02/作家という病気

2021.09.16

後藤正治◆拠るべなき時代に         …………あらゆる情報が安易に入手し得る反作用として、思考することが痩せ細ってしまった

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 ネット社会が進行して、メディアはいま「フェイク(にせもの) の時代」を迎えている。

 フェイクのレベルもさまざまで、パソコンを開くと、明らかな詐欺商法からもっともらしい歴史修正主義のプロパガンダまで、毒花が乱れ咲いている。共通項は、発信者の匿名性である。

 しょせん、フェイク情報は時間をもちこたえることはできないものであって、それ自体はほっておけばいいのだろうが、被害を受ける人もいるので厄介だ。

 それにしても、モノを考える習慣さえあれば、フェイクの落とし穴に落ち込むことも避けられようにと思う。

 あらゆる情報が、タダで、あまりにも安易に入手し得る反作用として、思考することが痩せ細ってしまったのだろうか。
「知」の根幹を成すものは、情報ではなくて考えることのはずだ。

ときにふと立ち止まって、自分のアタマで考えてみること――。

 

◆拠るべなき時代に  後藤正治/2021.05/ブレーンセンター


 ここ数年に書かれた時評、短い人物論、文庫の解説、書評などを収録した6冊目のエッセイ集。

「司馬遼太郎(1)創造と想像」は、当方も聴きに行った2015年8月、姫路文学館主催の司馬遼太郎メモリアル・デー講演会の氏の講演をまとめたもの。

 当方は、後藤正治の人物ノンフィクションを愛読している。神戸の無名の画家(?)石井一男を描いた『奇蹟の画家』(2009)、『清冽――詩人茨木のり子の肖像』(2010)、『天人――深代惇郎と新聞の時代』(2014)、『拗ね者たらん 本田靖春 人と作品』(2018)など。

 講演でも、氏の柔らかい思考と優しい眼差しの著作と同様の話しぶりだった。
「創造(クリエイト)と想像(イマジン)の織りなす妙が司馬作品の真髄」という話。

 ――官兵衛について、『播磨灘物語』のあとがきで司馬さんはこう書いています。
《官兵衛はなるほど生涯、時代の点景にすぎなかった》
 官兵衛は、信長・秀吉・家康の天下取りという大きな時代の流れのなかでいえば小さな点景にすぎないという意味ですが、文章はこう続きます。
《しかしその意味でえもいえぬおかしみを感じさせる。友人にもつなら、こういう男を持ちたい》
司馬さんの人間観がとてもよく出た一文ですね。 (本書)

 姫路で聴いた、姫路に家系をもつ司馬遼太郎の話。播州姫路が舞台のひとつの『播磨灘物語』の黒田官兵衛。ずっと昔に読んだが、帰りに文庫本を買い、再読した。

 上掲の“フェイク”についてのエッセイは、古稀前後の世代(氏は1946年生まれ)のスマホ時代を嘆いた「アナログ世代の嘆き」のタイトルで、2017年9月に書かれたもの。

 詐欺商法から歴史修正主義のプロパガンダまでと匿名フェイクのことをやり玉にあげているが、さらに悪質な“姑息・安倍、隠蔽・菅、野卑・麻生”の虚偽答弁や改ざん、隠蔽工作など“フェイク官邸”については、氏は筆をとらない。“暴く”というイメージのノンフィクションとは正反対に位置する氏が扱うのはリスペクトしている人物に限られる。

 

 

 

 

 

 

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2021.09.15

「新潮」編集部:編◆パンデミック日記       …………小説家たちはコロナ禍の2020年もそれ以前と変わらないフツーの日々

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島田雅彦(小説家)


6月27日(土)

  今は戦時下なのだと思う。メンタルをやられる人や自殺者も増えるのは間違いない。

 私は連載小説というルーチンには救われている。

 谷崎も戦時中は『細雪』の執筆と『源氏物語』の現代語訳で時間を潰し、時局に迎合せずに済んだ。

 

◆パンデミック日記   「新潮」編集部:編/2021.06/新潮社


「コロナ禍に襲われた2020年を表現者52人はいかに生きたのか?」と帯のコピー。
 激動の1年52週を52人(ほとんどが小説家)によるリレー日記。

 一読し驚いたには作家たちが書き留めた“個人的体験”は、ほとんどといっていいほど新型コロナウイルスの記述がなく、コロナ以前と変わりないようなフツーの日々である。

 以前読んだ左右社編集部『仕事本 わたしたちの緊急事態日記』(2020.06)の多くの職種の人々(内科医、女子プロレスラー、葬儀社スタッフ、薬剤師、運送会社配達員、留学生、校長など)のコロナ体験のリアルな肉声のような日記と大違い。

 小説家とはなんと優雅な生活をしている人たちだろう。まともにコロナと“対面”しているのは石原慎太郎のみである。

 当方の好きな作家たちの動向やいかに、以下、抜き書き……。

 

筒井康隆(小説家)

1月6日(月)
本来は今日上京する筈だったのだが、燃えるゴミを出すのが明日なので一日延ばすことにした。年末は最終のゴミ出しが27日であり、年明けが7日。10日もゴミを取りに来ないと言うのはひどい。臭うてならんわい。

1月7日(火)
新神戸駅へ。もはや駅構内もプラットホームもがらんとしている。八重洲口のタクシー乗場だけはいつも通りの混雑。バスが何台か連なって来ると列が動かない。なんとかならぬものか。このままではオリパラでえらいことになるぞ。

