することは、本質的に「神かかり」の技である、とわたしは確信している。

 

何かを再発見するという行為は、なにかの偶然が作用するものでなくてはならない。

 

すぐにたどり着ける発見などは、最初から発見ではあり得ない。

*

鈴木牧之「北越雪譜」の影響を受けたという記述がある。江戸後期には自由な学問である博物学が流行した。妖怪研究も博物学は拒否しなかった。『北越雪譜』の「鮭」や「異獣」の記述姿勢は、近代的な意味での「情報」になっている点が尊い、と。

――平凡社に住み着き、約8年を要した『世界大博物図鑑』の執筆を開始してからのことだ。『北越雪譜』と同じように、わたしの本でも挿絵を重視し、動物の「民話的な知識」をなるべく情報文書のように淡々と記した。(本書)

 

 

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02/作家という病気
常盤新平◆片隅の人たち  
1992.12/福武書店=2021.01/中央公論新社

 

「翻訳なんて缶詰みたいなもんですよ、そう思いませんか」
望月は言って、ロング・セラーをつづけできた、ある翻訳小説を挙げてみせた。
「あれだって訳文はもう古いですよ。

 

原書は古くならないが、翻訳のほうは古くなるというのが僕の持論でね。翻訳 なんていわば耐久消費材じゃないですか。何年かたつと古くなってくる。読めないことはないけれど、訳文にガタが来ている。〔…〕昭和のものよりかえって明治時代に翻訳された『即興詩人』や二葉亭四迷のものが残っている」

 

翻訳者などとるにたりない存在だと望月は自嘲しているようだった。僕も彼の言うとおりだ
と思った。(「新しい友人」1992)

 

*

直木賞受賞の“青春小説”『遠いアメリカ』(1986年)の前後、昭和30年代の翻訳者たちの生活を描いた連作短編。

 

 

 

 

 

 

 

 

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2021.03.05

朝井まかて◆類                       …………森類が見つけた「小倉日記」から松本清張「或る『小倉日記』伝」の方へ

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「松本さんって、あの小倉日記の方でしたね」
 二人とも、父の日記について口にする時は背筋を立て、粛とした声音になる。

 類が発見し、美穂が浄書した日記なのだ。美穂は体調を崩していたにもかかわらず、蒼黒い顔をして筆を走らせ続けた。

 それが昭和25年のことで、3年後の昭和28年1月、松本清張は『或る「小倉日記」伝』という短編小説で第28回芥川賞を受賞した。候補作となったのは前年の「三田文学」9月号に掲載されたものであったと知り、思わず唸ったものだ。

 日記の発見が公表されて2年ほどしか経っておらず、着想を得てすぐさま執筆にかかったのではないかと推したからだ。〔…〕


 そして才能への羨望と自らへの落胆で、肩を落とした。
 僕はなぜ、こういう小説を思いつかなかったのだろう。
 僕こそが当事者であったのに。

 かたや、美穂は髪の生え際まで真赤に上気させていた。千乗書房の帳場で受賞作を読み終えるや、一気に駈け上るような話し方をしたのだ。

 この小説の主人公、鷗外の小倉日記の行方を捜して生涯を懸けてしまったのでしょう。それで彼が息を引き取った後、鷗外の遺族が日記を発見するという筋立てだわ。この遺族って、私たちのことですよね。

類 朝井まかて /2020.08 /集英社


森 類(もり るい)
 森鷗外には、於菟、茉莉、不律、杏奴、類の5人の子どもがいて、この物語の主人公である類は1911(明治44)年生まれの末子である。パリへ画業遊学、文化学院の美術科講師、本屋「千朶書房」経営、「鷗外の子供たち」(1956)刊行後、 同人誌「小説と詩と評論」に参加し小説を発表。1991(平成3)、死去。

 類は、父に呼びかける。
「僕はこの日在の家で、暮らしているよ。
何も望まず、何も達しようとせず、質素に、ひっそりと暮らしている。
ペンは手放していない。波音を聞きながら本を読み、時には随筆を、そして娘たちに手紙を書いている」 (本書)

 当方は、娘に「こうも綺麗で無邪気な笑顔をする大人っているかしら」といわれる類に興味があるのではなく、唯一の関心事は上掲の「小倉日記」をめぐる話である。

 松本清張は『或る「小倉日記」伝』は、冒頭、鷗外に関する著作をもつ詩人K・M(木下杢太郎がモデル)のもとに小倉市に在住する田上耕作(初出の「三田文学」では上田啓作)という人物から、森鷗外が軍医として明治32年から数年間小倉にいたころの事蹟を調べているが、同封のその草稿が価値あるものかどうか見ていただきたいという趣旨の手紙が届く。

「四十年の歳月の砂がその痕跡を埋め、も早、鷗外が小倉に住んでいたということさえこの町で知った者は稀だと」と田上は書いている。小倉時代の鷗外の日記が所在不明となっているため、その空白を田上耕作が埋めようとする試みである。

 清張の小説の主人公田上耕作は、身体障害者である。幼少時から、口はだらりと開けたまま言葉がはっきりせず、片足の自由もきかなかった。そのハンディを抱えながら、10数年にわたって、母や友人の協力を得て、鷗外の足跡を訪ね回り、昭和25年、25歳で死ぬ。その翌年……。

 ――昭和26年2月、東京で鷗外の『小倉日記』が発見されたのは周知の通りである。鷗外の子息が疎開先から持ち帰った反古ばかり入った箪笥を整理していると、この日記が出てきたのだ。田上耕作が、この事実を知らずに死んだのは、不幸か幸福か分らない。(松本清張『或る「小倉日記」伝』)

 田上耕作は実在の人物である。鍛冶町の森鷗外旧居を探りあてたことで知られる。ネットを調べると、曽田新太郎「セピア色の詩風景」という一文に出会った。こんな一節がある。

