02/作家という病気

2017.06.03

小玉武★開高健――生きた、書いた、ぶつかった!  ☆サントリー後輩による連作エッセイ風評伝

 

20170603

 

年譜的に開高自身の閲歴を見ると、自筆のものも含めて、開高の生涯は断絶することなくその行動がよく書き込まれていて、作品の執筆と日録的な動きがほぼきちんとつながっているようだ。

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しかし開高の全体像においては、見えない陰の部分が、今もって数多く存在する。理由は明白で、簡単なことだ。

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それは、このすぐれた小説家の伝記的な研究が、やはりまだ不十分ということなのである。

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そのため、単なる開高伝説に惑わされていることが少なくないのではあるまいか。ひとは“伝説”を壊すようなことを、あえてしたくないからだ。

 

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★開高健――生きた、書いた、ぶつかった!|小玉 |筑摩書房|20173| ISBN: 9784480818447|評価=◎おすすめ

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むかし神戸三宮の高架下に10人坐ればいっぱいというトリスバーがあり、仕事帰りにときどき寄り道した。カウンターに「洋酒天国」があったという記憶はないのだが、サントリー・ホワイト(白札)を飲むとちょっと贅沢気分になった。サントリー・オールドが世間を席巻するのはまだ先のことで、当時は水割りでなくハイボールが全盛だった。

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そのころ1962年に、著者は開高健より8年、山口瞳より4年遅くサントリーに入社した。そしてサントリー宣伝部の黄金時代を迎える。本書は、あとがきで「私のような経歴の者にとって、本書のような主題、すなわち開高健の生涯を辿るという試みは、たとえれば丹沢くらいしか登ったことのないものが岳をめざすようなことなのである」と謙遜しているが、この評伝、各章に趣向を凝らし、それが連作エッセイの趣きとなり、好ましい。

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上掲の開高健の「見えない陰の部分」の一つと思われるのが、悪妻牧羊子との関係である。晩年、世界各国を釣魚旅行をしたのはひとえに妻から逃れるためと、当方などインプットされている。“谷澤史観”というべきか。畏友・谷澤永一、向井敏などの牧羊子批判は徹底していた。『週刊プレイボーイ』編集者島地勝彦は谷澤と酒を飲むと、「いつも牧羊子の悪口ではじまり悪口で終わった」と書いている

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しかし本書は牧羊子擁護派である。佐治敬三夫妻を正餐に招いたり、武田泰淳夫などを招いて妻と娘の手料理でもてなすなどのエピソードを紹介し(その晩餐を扱ったエッセイは武田百合子「開高さんと羊子さん」『あの頃』所収)というがある)、茅ヶ崎転居後の「家庭内別居」発言などは開高健の「お道化=ピカロ精神」だと著者は言う。

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ところで開高健といえば、『夏の闇』のモデル探しがある。早大露文科出身でのちに交通事故死した子という愛人の存在は、水口義朗『記憶に残る作家 二十五人の素顔』の「開高健さん、その人の名は言えずで知った。また川西政明『新・日本文壇史』第10巻にも詳しい。本書では「面白半分」編集者佐藤嘉尚が明らかにした娘・道子のバイオリンの家庭教師だった恵美子という別の“愛人”も登場する。

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 さらに牧羊子が懇望した司馬遼太郎の弔辞では、開高のある作品の「永遠の女性」は「おそらく牧羊子さんがその原形でありましょう」と司馬が述べたことで、著者は「ということは『夏の闇』の「女」の原形のひとりとして、牧羊子が存在していると仮定しても、あながち納得できないことではない」と第3の女にしてしまう。

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 それはともかく、開高健には女性ファンが多く、面会謝絶の開高健の病室に侵入した釣り好きが嵩じて環境運動家になった 天野礼子川を歩いて、森へ 

 編集者として開高健の“私設秘書”ののちワイン研究家になった 

細川布久子(『わたしの開高健』)

 

この柳原良平の表紙イラストは本書の表紙と同じもの)などに著作がある。

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 以下は、ノンフィクションについての開高健の発言を本書から孫引き。

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 ――究極的にそれは心による取捨選択の結果生まれるものなのであるし、文字を媒介にするしかないものなのであるから、ノン・フィクションはあくまでもノン・フィクションであると知っておきながら同時にそれはフィクションの別の一つの形式なのだとも知っておかなければなるまい。(中略)だからこうなってくると、ノン・フィクションとフィクションのあいだにはほとんど膜一枚のへだたりもないのである。(『開高健全ノンフィクション』Ⅱ「頁の背後」)

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――ノンフィクションで書こうが、フィクションで書こうが、言葉、文字でやっている限り、すべてフィクションだと思うんだけれども、そうは言ってもやはり、ノンフィクションとフィクションの二種あってね。ただ、ノンフィクションで書いてても、こちらがうまく乗れたときね、そうすると、これはやはり歌のような気もする。ノンフィクションの素材の要求する歌……。 (江藤淳との対談集『文人狼疾ス』「作家の経済学」)

 

 