 ――松本清張の「或る『小倉日記』伝」は昭和26年の初夏に朝日新聞北九州版に載った小さな記事がきっかけで書かれた。それは、鷗外研究家・田上耕作の七回忌を伝えるものだった。清張は誰もが見落とすような、あるいはさっと流されるような小さな記事から小説を作り出す手法を生涯のなかで何度も用いている。この時もそうだった。

 田上耕作が鷗外の足跡を手繰っていったように、清張もまた耕作の足跡を手繰っていった。だが耕作が生涯かけた原稿類もまた戦時中に某住職に預けたが、その後行方不明となっていた。

「セピア色の詩風景」には驚くべきことも書かれている(周知の事実らしいが)。「実在の田上耕作は、小説の主人公のように不遇の人でもなく、暗い生活も送っていなかった。また、神経麻痺と栄養失調のために病の床で寂しく死んでもいない。実在の田上耕作は昭和20年6月29日の門司空襲で死亡した」。享年45歳だったという。

 当方の古いブログに、「小倉の松本清張記念館を訪れたことがあり、復元された書斎だけが印象に残っている。そしてご当地ものとして『或る「小倉日記」伝』を読み、以来、当方にとってもっとも好きな清張作品となった」と書いている。

 しかし実際に初めて読んだのは高校生の頃で、読後の「切なさ」が記憶から離れずにいた。当時教科書で習った国木田独歩『忘れえぬ人々』以来、「切なさ」が今もかわらぬ当方の小説やノンフィクションの評価指標となっている。

 

 

 

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2020.12.17

02/作家という病気◆T版2020年…………◎石原慎太郎/坂本忠雄・昔は面白かったな

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石原慎太郎/坂本忠雄★昔は面白かったな――回想の文壇交友録 2019.12/新潮社

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 政治はね、発想ですよ。何か足りないな、という感覚。


〔都知事として〕一つやり残したのは、隅田川の沿岸をテムズ川沿いの観光地みたいにどうにかしようと思ってたことだね。

 あそこの横、高速道を走ると何にもないでしょ。ビルというビルは全部川にケツ向けてるし、何も味わいがないんだな。

*
元「新潮」編集長坂本忠雄を相手に“文壇裏話”。秘話満載なので、あと3つほど……。

 江藤〔淳〕が困っていたから、僕は素晴らしいお手伝いさんを紹介したんですよ。〔…〕
 女性は綺麗で品の良い人でね、彼は奥さんが亡くなった後、自分の余生を彼女に預けられると思ったと思うんだ。女性に対する思慕みたいな、性的意味もあったかもしれないよ。
 で、その人が、お手伝いさせていただきますっていうんで、軽井沢の実家まで身のまわりの物取りに行ったんですよ。それで、帰ってこなかったんだ。そのとき、すごい寒冷前線が通ってて、僕は都庁にいたんだけど、都庁にも落雷して、ビルの外側が剥がれて落ちたりしてね。あそこは高層ビルでしょ。ビルとビルの間を雲が通っていくの。そのすごい寒冷前線で嵐が来たんですよ。彼女もそれで帰宅が遅れたんだ。電車も立ち往生して。それで「遅れて申し訳ありません」って帰ってきたら、風呂場で死んでたんだ。
 結局その人にも見放されたと思ったのかな。変な喪失感があったんだな。本当に孤独だったからね。茶毘に付すとき、「あの嵐がなかったら死ななかったと俺は思うな」
*
 江の島の並びの一番端に有名なステーキハウスがあって、そこのオーナーがヨット仲間でね、ある時、「石原さん、今だから言いますけど、うちの店、一番上の三階に小部屋があって、川端〔康成〕さんがよく使われたんですよ。

 若い女の子を呼んで、夜中から朝の三時四時まで、ずっと川端さんと一緒にいました」。「何してたのって聞くと、「さあ、わかりません。触ったぐらいはしたのでは」だってさ(笑)。
*
 まあ、あの頃の文学賞は本当にいやらしかったな。吉行淳之介みたいな大して才能のない、限界の知れた連中が飲み屋で集まって文学賞を決めてたんだからさ。僕の「わが人生の時の時」も、吉行とは大喧嘩したよ。もう、どうでもいいけどさ。〔…〕

 とにかく吉行とは合わなかったな。
「文学界」の座談会でさ、「お前が芸術院なんてチャンチヤラおかしいんだよ。早く俺を推薦して芸術院会員にしろよ」って言ったら、「僕は君を必要としてない」って。「必要としてない? お前の本なんか必要とされてないから全然売れねえじゃないか。俺は必要とされてるから、たくさん本売れてるぞ」、「お前、飲み屋で人の作品けなしたりするのやめろよ。姑息でいやらしいやつだな」って言ってやったの。

 あまりに険悪なんで編集者が困って、結局そのやりとりは削ってしまったけどね。

 

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2020.11.20

白石一文★君がいないと小説は書けない      …………人間は生きたいと願うのと同じように常に死にたいと願う動物だ

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「短くて波乱に満ちて、ものすごく充実した現実」のような人生を送れば、人はみな「長くて退屈でひどく空しい夢」のような人生から解放されるのであろうか?

 それはそうだろうと思う。

 だが、人間はなかなかそういう人生を送ることができない。〔…〕

 要するに、私たちは自分自身の意志で「長くて退屈でひどく空しい夢」のような人生を選択しているのだろう。特に強く執着しているのが「長くて」の部分だと思う。

どんなに波乱に満ち、愉快な人生であったとしても、それが「短い」というのはどうにも私たちには受け入れがたい。それならば、退屈で空しくても「長く」続く人生の方がまだマシだと考えているのではないか?

 突然、不治の病を宣告された人たちが、にわかに人生を輝かせ始めるのは、この「長くて」といぅ条件を否応なく外されてしまうためだろう。そうなると「退屈でひどく空しい」人生にしがみついている必要がなくなる。必然的に「波乱に満ちて充実」した人生へと一歩を踏み出さざるを得ないというわけだ。

 どうして私は、このいかんともしがない虚無の心境からいつまで経っても抜け出すことができないのか?〔…〕

 一言で言うと、私には「理想の人生」が見つからなかったのだ。

 

★君がいないと小説は書けない /白石一文 /2020.01 /新潮社


 白石一文の作品を読むのはまだ3作目だ。

 この作家はエッセイを書かないが、小説の中にエッセイやミニ論文を挿入するし、インタビューには応ずるが対談はしない。したがって雑談とか無用のはなしを書かないので、そのたぐいのエッセイ集がなく、孤高の作家のようにみえる。それが「自伝的小説、堂々刊行」と惹句にあるから、手に取った。だがあまりにも多くのものを包含した作品なので、どの部分を紹介しようかと迷う。

 タイトルにある「君」とは、小説家野々村保古のパートナーの魅力的な女性「ことり」である。ことりと初めて知り合い、ともに生活し、巻末のことりの不倫疑惑までの約20年の愛を描いたもの。その最後の部分で小説自体は“破綻”しているが、それはともかく「ことり」という同じ名をもつ別の実在した人物を含めて、三人のことりについて書こうか。

 また同じ直木賞作家の父である白石一郎から物を書く秘訣を教えられた話もある。「文章を書くというのは、紙の上で喋るということだ。ペンを使ってちゃんと喋れるようになれば、それでいいのだ」。このエピソードを紹介しつつ、20年以上も前に若い女性の編集者から当方の「だ」「である」調や体言止めの文体を全面修正され打ちのめされた経験でも書こうか。

 なんといっても文藝春秋社の社員時代の芥川賞、直木賞、大宅壮一ノンフィクション賞などの裏面を赤裸々に描いた実録小説風な場面や、どうやれば社長になれるか、上司、同僚の出世する方法を描いた会社小説的な部分が受けそうだから紹介しようか。

 といろいろ考えたが、この作家には、鬱状態、胃腸の不調、呼吸困難という持病があり、全体の基調が死についての考察である。「50歳を過ぎた頃から、目の前に伸びている道が未来に繋がっているのではなく、過去へと通じているような、そういう感覚に浸る時間が徐々に増えていった。〔…〕なかでもとりわけよく見えるのは、死んだ人たちの姿だ」。

――そもそもこの時代に小説を必要とする人間などどこにもいやしない。(本書)

 ここでは死についての考察をランダムに紹介したい(“共感”しているわけではない)。

*

苦痛の中の死は、死それ自体と同等か、場合によってはそれ以上に恐ろしい。

 

死とは視点の喪失であり、未来に自分が存在しないという現実である。

 

私の心には一切の不安がなかった。理由はすこぶる単純で、

――肉体的にしろ経済的にしろ、万事休すとなったら死んでしまえばいい。

と腹を括っているのだ。

 

突然の死はいまでも十分に恐ろしいが、自ら死を選ぶという一点において私に一片の恐怖もない。

 

わざわざ自殺などしなくとも、人間は、死ぬと決意すればちゃんと死ぬことができる。〔…〕これまで莫大な数の人々が名誉や自己犠牲、信念に殉ずるために死を選んできた。

 

人生はいずれ死をもって終止符を打つ。だとすれば、人間にはおそらく死ぬに最も適した時期というものがあるのだろう。

 

確かに、人間は生きたいと願うのと同じょうに常に死にたいと願う動物だ。

私たちに分からないのは、自分が死ぬかどうかではなく、自分がいつどんな形で死ぬかということだけである。

 

「寿命」とは「生き恥」の対義語なのである。

私自身は、肉体的にしろ経済的にしろ、もうこれ以上生きられないと判断した時点――そこが人生に終止符を打つべき適切な死に時だと考える。

そのときは「死のう」と覚悟を固めるつもりなのだ。

 

私たちは私たちがふだん信じている何倍から何十倍ものレベルで精神(こころ)の支配を受けており、意識するしないにかかわらず「生きたい」と願っているからこそ生きているのである。

つまるところ、人間は「死にたい」と願えば死ぬのだ。

 

死のうと思って死ねるのであれば、生まれようと思って生まれることができるのではないか?

死ねる能力は生まれ(られ)る能力と対をなしているのではないか?〔…〕

だから私は、自殺できるということは誕生できるということでもある、と考えている。〔…〕

人間は、他の動物たちとは異なり、自ら生まれようと決心して生まれてくるのだろう。

 

Amazon白石一文★君がいないと小説は書けない

 

 

 

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2020.10.18

花房観音★京都に女王と呼ばれた作家がいた           ………… 山村美紗の死後、“美紗命”の男二人は

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 山村美紗の死後、肖像画を描き続ける夫の山村巍(たかし)。

 山村美紗をモデルにして、ふたりの恋愛を小説にした西村京太郎。〔…〕

 もしもそれを愛と呼ぶならば、その愛は、私には狂気にすら思えた。「執着」という言葉が浮かぶ。ひとりの女に対する、男たちの執着は、彼女が亡くなっても彼らを捕らえて離さない。

 夫の描く絵、京太郎の小説、どちらからも漂ってくるのは、山村美紗への執着だ。

 彼らはまるで山村美紗に取り憑かれているかのようだ。

 亡くなったあとも離れない女の念が、絵や小説を描かせたのか。

 そう思わずにはいられないほどに、山村巍が描いた美紗の肖像画からは、強い念が漂ってくる。そして小説『女流作家』からは、美紗がどれだけ魅力的で愛されていた女だったかということを残したい、という切々とした想いが伝わってくる。

 