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2017.05.04

梯 久美子★狂うひと――「死の棘」の妻・島尾ミホ

20170504

 冒頭に、タイトルとおぼしきものが書きつけてあった。

 死の棘 妻の場合。妻の側から。

 ミホは『死の棘』の時期のことをみずからの手で書こうとしていたのだろうか。心臓の鼓動が速くなった。もし原稿が残されていれば、未発表作品の発見ということになる。

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 はやる心を抑えて残りの箱を開けていく。いくつ目かの箱からコクヨの原稿用紙の束が出てきた。冒頭にタイトルが記されている。

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「死の棘」の妻の場合

 やはりそうだった。妻の側から見た“もうひとつの『死の棘』”をミホは書いていたのだ。

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 しかし原稿は未完だった。四百字詰め原稿用紙で22枚。文章は粗く、叩き台といった段階のように見える。目を通したところ、夫の日記を見て錯乱したときの描写は「死の棘メモ」と題されたノートに記されていた内容とほぼ同じである。

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★狂うひと――「死の棘」の妻・島尾ミホ |梯 久美子|新潮社|201610|ISBN9784104774029 |

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 その出版社の本だから読むということがある。辺見じゅん亡き後も幻戯書房の本にずっと注目している。その一つとして島尾ミホ『愛の棘』というエッセイ集を手にした。

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 島尾敏雄の『死の棘』は読んだことはないが、この作家が一時期神戸に住み、教師をしていたことを知っている。本書に収録されているエッセイでも、子どもが生まれたら、六甲、摩耶という名をつけたいと夫婦で話していたと書かれている。

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 しかし島尾敏雄の妻だったミホについては、『死の棘』の“狂乱の妻”というイメージしかない。『愛の棘』を読んで島尾ミホは南島での少女時代の記憶を綴った『海辺の生と死』で、吉野せい『洟をたらした神』とともに、1975年に田村俊子賞を受賞したと知った。のち自らも作家となる。

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 これは「御跡慕いて――嵐の海へ」(2006 の終わりの部分だが、この文体にはついていけない。

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――島尾隊長様に生きてお目にかかれる事が叶うやも知れないと思うと、比の一夜の出来事等、何程やある、と思えて微笑が頬に浮かんだ。そして万難を越えても御側へ参りたいと思った。以後の私の人生に瞼わしい苦難の幾山河を越える道程があろうとも、萬本の「死の棘」に心身を刺される時が訪れようとも、島尾隊長様のお側に仕え、私の生涯をお捧げしたいと、今、亦、更に強く思い決めた。

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解説の志村有弘によれば、「ミホの作品は、小説であれ、随筆であれ、作者の優しい人柄が滲み出ており、いずれの作品も豊かな抒情をたたえ、その詩情あふれる文体は極めて高い完成度を示している」という。しかし上掲の作品は島尾敏雄の死の20年後の書かれたものであり、当方には、「ミホの狂おしいまでに夫を追慕する日々」がとうてい理解できなかった。

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 というわけで本書梯久美子『狂うひと――「死の棘」の妻・島尾ミホ』が、『死の棘』の伝説を根本から覆す評伝の傑作(そしておそらく大宅壮一メモリアル日本ノンフィクション大賞を受賞するだろう)としても、当方はなかなか食指が動かなかった。

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 山本健吉の「そのすさまじい狂態にもかかわらず、あるいはそれゆえにこそ、美しく、可憐で、しかも崇高なもの」というミホ像も、「死の棘」の代名詞となった奥野健男の「私小説の極北」という評も、吉本隆明が島尾とその作品に対して深い敬慕の念を抱いていたのも、文学者ならではのものである。

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むしろ吉本隆明が著者に「あの人は、普通の人には見えないものが見えるらしいですよ」といたずらっぽく言ったとあるが、当方のイメージはそれに近い。人形浄瑠璃の清姫、思いを寄せた僧の安珍に裏切られた少女の清姫が激怒のあまり蛇に変身して日高川を渡るという物語が浮かぶ。清姫の顔が鬼のようにチェンジするときに、頭に生えた角、金色の目と、耳まで避けた口とギザギザの歯。きれいな清姫の顔が一瞬にしてガブに変わる。そこにミホを見る。

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至上命令

敏雄は事の如何を

問わずミホの命令に

一生涯服従す

     敏雄

ミホ殿

 という紙がそのまま大切に、死後も残されていた。

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 敏雄の「死の棘」は、1960年から1976年まで、雑誌に断続的に連載された。文学と無縁の立場から見ると、16年という長い年月を敏雄の浮気に端を発した夫婦の葛藤、妻の病と言動をリアルタイム的に書き綴ることが“異常”である。しかもその原稿をミホがチェックし清書したという。狂うひとは、敏雄である。そしてミホは敏雄の死後も87歳で没するまで神がかりにミホを演じ続けた。

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 ――島尾の死によって夫婦の物語をみずからの手で編集できるようになったとき、ミホは吉本、奥野、山本らが言葉によって作り上げたミホ像に、すでに蚕食されていたのではないだろうか。あるいは自分からそれを取り込み、神話化に利用したのかもしれないが。