京都に女王と呼ばれた作家がいた――山村美紗とふたりの男 /花房観音 /2020.07 /西日本出版社


 山村美紗は、京都に住み、京都を舞台にしたトリック重視のミステリーを書き、その作品の多くは2時間ドラマとなり、人気を博したベストセラー作家である

 たとえば1994年の“長者番付”では、1赤川次郎、2西村京太郎、3内田康夫、4司馬遼太郎、5山村美紗という順位であり、女性作家のトップだった。文学賞受賞歴なく“無冠の女王”。

 本書には154冊の著書リストが掲載されているが、22年間の作家生活で本の売上げは3千万部を超え、100本以上がドラマ化されたという。

 じつは当方、1冊も読んだことがない。だが”噂”は知っている。

『文藝春秋』の広告が毎月10日の新聞に出ると、同日発売の『噂の真相』を買いに本屋を覗いた。週刊誌が書かない文壇のスキャンダルが記事になり、山村美紗はしばしば登場した。

 とびらに足立三愛のイラストがあり、実在の人物とは関係ありません、という注釈付きで、山村美紗と西村京太郎とおぼしき二人が裸で絡み合っているのもあった。

 作品を売るためには、自らもミステリーな存在に、スキャンダルも華のうちと考えたいたようだ。京都東山に移り住んだとき、隣りに引っ越してきた西村京太郎邸とは地下通路でつながっていた、という噂も同誌で知った(夫の巍は目の前のマンションに居住、と本書にある)。

 ――既に長者番付の作家部門上位にいる京太郎とコンビを組むのは、美紗にとって必要なことだった。京太郎を自分の盾にして、出版社への圧力にする。ふたりで編集者を京都に招き、もてなし、仕事につなげる。

 今以上に売れるために、「同志」と隣同士に住む。〔

 出版社は、京太郎の原稿をもらうためには、まず美紗のご機嫌をうかがわねばならなかった。だから美紗にも依頼をする。京太郎だけに挨拶をして帰るなんてことは、できない。(本書)

 山村美紗は、1996年9月5日、東京帝国ホテルのスイートルームで執筆中に心不全で急死する。65歳(公称では62歳)であった。

 当方がもっとも興味があるのは、“美紗命”だった男二人のその後である。

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山村 巍(1928~)

 1994年に高校の数学教師をやめていた巍は、美紗の死の2年後から画家に師事しデッサン・油絵・人物クロッキーを習い、美紗の肖像を描いた。

 2003年に美紗によく似た美術モデルの祥と出会い、2008年に80歳で、その39歳年下の祥と再婚した。2012年、近鉄百貨店上本町店「山村美紗とともに~山村巍と祥」ふたり展を開催。

 現在、美紗の絵は描かず、もっぱら猫の絵を描いている。

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西村京太郎(1930~)

 1996年、美紗の死から3か月後、呪縛から解かれたように京都から湯河原に転居し、そこで10歳下の現在の妻と出会う。

 1997年、美紗未完の「在原業平殺人事件」「龍野武者行列殺人事件」を完成させ、共著として刊行。2000年、美紗をモデルにした「女流作家」刊行。2006年に続編「華の棺」を刊行。

 2001年、湯河原に西村京太郎記念館を開館。展示に美紗の痕跡はいっさいなし。現在もトラベル・ミステリーを書き続ける。出版社では美紗の話はタブーとなっている。

 

 いかに“ミステリーの女王”といえども、死後、夫が80歳で再婚したり、“愛人”が痕跡をすべて消すとは、想定外であったろう。

 

花房観音★京都に女王と呼ばれた作家がいた

 

 

 

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2020.09.18

坪内祐三★みんなみんな逝ってしまった、けれど文学は死なない。      …………歯に衣着せぬ発言から、( )書き多用の文章の方へ

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「〔名探偵エルキュール・ポアロの言葉〕

 椅子に坐ったままで考えるだけでじゅうぶんなんですよ。働くのは、ほれ、この頭ですよ」
 その手法を吉田さんは“アームチェア(肘掛け椅子)・ノンフィクション”と呼んでいる。
 しかし実はそれだけではない。吉田さんは調査を怠らない。私は偶然それを目撃した。

 いや、その前に。
 私は吉田さん以外の団塊の世代のノンフィクション作家の殆どが嫌いだ。
 パクリ屋たちばかりだ。
 しかしこれは彼らの出自に関係している。
 つまり、週刊誌のアンカーマン上りだからなのだ。


 アンカーマンはデータマンが集めてきた資料に目を通し、それをパッチワーク的に文章にまとめる。そのやり方が体に染まっているのだ。


 その点で、そのやり方(パクリ)が明らかな佐野眞一はまだ良心的だ。
 もっとセコいのは猪瀬直樹だ。猪瀬直樹は直接パクルことなく加工して誰かの研究を盗用するのだ(幾つだって例をあげることができる)。
 その中で吉田さんは違う。

 ――「マイ・バッド・カンパニー 吉田司さん」

★みんなみんな逝ってしまった、けれど文学は死なない。/坪内祐三 /2020.07 /幻戯書房


 上掲の吉田さんとは、『下下戦記』、『宮澤賢治殺人事件』等傑作ノンフィクションをもつ吉田司(1945~)のこと。
「月刊現代」「論座」「ダカーポ」「エンタクシー」などの発表誌が休廃刊、担当編集者が退職したりして発表機会を失った吉田司にエールを送った文章。

 だが、その「いや、その前に。」とあるようにここは横道にそれた部分だ。坪内祐三の文章は、歯に衣着せぬ発言があったり、急に横道にそれたり、( )書きを多用したり、変幻自在というか、行き当たりばったりにみえる。

 その坪内祐三が若くして亡くなった(1958~2020)。

「本の雑誌」が「さようなら、坪内祐三」という特集を組み、 「ユリイカ」は「総特集=坪内祐三」の臨時増刊号を出し、それぞれ友人諸氏、同業者、編集者たちのおびただしい追悼文、コメントを掲載した。「新潮」「文学界」「群像」にも追悼文が出ている。こんなに人気のあった(あるいは畏敬された)文筆家だったのかと驚いた。
 
 以下に紹介する本書の「跋」(これも追悼文だが)を書いているこの平山周吉は、上記の「本の雑誌」「ユリイカ」「新潮」にも追悼文が掲載されており、坪内と親しい編集者仲間だったらしい。

 



 ――しつこいのを承知で、追悼文「坪内さんの電話」から三たび引用をする。

「はい坪内です。あもしもし名嘉真さん手紙ありがとう。あのねオレこの時間朝仕事場来て雑誌に目を通したりしたい時間なんだよ。だから11時から12時の間ぐらいにまたかけ直してくれない」

 実際に電話をしたことがあるならばご承知だと思いますが、坪内さんは非常に早口でした(油断していると聞き取れないことも)。

 最初の電話(1分で終了)を置いた時、(さすが東京人だ)と私は思いました

(余談ですが坪内さんの文体で特徴的なのはこんなふうに文末に(  )で註釈を入れることでそれが時に文章本体より長くなることもありました。

 そしてそこには読点「、」をあまり入れさせなかったのですが、もしかするとそれは本人の早口を文体上再現しようとしていたのかもしれない)。

――平山周吉「東京タワーなら倒れたぜ」



 ここに登場する名嘉真(春紀)さんとは、幻戯書房の編集者(本書を担当)で、この引用された追悼文「坪内さんの電話」は「ユリイカ」に掲載されたものである。

 当方は『靖国』(1999)『慶応三年生まれ 七人の旋毛曲り』(2001)『一九七二』(2003)など、編集者出身らしくユニークな視点の坪内に魅かれた。文壇ゴシップも楽しんだ。しかしいつの頃からか坪内本を敬遠するようになった。

 この人の文章は、パソコンで打ったものでなく手書きであろうと思われ(それはそれでいい)、その( )書き多用の文章、酔っぱらいながらだらだら書いているんじゃないでしょうね、思いついて( )書きで補足したり、いったん書き上げれば書き直しはしないんだろうなと、たまには添削しなさいよ、と気になって仕方がない。
 なぜあちこち( )で括るのか理解できなかった。註釈とは思いもしなかった。( )書きがあるとイライラした。速読のリズムが乱された。

 これまで当ブログで坪内祐三を十数冊とりあげているが、こんなメモが残っている。
 曰く、おなじみ( )書き多用の坪内祐三の文体。読んでいて呼吸の仕方が分からなくなり、苦しい。曰く、この書評はいい、いつものやたらカッコ書き多い文章でないのも、いい。曰く、このやたらに( )つきの文章に疲れる。曰く、これは( )書き多用のメモ書きのような文章でないのが何よりすばらしい。

 じつは坪内祐三への追悼文あまたあるなかで、その( )書き多用の文体に触れているのは、この平山周吉が引用した名嘉真春紀「坪内さんの電話」のみである。さすが名編集者。

(以上、けっこう坪内文をマネてみました。書きながらイライラした)

 ついでに書けば、坪内に作家の追悼特集について書いたものがあり、たしか文芸雑誌に掲載される追悼文の多寡は、作家の死亡年齢とリンクし、あまり高齢で亡くなると追悼文を書ける同時期の作家がいないためで作家の評価ではない、とあった。さて、坪内祐三の場合は?

 

Amazon坪内祐三★みんなみんな逝ってしまった、けれど文学は死なない。

 

 

 

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2020.07.07

林真理子★綴る女 評伝・宮尾登美子        …………「あなたはあんなに宮尾さんに可愛がってもらったのに、悪口を書いているって古い編集者たちが怒っているって聞いたわよ」

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 そんなことよりも、瀬戸内〔寂聴〕が宮尾を受け容れられないと思ったのは、作品についてのこんなひと言であった。

「瀬戸内さんが『源氏』を書いてしまったから、私は『平家』にするわって。
瀬戸内さんが『源氏』書くためにマンション買ったから、私は家を一軒買うわって」


どうやら宮尾は、4歳年上の瀬戸内をライバル視していたようだ。どちらも文壇のスターである。

★綴る女 評伝・宮尾登美子 /林真理子 /2020.02 /中央公論新社


 当方、宮尾の作品を読んだのは唯一『仁淀川』(2000)である。その頃タイトルに「河」とか「川」がつく本を集中して読んでいた。たしか高知の郊外の仁淀川のほとりに住み、農家の嫁として暮らしながら文学の夢を捨てられないという自伝的な作品だった。仁淀川そのものの描写に魅力的なフレーズがなかったためか、当方のブログやツイッターに記録を残していない。

 当方にとっての宮尾は五社英雄監督の映画『鬼龍院花子の生涯』(1982)、『陽暉楼』(1983)、『櫂』(1985)によってである。五社英雄のあざとい演出が嫌いではなかった。そして本書にも引用されている『噂の眞相』のゴシップも記憶にある。

「大御所女流作家宮尾登美子の盛大な誕生会が開催。朝日の中江〔利忠社長〕や文春の田中〔健五社長〕に混じり小泉純一郎出席」(『噂の眞相』1998年6月号)

 宮尾登美子のイメージは、女優の奈良岡朋子に似て、かつ「足袋つぐやノラともならず教師妻」の俳人杉田久女のような人であった。

 ――「私はいつか、先生の伝記を書きたいんです」
「あら、いいわよ」
即座におっしゃった。
「その時は何でも話してあげる」
と約束してくださったものだ。(本書)