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「『死の棘』の妻の場合」を書きおおせることのできなかったミホが、傷も恨みも嫉妬も封印して書いた最後の作品は、出自へのこだわりが突出したいびつなものとなった。私はそこに、絶対的な夫婦愛を世間だけではなく自分自身にも信じ込ませようとしたミホの、切実で痛みに満ちた欲望を見る。

 ミホがこの世を去るのは、「御跡慕いて」を発表した半年後のことである。(本書)

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 当方は、ノンフィクションとしての評伝を愛好している。評価の基準は、主人公に思い入れを感じ、生き方に共感でき、リスペクトできるかである。たとえ悪人であっても、愛さずにいられない側面をもっていなければならない。さらに主人公の生き方に人生のせつなさを感じるかどうかである。梯久美子『散るぞ悲しき――硫黄島総指揮官・栗林忠道』は、主人公に共感できたが、『狂うひと』はただスルーしたいだけの人だった。

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2017.02.14

乙部順子★小松左京さんと日本沈没秘書物語

20170214

 

 小松さん自身、戦争や戦後の闇市時代、大学時代のイデオロギー闘争、失業時代などをして、人間や社会、自分のの醜い部分をたり命がけの体験をしてきているので、「しみ」や「暴力」 の引き起こす禍々しさをいやと言うほど知っていたのだろう

 だからどんな悲惨な物語でも、どこか救いのある作品が多いし、最終的には人間を信じているいや「じたい」という「愛」を感じるのだ

「作家は、読者を物語の世界に引きずり込んでしまうので、最後現実してあげないといけないんだ。

芝居や落語などもそういう仕掛けになっているね」

  小松んはよく、こう言っていた日本沈没』というフィクションで多く読者を巻き込んでしまった作家の言葉として切実だ。

 「この作品はフィクションです」と巻末にいてるにもかかわらず、「我が家のあるは大丈夫でしょうが?」というい合わせが殺到したというのだから。

 

小松左京さんと日本沈没秘書物語乙部順子|産経新聞出版2016年11月|ISBN:9784819112932  |○

 

 著者は、1977年から34年間、小松左京(19312011)のアシスタント、秘書を務め、現在もイオ代表として小松作品の窓口役。

  本書に、日本SF作家クラブの旅先の旅館前での記念写真が掲載されている。中央に「歓迎 SFサッカークラブ様」とある。1964年、当時のSFの認知度が分かる。 

 その頃当方がリアルタイムで読んだSFは、創元推理文庫(背表紙にSFのロゴ)と早川ポケミスと同じ体裁のサイエンス・フィクション・シリーズ(背表紙にSFのロゴ)。好きな作家は、軽妙でユーモアあふれるフレドリック・ブラウン『3・1・2とノックせよ』『スポンサーから一言』『真っ白な嘘』など、詩情と幻想のレイ・ブラッドベリ『太陽の黄金の林檎』『火星年代記』『華氏451度』など。

 日本SF御三家の星新一、小松左京、筒井康隆も読んだ。星は都会的過ぎて、小松は長すぎて、もっぱら筒井のナンセンスな短篇を好んだ。

 さて、小松左京は『地には平和を』(1963・ハヤカワSFシリーズ) でデビュー。同タイトルを含む11の短編を収録。

  ――今にして、ようやくSFという形式のもつ文学的な意味が、私にもつかめかけて来た所であり、その「あそびの文学」の仮面の後にかくされた厖大な可能性に、いささか呆然となっている恰好だ。だから私の書いたものに失望されたとしても、そのためにSFはつまらないものだなどと思わないでいただきたい。(あとがき。1963.7.22の日付)

 2016年11月にすみだ北斎美術館が開館し評判になっているので、本書の「ホクサイの世界」というわずか4ページの短篇を紹介(古いものなのでオチまで書く)。

 20世紀に発行された画集でホクサイを見つけた夫婦はフジヤマを見たいと時間機に乗って19世紀の日本へ旅立つ(フジヤマは23世紀に大爆発を起こして形が変わってしまっている)。「やがて袖なしの上衣一枚にフンドシというベルト・パンティをはき、ホクサイの絵に出てくる」人たちに出会い、音声翻訳器で会話をする。

 ――「ここがエドなの!じゃ将軍様のお城はどこにあるの?」

「そんなもの知らねえです。あれがエド村で、ここはスミダ川ちうだ」男は網をたぐりながらぼそぼそ言った。

「むかしやァあれでもトウキョウちうて、世界第二の都会だったがの。今じゃ、やけてぶつこわれて、赤土の下になってるだ」

 僕は妻の腕をギュッとにぎりしめた。妻ときたら2世紀も時間をまちがえた。「お客さア、あんたらこれ食べなさらんかね」男ははじめて顔をあげて、ニヤリとわらつた。その顔は、ひと眼でそれとわかる放射能畸型で、口が耳までさけていた。ぬるぬる光るものを、三本指の手でつかんでつきつけながら男はいった。

「ここのシラウオはの、ミツマタシラウオちうて、昔から頭が三つあるのだ。――うまいだよ」

(「ホクサイの世界」)

 当方は、『日本沈没』(1973)で小松左京を“卒業”してしまったが、この『日本沈没』で「高速道路の橋脚はもろく傾き、道路はひん曲がって、何百台もの自動車を、砂をこぼすように地上にぶちまけた」と書き、専門家から「あり得ない」と非難されたが、22年後1995年1月17日に現実となった現れた。

 その年4月から週1回毎日新聞に地震ルポを連載する。小松左京の大震災'95 この私たちの体験を風化させないために』(1996)がそれ。現地ルポだけでなく、各専門家との対談、復興への具体的提案など。著者は、心のケアの対談相手の野田正彰から「小松さんは鬱病だから、これ以上仕事をさせてはいけない」と注意される。

 著者は豪胆と繊細をあわせもつ小松左京をこう記す。

 ――自然災害という大切なものの喪失という事態に、知的存在としての人間がどう向き合ったらいいのか、それを小松さんは身をもって示してくれたと思う。しかし、生身の肉体も精神も疲れ切っていた。(本書)

 小松は2011年、80歳で死去。著者はその後も同人誌「小松左京マガジン」(50号で終刊)、『小松左京全集完全版』(オンデマンド版・全50巻)等に係わっている。

小松左京■ SF魂

小松左京■ 威風堂々うかれ昭和史

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2017.01.30

三田完★不機嫌な作詞家――阿久悠日記を読む

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 平成12年(2000114日、第122回芥川賞直木賞の発表の日、阿久さんは日記の欄外にこんな短歌をししている。

 

 ライバルが直木賞とりし日の夜の梅

 こぼれ散るさましばし見ており

 ――なかにし礼氏受賞――

 

 夜闇のなか、庭の梅の花びらが散るさまを無言でじっと見つめている阿久悠――その胸中を想うと、ほろりとにがいものがこみあげてくる。

 

 ★不機嫌な作詞家――阿久悠日記を読む|三田完|文藝春秋|20167月|ISBNコード:  9784163905044 |○

 

 阿久悠(19372007)は、1981年から死の半年前までの27年間、一日も休まず日記を書いていた。その日記から著者は、阿久悠の広告、放送台本、歌、テレビ、イベント、芝居、映画、小説、コラムと疾走した人生を、そのエピソードと発言から振り返る。

 上掲にあるように阿久悠(19372007)となかにし礼(1938~)の二人はライバルである。

  阿久悠は、「瀬戸内少年野球団」(1979)「喝采」(1988)「墨ぬり少年オペラ」(1989)3度直木賞の候補にあがり、他方なかにし礼は、「兄弟」(1998)、「長崎ぶらぶら節」(1999)と2度候補にあがり、「長崎ぶらぶら節」で受賞している。

 上掲はそのときの日記。著者自身も俳風三麗花」で直木賞候補になったことがあり、“ほろりとにがい”と表現している。

 

 今なら本が売れるなら、と有名人であればあるほど受賞していただろう。傑作小説「無冠の父」1993年に書かれたが、刊行されたのは悔しいことに死後の2011年である。阿久悠となかにし礼とを分けたのは10年という時代の差である。

 また、阿久悠はレコード大賞を5度。「また逢う日まで」尾崎紀世彦、「北の宿から」都はるみ、「勝手にしやがれ」沢田研二、「UFO」ピンク・レディー、「雨の慕情」八代亜紀。

 なかにし礼は3度。天使の誘惑黛ジュン 今日でお別れ 菅原洋一 、「北酒場 細川たかし

 ついでながら、ともにがんで闘病。

 

 本書で興味深かったのは、宗教学者の山折哲雄が 阿久悠の詞と和泉式部の関わりを論じていることを紹介した部分だ。

 まず、「北の蛍」は同名映画(1984・五社英雄監督)の挿入歌。

 

 山が泣く、風が泣く

 少し遅れて 雪が泣く

 女 いつ泣く 灯影が揺れて

 白い躰がとける頃

 もしも 私が死んだなら

 胸の乳房をつき破り

 赤い蛍が翔ぶでしょう

 

 著者はNHKプロデューサーで紅白で森進一がこの歌をうたっていたとき、舞台袖で都はるみが「凄い凄い」と言っていたと書いている。

 そして、山折哲雄が「北の蛍」の歌詞を耳にしながら、千年以上も前に和泉式部が詠んだ恋歌へと思いを馳せた「後拾遺和歌集」に収められた一首。 

 ものおもへは沢の蛍もわが身より あくがれ出づる魂(たま)かとぞ見る

 

 ――阿久氏はこの詞をつくったとき、和泉式部の歌を思い出していたのかもしれない。〔…〕魂鎮(たましず)めのための歌である。そのとき歌の言葉もまた胸の乳房をつき破って、相手の胸に翔んでいく。ものおもうことの悲傷であり、哀切である。「北の蛍」を歌う森進一は、その気分をよくつかんでいたのだと思う。(山折哲雄「歌の精神史」) 

 