しかし宮尾の生前には、直接の取材も実現しなかった。だからこそここまで書けたのだろう。

 ――「マリコさん、あなたの連載の『綴る女』、読んでいるわよ」
と言われて、すっかり恐縮してしまった。
「でも、あなたはあんなに宮尾さんに可愛がってもらったのに、悪口を書いているって古い編集者たちが怒っているって聞いたわよ」
歯に衣着せぬ、といった、いつもの瀬戸内の口調である。(本書)

 本書を読んだ後の宮尾のイメージを追加するとすれば、“かっぺ”である。成り上がった“かっぺ”である。それは作者の林真理子に重なるのだ。

 謎が残ったのは、――。最初の夫、前田薫と離婚し、1964年、高知新聞社学芸部記者の宮尾雅夫と再婚する。一世を風靡したベストセラー作家の華やかな交流歴に比して夫として宮尾雅夫は表舞台にいっさい登場しない。当方の最も知りたかったのは、宮尾の作品執筆にどのようにかかわっていたか、その“秘密”は明かされていないことだ。

 

 Amazon林真理子★綴る女 評伝・宮尾登美子

 

 

 

 

 

 

 

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2017.06.03

小玉武★開高健――生きた、書いた、ぶつかった!  ☆サントリー後輩による連作エッセイ風評伝

 

20170603

 

年譜的に開高自身の閲歴を見ると、自筆のものも含めて、開高の生涯は断絶することなくその行動がよく書き込まれていて、作品の執筆と日録的な動きがほぼきちんとつながっているようだ。

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しかし開高の全体像においては、見えない陰の部分が、今もって数多く存在する。理由は明白で、簡単なことだ。

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それは、このすぐれた小説家の伝記的な研究が、やはりまだ不十分ということなのである。

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そのため、単なる開高伝説に惑わされていることが少なくないのではあるまいか。ひとは“伝説”を壊すようなことを、あえてしたくないからだ。

 

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★開高健――生きた、書いた、ぶつかった!|小玉 |筑摩書房|20173| ISBN: 9784480818447|評価=◎おすすめ

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むかし神戸三宮の高架下に10人坐ればいっぱいというトリスバーがあり、仕事帰りにときどき寄り道した。カウンターに「洋酒天国」があったという記憶はないのだが、サントリー・ホワイト(白札)を飲むとちょっと贅沢気分になった。サントリー・オールドが世間を席巻するのはまだ先のことで、当時は水割りでなくハイボールが全盛だった。

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そのころ1962年に、著者は開高健より8年、山口瞳より4年遅くサントリーに入社した。そしてサントリー宣伝部の黄金時代を迎える。本書は、あとがきで「私のような経歴の者にとって、本書のような主題、すなわち開高健の生涯を辿るという試みは、たとえれば丹沢くらいしか登ったことのないものが岳をめざすようなことなのである」と謙遜しているが、この評伝、各章に趣向を凝らし、それが連作エッセイの趣きとなり、好ましい。

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上掲の開高健の「見えない陰の部分」の一つと思われるのが、悪妻牧羊子との関係である。晩年、世界各国を釣魚旅行をしたのはひとえに妻から逃れるためと、当方などインプットされている。“谷澤史観”というべきか。畏友・谷澤永一、向井敏などの牧羊子批判は徹底していた。『週刊プレイボーイ』編集者島地勝彦は谷澤と酒を飲むと、「いつも牧羊子の悪口ではじまり悪口で終わった」と書いている

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しかし本書は牧羊子擁護派である。佐治敬三夫妻を正餐に招いたり、武田泰淳夫などを招いて妻と娘の手料理でもてなすなどのエピソードを紹介し(その晩餐を扱ったエッセイは武田百合子「開高さんと羊子さん」『あの頃』所収)というがある)、茅ヶ崎転居後の「家庭内別居」発言などは開高健の「お道化=ピカロ精神」だと著者は言う。

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ところで開高健といえば、『夏の闇』のモデル探しがある。早大露文科出身でのちに交通事故死した子という愛人の存在は、水口義朗『記憶に残る作家 二十五人の素顔』の「開高健さん、その人の名は言えずで知った。また川西政明『新・日本文壇史』第10巻にも詳しい。本書では「面白半分」編集者佐藤嘉尚が明らかにした娘・道子のバイオリンの家庭教師だった恵美子という別の“愛人”も登場する。

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 さらに牧羊子が懇望した司馬遼太郎の弔辞では、開高のある作品の「永遠の女性」は「おそらく牧羊子さんがその原形でありましょう」と司馬が述べたことで、著者は「ということは『夏の闇』の「女」の原形のひとりとして、牧羊子が存在していると仮定しても、あながち納得できないことではない」と第3の女にしてしまう。

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 それはともかく、開高健には女性ファンが多く、面会謝絶の開高健の病室に侵入した釣り好きが嵩じて環境運動家になった 天野礼子川を歩いて、森へ 

 編集者として開高健の“私設秘書”ののちワイン研究家になった 

細川布久子(『わたしの開高健』)

 

この柳原良平の表紙イラストは本書の表紙と同じもの)などに著作がある。

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 以下は、ノンフィクションについての開高健の発言を本書から孫引き。

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 ――究極的にそれは心による取捨選択の結果生まれるものなのであるし、文字を媒介にするしかないものなのであるから、ノン・フィクションはあくまでもノン・フィクションであると知っておきながら同時にそれはフィクションの別の一つの形式なのだとも知っておかなければなるまい。(中略)だからこうなってくると、ノン・フィクションとフィクションのあいだにはほとんど膜一枚のへだたりもないのである。(『開高健全ノンフィクション』Ⅱ「頁の背後」)

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――ノンフィクションで書こうが、フィクションで書こうが、言葉、文字でやっている限り、すべてフィクションだと思うんだけれども、そうは言ってもやはり、ノンフィクションとフィクションの二種あってね。ただ、ノンフィクションで書いてても、こちらがうまく乗れたときね、そうすると、これはやはり歌のような気もする。ノンフィクションの素材の要求する歌……。 (江藤淳との対談集『文人狼疾ス』「作家の経済学」)