 当方は、 阿久悠となかにし礼と並べて、だんぜん 阿久悠寄りである。その理由は自分でも分からないが、時代を先取りし、時代を憂えた“昭和の人”というイメージがある。やがて 阿久悠もなかにし礼も取り残され、シンガーソングライターの貧弱な歌詞が中心になり、「北の蛍」のような壮絶な歌詞は消滅し、“歌の言葉が痩せてゆく”時代となる。

阿久悠▼無冠の父

 

       

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2016.11.26

嵐山光三郎■漂流怪人・きだみのる 

20161126

 

 私がきだみのるに出会ったのは晩年の5年間であった。

 停滞と沈澱を嫌うきだみのるは流浪生活を完結させるために定住せず、

 家から去り、妻から去り、文壇から去り、空漠の彼方へむかって歩みつづけていた。

 そこにミミくんがいた。

  自分をとりまく縁者から遁走しつづけていたきだみのるが唯一別離できなかったのかミミくんであった。

 

 漂流怪人・きだみのる |嵐山光三郎|小学館|20162|ISBN9784093884631|◎=おすすめ

 きだみのる(本名・山田吉彦、1895~1975説家、翻訳者。

 ――きだみのるをヒトコトでいえば、自由を追い求める漂流の小説家である。社会学者であり、海の冒険、女性との恋、古代ギリシャ哲学者の饗宴を愛し、獰猛な舌で食べまくり、ひきしまった明晰な文章。官能の閃きと、人並みはずれた腕力と意志で人間の正体をさぐった。自由の代償は死、という諦観がある。(本書)

  冒頭に写真1葉が出てくる。

 べレ帽をかぶった作家きだみのる75歳、平凡社「太陽」編集者の嵐山光三郎28歳、写真家の柳沢信34歳、そして自分のことを「ぼく」という美少女ミミくん7歳。

 きだみのるのルポルタージュ「小さな村から」(のちの『ニッポン気違い列島』1973)を「太陽」に連載するための取材で伊那を訪れた時のもの。

  45前の当時、きだはノミコウ(飲み講)と称する料理を作って村人と宴会するのが好きだった。サービス精神旺盛な嵐山は、本書で「大鍋を使っての豚アバラ肉のスペアリブ料理」「ミョウガの卵とじ」「馬肉のタータル・ステーキ」など、きだの得意料理の図解レシピを掲載している。

 それはともかく本書の主役はミミ君である。定住しないきだはミミの住民票も作れない。本来なら小学6年のはずのミミは学校へ行ったことがない。が、ついにまわりの協力のもと、岩手県衣川村の児童6名の大森分校に入学する。熱血のササキ先生夫妻の家で生活する。

  だが、きだはのちに嵐山に言う。「ミミくんを預けたササキ君がなにかとミミを殴るんだ。スパルタ式と称する暴力教師だったよ。それにオレのことを悪くいいふらしていて、もう、あいつには預けておけない」

 さらに、のちに「小説新潮」の「第3回小説新潮新人賞発表」のページを開いて……

 ――「候補作品に森笙太というのがいるだろう」〔

「森笙太はササキ君の筆名だよ。小説はオレがモデルらしい。落選したから話の内容はわからないが、ササキ君は油断がならぬ男だぜ。

 俺とミミくんの話をばらせば世間は飛びつくからね。そろそろ俺が死ぬと見込んでいるのだよ。きだみのるが連れ歩いていたミミくんは、じつはきだみのるの子だ、とスキャンダル秘話にする。そのわがままな娘を育てるという美談仕立てだろうよ。ササキ君はオレが死ぬのを待っているんだ。もう書きはじめているかもしれないぜ(本書)

 ササキ君のきだみのるとミミ君をモデルにした小説は、1975年文学界新人賞を受賞し、続編を加えた『子育てごっこ』は1977年直木賞を受賞する。すなわちササキ君、本名佐々木久雄は小説家三好京三である。

  嵐山は、「小説はきだみのるへの悪意と怨恨にみちていた」と書いている。

『子育てごっこ』を手に取ってみると、なるほどミミ君を「可愛げといったら小魚の骨ほどもない」「野良犬のように飯を貪り食う」「娼婦じみた媚態」と悪態をつきながらも、夫婦で“子育てごっこ”をする日々が綴られている。さらに「親もどき・小説きだみのる」では、「不就学にしていたという点だけでも犯罪者といっていいのではないか」と書く。

 以後のミミ君、きだみのる、三好京三の確執は本書で……(当方は知りたくなかった)。本書は畏敬する作家の名誉回復のため、敵討ちの一書か。

 ところで手元にある『気違ひ部落周游紀行』(吾妻書房・1949年」)の扉の裏に

「目を押せば二つに見えるお月さま」

 と俳句のような暗号のような一行が記されている。ずっと気になっていたが、本書でそのことが明かされている。

  ――この意味をきだドンに訊くと、かつて京都に富田渓仙画伯を訪れたときに見た半切だという。寒山か拾得のような恰好の小僧が片目を指で押して天をにらみ、空には月がふたつ描かれていた。月をひとつにするためには指をはずせばよい。見る側の欠陥や偏見のため、現実がゆがめられて見えてしまう。しかし、その欠陥は必ずしも排除すべきものとは限らない。〔…〕

 きだドンが部落という集団を観察し、理解し、そのなかで生活していくためには、ときには片目を押すことが求められた。その話を、嵐山は、武蔵野市の病院にいたきだドンから教えて貰った。

「ほら、目を押して月を見てみろや」(本書)

 

きだみのる★気違ひ部落周游紀行

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2016.04.01

高橋三千綱■ありがとう肝硬変、よろしく糖尿病

20160401

 

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 どこで倒れていようと、病院に担ぎ込むな。道端で発見されても家に連れて帰ってくれ。不幸にして病院に運ばれてしまっても決して延命措置だけはしないでほしい。〔…〕

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 できれば死ぬ間際には少し呆けていたい。

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これは宇宙の偉大なものから人間に授けられた、死への恐怖から逃れるただ一つの道なのだ。

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しかし強制的に痴呆症にすることはできないだろうからこれは無理な注文かもしれない。

 それから痛み止めを打ってもまだオレに意識があるようだったら、そっと一本欄酒をつけてくれ。オレは肝硬変なのでひと口呑めば昇天するようにできている。

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■ありがとう肝硬変、よろしく糖尿病|高橋三千綱|幻冬舎|ISBN:9784344028821|20161|評価=○

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 20084月、1年前にアルコール性の肝炎と診断された近くの医院でこの日「こんなひどい数値はみたことがない」といわれる。そして201510月までの間に、糖尿病→アルコール肝炎→肝硬変→食道静脈瘤→食道癌→胃癌、ついにリビングウィルを書くに至るまでの生活と病気の記録ふうな小説である。

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 もとはといえばアルコール依存症。病院、医師、製薬会社に悪態をつき、妻や娘、友人たちに甘え、しかし作家であるからには執筆をつづけ、生きがいである競馬馬を飼い、ゴルフもやり、犬をかわいがり、そして酒から離れることができず――。

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呑めないのなら死んだほうがましだ、だからこれは自業自得で自己完結、つまりは自分から望んだこと、しかし自殺願望ではない、と医師に告げる。

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「アルコール性肝炎になっても酒をやめなかった理由はとても酒好きだったからです。酒があったからこそ他のことにも積極的になれたんです

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 そしてこんな一節……。

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「なんというか酒場漂流するのが居心地がいいんです。北陸の雪の降る夜道を歩いていて、ふと闇がほの白く染まった中に赤提灯がポッンと灯っている風情に出会ったときのほっとした気持はなにものにもたとえようがないくらい幸せなんです。身体の底のさらに底の暗く凍えたところにポッと灯がともるんです」

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“病いこそエネルギー”とした壮絶にして切なさ漂う作品である。

   
 

高橋三千綱●素浪人心得――自由で愉快な孤高の男の生き方

 

 

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2015.10.16

野上孝子★山崎豊子先生の素顔

20151015

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先生は、胡耀邦総書記にこの一年のご協力に感謝しながらも、

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「やはり中国の取材の壁は厚く、本音が聞けない。取材を申し込めば快く受け入れて下さるが、形式的で、人民公社、監獄でさえ、

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最後に口にするのは『胡耀邦総書記に宜しく』です」

と嘆いた。

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総書記はウァハハッと爆笑され、

「私だって地方に視察に行けば、まんまと騙される時がある。焦らず、また来年もくればいいではないか、小説は二十一世紀に間に合えばいい」

と、いかにも中国人らしいものの考え方で励まされた。

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★山崎豊子先生の素顔|野上孝子|文藝春秋|ISBN9784163903057201508月|戦争と平和を問い続けた国民的作家の創作の現場を秘書が明かす。

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山崎豊子を52年間支えた秘書による“素顔”なのだが、私生活にはほとんど触れず(元毎日新聞同僚の画家の夫・杉本亀久雄の死も1行だけ)、取材話がほとんどを占める。

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例えば、『華麗なる一族』。

小の銀行が大の銀行を飲み込む方法を「空想でいいですから、例えばどういうことなら成り立ちますか、選りすぐりのエリートの方々なら、答案は直ぐに書けるでしょう」と、野上秘書は某銀行の30代企画部員に執拗に問う。取材相手はのちに一人は頭取に、二人は副頭取になったという。

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山崎豊子の取材とはストーリーの細部まで聞き出すことだとわかるし、野上秘書は原稿を清書するだけにしおらしい秘書ではないこともわかる。

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山崎豊子の盗作・盗用騒ぎは、『花宴』『不毛地帯』『大地の子』などで騒がれたが、著者は「序章 真実の姿を伝えたい」でこう書く。

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 ――先生の死亡記事には、賛辞のあとに、必ずと言っていいほど、盗用事件が書き添えられている。52年間も仕えた立場だから、他人の批判を許さないという狭隘な心で言うのではない。一つの小説を書く時、どれほど神経を研ぎ澄まし、時代を先取りするテーマを見つけてこられたか。それを小説にするために、どれほどの年月と費用の限りを注ぎ込んで取材を重ね、納得するまで推敲を重ねつづけたか。こんな徹底的にプロフェッショナルな作家が他にいるだろうか。