 

 

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2017.05.04

梯 久美子★狂うひと――「死の棘」の妻・島尾ミホ

20170504

 冒頭に、タイトルとおぼしきものが書きつけてあった。

 死の棘 妻の場合。妻の側から。

 ミホは『死の棘』の時期のことをみずからの手で書こうとしていたのだろうか。心臓の鼓動が速くなった。もし原稿が残されていれば、未発表作品の発見ということになる。

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 はやる心を抑えて残りの箱を開けていく。いくつ目かの箱からコクヨの原稿用紙の束が出てきた。冒頭にタイトルが記されている。

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「死の棘」の妻の場合

 やはりそうだった。妻の側から見た“もうひとつの『死の棘』”をミホは書いていたのだ。

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 しかし原稿は未完だった。四百字詰め原稿用紙で22枚。文章は粗く、叩き台といった段階のように見える。目を通したところ、夫の日記を見て錯乱したときの描写は「死の棘メモ」と題されたノートに記されていた内容とほぼ同じである。

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★狂うひと――「死の棘」の妻・島尾ミホ |梯 久美子|新潮社|201610|ISBN9784104774029 |

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 その出版社の本だから読むということがある。辺見じゅん亡き後も幻戯書房の本にずっと注目している。その一つとして島尾ミホ『愛の棘』というエッセイ集を手にした。

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 島尾敏雄の『死の棘』は読んだことはないが、この作家が一時期神戸に住み、教師をしていたことを知っている。本書に収録されているエッセイでも、子どもが生まれたら、六甲、摩耶という名をつけたいと夫婦で話していたと書かれている。

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 しかし島尾敏雄の妻だったミホについては、『死の棘』の“狂乱の妻”というイメージしかない。『愛の棘』を読んで島尾ミホは南島での少女時代の記憶を綴った『海辺の生と死』で、吉野せい『洟をたらした神』とともに、1975年に田村俊子賞を受賞したと知った。のち自らも作家となる。

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 これは「御跡慕いて――嵐の海へ」(2006 の終わりの部分だが、この文体にはついていけない。

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――島尾隊長様に生きてお目にかかれる事が叶うやも知れないと思うと、比の一夜の出来事等、何程やある、と思えて微笑が頬に浮かんだ。そして万難を越えても御側へ参りたいと思った。以後の私の人生に瞼わしい苦難の幾山河を越える道程があろうとも、萬本の「死の棘」に心身を刺される時が訪れようとも、島尾隊長様のお側に仕え、私の生涯をお捧げしたいと、今、亦、更に強く思い決めた。

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解説の志村有弘によれば、「ミホの作品は、小説であれ、随筆であれ、作者の優しい人柄が滲み出ており、いずれの作品も豊かな抒情をたたえ、その詩情あふれる文体は極めて高い完成度を示している」という。しかし上掲の作品は島尾敏雄の死の20年後の書かれたものであり、当方には、「ミホの狂おしいまでに夫を追慕する日々」がとうてい理解できなかった。

*20170504_2


 というわけで本書梯久美子『狂うひと――「死の棘」の妻・島尾ミホ』が、『死の棘』の伝説を根本から覆す評伝の傑作(そしておそらく大宅壮一メモリアル日本ノンフィクション大賞を受賞するだろう)としても、当方はなかなか食指が動かなかった。

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 山本健吉の「そのすさまじい狂態にもかかわらず、あるいはそれゆえにこそ、美しく、可憐で、しかも崇高なもの」というミホ像も、「死の棘」の代名詞となった奥野健男の「私小説の極北」という評も、吉本隆明が島尾とその作品に対して深い敬慕の念を抱いていたのも、文学者ならではのものである。

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むしろ吉本隆明が著者に「あの人は、普通の人には見えないものが見えるらしいですよ」といたずらっぽく言ったとあるが、当方のイメージはそれに近い。人形浄瑠璃の清姫、思いを寄せた僧の安珍に裏切られた少女の清姫が激怒のあまり蛇に変身して日高川を渡るという物語が浮かぶ。清姫の顔が鬼のようにチェンジするときに、頭に生えた角、金色の目と、耳まで避けた口とギザギザの歯。きれいな清姫の顔が一瞬にしてガブに変わる。そこにミホを見る。

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至上命令

敏雄は事の如何を

問わずミホの命令に

一生涯服従す

     敏雄

ミホ殿

 という紙がそのまま大切に、死後も残されていた。

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 敏雄の「死の棘」は、1960年から1976年まで、雑誌に断続的に連載された。文学と無縁の立場から見ると、16年という長い年月を敏雄の浮気に端を発した夫婦の葛藤、妻の病と言動をリアルタイム的に書き綴ることが“異常”である。しかもその原稿をミホがチェックし清書したという。狂うひとは、敏雄である。そしてミホは敏雄の死後も87歳で没するまで神がかりにミホを演じ続けた。

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 ――島尾の死によって夫婦の物語をみずからの手で編集できるようになったとき、ミホは吉本、奥野、山本らが言葉によって作り上げたミホ像に、すでに蚕食されていたのではないだろうか。あるいは自分からそれを取り込み、神話化に利用したのかもしれないが。

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「『死の棘』の妻の場合」を書きおおせることのできなかったミホが、傷も恨みも嫉妬も封印して書いた最後の作品は、出自へのこだわりが突出したいびつなものとなった。私はそこに、絶対的な夫婦愛を世間だけではなく自分自身にも信じ込ませようとしたミホの、切実で痛みに満ちた欲望を見る。

 ミホがこの世を去るのは、「御跡慕いて」を発表した半年後のことである。(本書)