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また「シベリア抑留に関する取材は、十数人の方々から直接、苛酷な体験談を伺っていた。抑留記に至っては、二十数冊、目を通した」。「その体験は共通するところが多い。いわば歴史的に公知の事実と判断している」と書いている。だからといって断りなく引用するのは「盗用」である。

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上掲は『大地の子』取材で便宜供与を受けた80年代当時の胡耀邦総書記との会見の一コマ。したたかな作家の一面を伝える。旧満州への戦災孤児取材の過酷な旅の模様が綴られている。本書は「盗用疑惑」イメージを払しょくする目的のために、綿密かつ過酷な取材秘話を公開した本であるといえる。

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ただ「素顔」には「隠し通したい素顔」もある。国家とマスコミをテーマに書きたいと、毎日新聞の大森実(19222010)に接触する。大森実はベトナム報道で知られるが、その一部をライシャワー駐日大使に批判され、のちに毎日を退職する国際ジャーナリスト。ロス郊外に住む大森を小説のモデルにしたいと訪ねる。大森と山崎はほぼ同じ時期に毎日大阪本社に入った同僚である。

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O元記者のお住まいに伺った。太平洋を一望のもとに見晴るかす部屋で連日、話し合ったが、ご体調を崩され、帰国のやむなきに至った」と本書にある。

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しかし大森実は『わが闘争わが闘病』(2003)に「作家山崎豊子との諍」という章(この章は大森夫人の記述)に……。山崎は『大地の子』を書いたとき、某大学教授に「自分の著述のいかなる部分を使ってもよい」という約定書をもらった。盗用騒ぎを恐れて、そういう措置をとっていたらしい。同じように約定書を大森にも依頼したと。

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――「真実を書くことによる、小説の信憑性を増すことを目的に、私の著作の、いかなる部分を引用されても、差し支えありません」

という、約定書のようなものを書いて、それにサインし、

「これにお豊さんのサインがあれば、正式文書になるので、盗作問題は起こらないだろう」

と言っていました。(『わが闘争わが闘病』)

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 しかし山崎は文書の中の「真実の信憑性を増すために」云々にこだわり、大森の激怒をまねき、大森モデル小説は不調に終わる。

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「私、大森さんを書けないなら、これで絶筆します」とまで大森の前で言い切ったが、文藝春秋の専務や局長から“大森は左翼だ”と難色を示されて、モデルにはするものの換骨奪胎を狙っていたふしがある。

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――野上秘書が、口を挟んできました。まるで、スポークス・ウーマンのような、口のききかたでした。

「神戸生まれでも、大阪本社出身でもない、どこの誰かわからない、作中人物を描けばいいのです。私は、大森実なんていう人物は知らなかったし、作品を読ませてもらって、偉い人がいるなあ、と思っただけですから」(『わが闘争わが闘病』)

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すなわち山崎作品は特定の人物をモデルにしても、中身は換骨奪胎だったらしい。ま、小説とはそういうものだろう。あくまでもマスコミをテーマにしたい山崎は、その後西山事件(沖縄密約、外務省機密漏洩事件)の毎日新聞西山太吉をモデルに『運命の人』を書く。

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 素顔を隠すことも、秘書の重要な仕事かもしれない。

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大森実◎わが闘争わが闘病 

http://randomkobe.cocolog-nifty.com/center/2011/06/post-d549.html

 

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2011.10.13

今泉恂之介◎子規は何を葬ったのか ──空白の俳句史百年

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いかなる俳句の名人でも、名句と言えるものは何十句、何百句もの中の一握りでしかない。

 

 

 

そうした句を選ばず、駄句の山から一句を取り出して評するのであれば、芭蕉、蕪村と言えども不評は免れない。

 

 

 

幹雄の句に対する新聞「日本」の批判は、桑原武夫の「第二芸術論」のやり方と、どこか似ている。

 

 

 

このような手法は、権威者やライバルを批判、罵倒するための奥の手、あるいは禁じ手と言えるだろう。〔…〕

 

 

 

幕末から明治初期にかけて活躍した宗匠を挙げてみよう。「近代俳句のあけぼの」によれば関為山、小林見外、八木芹舎、鳥越等栽、大橋梅裡、橘田春湖、塩坪鶯笠、穂積永機、鈴木月彦、三森幹雄というところになる。

 

 

 

子規が「俳句問答」を書いた1896年(明治29年)の時点で、この10人のうちの8人が亡くなっていた。健在なのは穂積永機と三森幹雄の二人だけである。

 

 

 

旧派の打倒を図っていた子規が、この二人の句に辛口の評価を下したのは偶然だろうか。

 

 

 

 

 

 

◎子規は何を葬ったのか ──空白の俳句史百年│今泉恂之介│新潮社│ISBN9784106036859201108月│評価=◎おすすめ

 

<キャッチコピー>

 

「月並で見るに堪えず」と子規が切り捨てた江戸後期から幕末・明治の俳句。だが意外にも名句秀句の数々が! 子規の功罪を問い、俳句文芸の豊穣を再発見する。

 

<memo>

 

俳句史空白の100年とは、具体的には小林一茶以後、正岡子規以前の期間である。どんな俳人がいたのか、どんな俳句が作られていたのか、ほとんど知られていない。子規に「卑俗陳腐」と一刀両断された100年。そういえば小西甚一の名著『俳句の世界──発生から現代まで』でもこの時代はほとんど無視されていた。本書はその100年を甦らせる意図をもって書かれた。しかし作業半ばで思わぬ方向へ展開する。「ひょっとしたら俳句史の本流は“普通の人々”であったのかも知れない」という思いに著者はとらわれる。

 

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小西甚一■ 俳句の世界――発生から現代まで

 
 

司馬遼太郎●坂の上の雲(一)

 

 

 

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2011.10.05

小野民樹◎新藤兼人伝──未完の日本映画史

20111005

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新藤にとって、『裸の島』は人間の捉え方を逆転させた。

テーマに添って人間を描いた『原爆の子』『狼』『第五福竜丸』。社会を描くのにテーマを優先させた『縮図』『どぶ』。二方面での行き詰まりから、ドキユメンクリーの方法を追求したが壁に突当った。

そして『裸の島』は、真っ直ぐに「生きものとしての人間」に向った。

ただ生きている人間、希望も絶望も許されない、神のいない世界の人間である。

つぎには生の根源にある性に目を向けねばならないと思った。

◎新藤兼人伝──未完の日本映画史│小野民樹│白水社│ISBN9784560081488201108月│評価=◎おすすめ

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日本映画界を代表する、最高齢の映画監督! その孤高の歩みを昭和史とともにたどる。シナリオも巧みに引用しながら史実を積み重ねた、決定版の評伝。全作品年譜・人名索引付。

<memo>

映画監督の伝記はたいていが熱い思いで叙述されるが、本書は静かな語り口で、新藤兼人の全体像を過不足なく描く。

新藤兼人(1912~)は、現在99歳。映画監督、脚本家。昨年『一枚のハガキ』を撮った。上掲の『裸の島』は1960年の作品。 瀬戸内海の水のない島で百姓をやっている一家の生活をドキュメンタリーのように描く。台詞はいっさいなし。本書によれば、シナリオには近代映協の同志たちの誰もが賛成しなかったという。台詞がなくて役者は二人、風前の灯のプロダクションがなぜあえて興行価値ゼロのものに挑戦しなくてはならないのかと。

ちなみに1960年度の「キネマ旬報ベスト10」。①市川崑『おとうと』②堀川弘通『黒い画集』③黒澤明『悪い奴ほどよく眠る』④木下恵介『笛吹川』⑤小津安二郎『秋日和』⑥新藤兼人『裸の島』⑦今村昌平『豚と軍艦』⑧山本薩夫『武器なき斗い』⑨記録映画『秘境ヒマラヤ』⑩大島渚『日本の夜と霧』。うち8本を見ているが、わがベスト3は、①おとうと、②豚と軍艦、③裸の島。

 

新藤兼人■ ひとり歩きの朝

新藤兼人■ 愛妻記

新藤兼人■ 生きているかぎり――私の履歴書

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2011.09.28

毛利甚八◎白土三平伝──カムイ伝の真実

20110928

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問題は『カムイ伝』をどこで発表するのか、ということだった。〔…〕

仕事が増えてきた大手出版社で仕事をすることも考えたが、表現を制限され、打ち切りになってもつまらない。

白土三平は『カムイ伝』を、自由に、自分の限界を試すまで描いてみたかったのである。白土の強い自負と表現への渇望がそこにあった。

そこで考えられたのが、自ら雑誌を起こし、そこに『カムイ伝』を連載するという計画だった。

その雑誌を長井勝一に任せたのは、長井のもとで措くほうが作品を描きやすい(事実、大ヒットした大長編『甲賀武芸帳』と『忍者武芸帳』は長井のもとで描き始められている)という思惑があったと思われる。

もちろん長井には雑誌を立ち上げる自己資金などない。そこで白土は、「少年」に連載中の『サスケ』の単行本を長井に刊行させ、その利益で雑誌を立ち上げてはどうかと考えた。

問題は『サスケ』の出版権は光文社にあるということだ。白土は桑田裕に、出版権を光文社から長井の青林堂に譲れないか相談した。

すると桑田はあっさりと出版権の譲渡を認めた。その豪傑ぶりに白土は舌を巻いた。

ここに、マンガ家が本人の金で雑誌を創刊し、その雑誌に自らライフワークを掲載して世に問うという前代未聞の実験が始まることになったのである。

◎白土三平伝──カムイ伝の真実│毛利甚八│小学館│ISBN9784093881937201107月│評価=○

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「謎」のマンガ家・白土三平79歳の素顔。その作品を高く評価されながら、長い間マスコミにまったく登場しない「謎の漫画家」として、ある種伝説を持って語られてきた白土三平の肉声がふんだんにちりばめられた貴重な記録。

<memo>

白土三平のデビュー当時のことは長井勝一「『ガロ』編集長──私の戦後マンガ出版史」1982)に詳しい。本書は、父である画家・岡本唐貴との少年時代、そして70代の釣り三昧の近況に詳しい。

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