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 当方は、ノンフィクションとしての評伝を愛好している。評価の基準は、主人公に思い入れを感じ、生き方に共感でき、リスペクトできるかである。たとえ悪人であっても、愛さずにいられない側面をもっていなければならない。さらに主人公の生き方に人生のせつなさを感じるかどうかである。梯久美子『散るぞ悲しき――硫黄島総指揮官・栗林忠道』は、主人公に共感できたが、『狂うひと』はただスルーしたいだけの人だった。

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2017.02.14

乙部順子★小松左京さんと日本沈没秘書物語

20170214

 

 小松さん自身、戦争や戦後の闇市時代、大学時代のイデオロギー闘争、失業時代などをして、人間や社会、自分のの醜い部分をたり命がけの体験をしてきているので、「しみ」や「暴力」 の引き起こす禍々しさをいやと言うほど知っていたのだろう

 だからどんな悲惨な物語でも、どこか救いのある作品が多いし、最終的には人間を信じているいや「じたい」という「愛」を感じるのだ

「作家は、読者を物語の世界に引きずり込んでしまうので、最後現実してあげないといけないんだ。

芝居や落語などもそういう仕掛けになっているね」

  小松んはよく、こう言っていた日本沈没』というフィクションで多く読者を巻き込んでしまった作家の言葉として切実だ。

 「この作品はフィクションです」と巻末にいてるにもかかわらず、「我が家のあるは大丈夫でしょうが?」というい合わせが殺到したというのだから。

 

小松左京さんと日本沈没秘書物語乙部順子|産経新聞出版2016年11月|ISBN:9784819112932  |○

 

 著者は、1977年から34年間、小松左京(19312011)のアシスタント、秘書を務め、現在もイオ代表として小松作品の窓口役。

  本書に、日本SF作家クラブの旅先の旅館前での記念写真が掲載されている。中央に「歓迎 SFサッカークラブ様」とある。1964年、当時のSFの認知度が分かる。 

 その頃当方がリアルタイムで読んだSFは、創元推理文庫(背表紙にSFのロゴ)と早川ポケミスと同じ体裁のサイエンス・フィクション・シリーズ(背表紙にSFのロゴ)。好きな作家は、軽妙でユーモアあふれるフレドリック・ブラウン『3・1・2とノックせよ』『スポンサーから一言』『真っ白な嘘』など、詩情と幻想のレイ・ブラッドベリ『太陽の黄金の林檎』『火星年代記』『華氏451度』など。

 日本SF御三家の星新一、小松左京、筒井康隆も読んだ。星は都会的過ぎて、小松は長すぎて、もっぱら筒井のナンセンスな短篇を好んだ。

 さて、小松左京は『地には平和を』(1963・ハヤカワSFシリーズ) でデビュー。同タイトルを含む11の短編を収録。

  ――今にして、ようやくSFという形式のもつ文学的な意味が、私にもつかめかけて来た所であり、その「あそびの文学」の仮面の後にかくされた厖大な可能性に、いささか呆然となっている恰好だ。だから私の書いたものに失望されたとしても、そのためにSFはつまらないものだなどと思わないでいただきたい。(あとがき。1963.7.22の日付)

 2016年11月にすみだ北斎美術館が開館し評判になっているので、本書の「ホクサイの世界」というわずか4ページの短篇を紹介(古いものなのでオチまで書く)。

 20世紀に発行された画集でホクサイを見つけた夫婦はフジヤマを見たいと時間機に乗って19世紀の日本へ旅立つ(フジヤマは23世紀に大爆発を起こして形が変わってしまっている)。「やがて袖なしの上衣一枚にフンドシというベルト・パンティをはき、ホクサイの絵に出てくる」人たちに出会い、音声翻訳器で会話をする。

 ――「ここがエドなの!じゃ将軍様のお城はどこにあるの?」

「そんなもの知らねえです。あれがエド村で、ここはスミダ川ちうだ」男は網をたぐりながらぼそぼそ言った。

「むかしやァあれでもトウキョウちうて、世界第二の都会だったがの。今じゃ、やけてぶつこわれて、赤土の下になってるだ」

 僕は妻の腕をギュッとにぎりしめた。妻ときたら2世紀も時間をまちがえた。「お客さア、あんたらこれ食べなさらんかね」男ははじめて顔をあげて、ニヤリとわらつた。その顔は、ひと眼でそれとわかる放射能畸型で、口が耳までさけていた。ぬるぬる光るものを、三本指の手でつかんでつきつけながら男はいった。

「ここのシラウオはの、ミツマタシラウオちうて、昔から頭が三つあるのだ。――うまいだよ」

(「ホクサイの世界」)

 当方は、『日本沈没』(1973)で小松左京を“卒業”してしまったが、この『日本沈没』で「高速道路の橋脚はもろく傾き、道路はひん曲がって、何百台もの自動車を、砂をこぼすように地上にぶちまけた」と書き、専門家から「あり得ない」と非難されたが、22年後1995年1月17日に現実となった現れた。

 その年4月から週1回毎日新聞に地震ルポを連載する。小松左京の大震災'95 この私たちの体験を風化させないために』(1996)がそれ。現地ルポだけでなく、各専門家との対談、復興への具体的提案など。著者は、心のケアの対談相手の野田正彰から「小松さんは鬱病だから、これ以上仕事をさせてはいけない」と注意される。

 著者は豪胆と繊細をあわせもつ小松左京をこう記す。

 ――自然災害という大切なものの喪失という事態に、知的存在としての人間がどう向き合ったらいいのか、それを小松さんは身をもって示してくれたと思う。しかし、生身の肉体も精神も疲れ切っていた。(本書)

 小松は2011年、80歳で死去。著者はその後も同人誌「小松左京マガジン」(50号で終刊)、『小松左京全集完全版』(オンデマンド版・全50巻)等に係わっている。

小松左京■ SF魂

小松左京■ 威風堂々うかれ昭和史

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