 

町田康(小説家・ミュージシャン)

3月4日(水)
午前は新潮に連載中の「漂流」という題の小説を書いた。三枚かそれくらいのことだ。たいそにゆな。えらいすんまへん。


3月5日(木)
午前中は「漂流」という題の小説を書いた。残飯を食した。「ベスト・エッセイ」の候補作を読んだ。毎日同ンなじことやっとんな。あほやな。はっきり言うて。あほやな。


3月6日(金)
東京新聞に載る予定の短編小説を書いた。こんなものは一気呵成に書いた方がよいが途中で米を研いで気が抜けた。


3月9日(月)
東京新聞の短編小説を書き終えた。いつまでかかっとんねん。愚図か。えらいすんまへん。

 

石原慎太郎(小説家)

4月8日(水) 
コロナウィルスの蔓延で、昨夕、緊急事態重言が発せられた。地球と人類の終末を予感させるこの事態の到来は、物書きとしての人間に稀有なる体験を強いてくれる。

私は改めて30年前に東京で聞いたあの天才宇宙学者ホーキングの予言を思い出す。この地球のような文明を備えた天体は宇宙に他に二百万ほどあるが、それらの星は自然の循環が狂い宇宙時間では瞬間的に消滅すると。そしてその瞬間とはおよそ百年間だと。あれから既に30年、温暖化は切りなく進み、そして今未知のウィルスが人間の生命を奪い出した。

4月9日(木)
物書きとしての好奇心からすれば絶好の立場に立たされているともいえようが私自身が消滅するならばそれも無意味な事だろうに。

 

 

津村記久子(小説家)

8月27日(木)
引っ越すので、長岡京市に物件の見学に行く。〔…〕家は県境で探している。どうせ引っ越すなら大阪を出て行きたいけれども、今の家より不便になりすぎるのも困る、というのが理由。

実家を出るのは、単純にウイルス感染拡大で苛つく家族に疎まれることがあり、こちらも信頼できなくなったからだ。

大阪を出るのは、当分はあの党の政治運営に自分の税金を使って欲しくないと思ったからだ。まさか42歳になって政治が理由で移住するとは思っていなかった。

 

平野啓一郎(小説家)

11月26日(木)
夕方、コロナ危機についての首相の記者会見。質問を受けつけず、逃げるように去って行く姿を見ながら、書くのも憚れる言葉ばかりが思い浮かぶ。
政府は無策なので、感染は広がる一方だろう。気が滅入る。

 

 

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2021.08.14

佐久間文子◆ツボちゃんの話  夫・坪内祐三     …………「ゴシップ的感受性」の人

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  亀和田〔武〕さんとは、たまに長電話をして、最近読んで面白かった本や雑誌の記事、テレビや音楽などのよもやま話をしながら、

たがいの「ゴシップ的感受性」に磨きをかけていた。

 彼が亡くなって弔問に来られた亀和田さんが、「昔、新宿の酒場でツボちゃんと話しこんでたら、北島(敬三)さんに、『おまえら固有名詞の話ばっかりしやがって』って怒られたことがあったんだよな」と思い出して言われたのがおかしかった。〔…〕

 雑誌に掲載される集合写真のキャプションで、「一人おいて」と飛ばされる人がいる。作家の場合だとたいていは編集者や無名の書き手で、そういう「一人おいて」とされるような人の隠された仕事のようなものに彼らの関心は向きがちだった。

 

佐久間文子◆ツボちゃんの話  夫・坪内祐三 2021.5/新潮社


 坪内祐三(1958~2020)急逝から1年半、早くも(元新聞記者の習性ゆえか)“妻が綴る坪内祐三”が刊行された(急逝のてんまつを知人、関係者に報告すべきという理由から“早くも”になったと思われる。

 文学賞受賞パーティにこまめに参加し、文壇ゴシップを収集したり、まき散らしていた坪内は、上掲にように“ゴシップ的感受性”を磨き、コラムを書き散らしていた(ゴシップ好きの当方はそれゆえ愛読した)。

 そういえば当方が手元に置いている『一九七二』、『靖国』にしろ、また『慶応三年生まれ 七人の旋毛曲り』にしろ、坪内の代表作は“ゴシップ的感受性”に基づいた作品であることに気づいた。

 ――昭和33年前後生まれのもの書きでは、大塚英志、岡田斗司夫、宮台真司、みうらじゆん、山田五郎といった人の名前が頭に浮かぶ。「おたく」の名付け親とされる中森明夫さんが昭和35年生まれだ。
「おたく第一世代」の経験や記憶を共有していることは認めつつ、ツボちゃんは、自分はおたくではないと、くりかえし口にしていた。(本書)

 いやいや、おたくでしょう。古雑誌の収集など、執筆用の資料であるだけでなく、その癖の強さはどうみてもおたくである。


 そのうえ、「駅の改札は左から奇数番目から入る」、「電信柱の影は左足で踏み越える」、「日刊スポーツを家に持ち込んではいけない」などさまざまなジンクスがあったという。
 深く付き合うほどにしんどくめんどくさくなるし、マザコンのようでもあるし、……「あとがき」の以下のフレーズが妻の本心であるように思われる。

 ――愛されるだけでなく憎まれることもあり、途中で去ってしまったひともいるけど、そうした関係も含めて、彼とつきあう大変さを少しずつ分担してくれるひとが大勢いてくれたおかげで、かろうじて私は最後までもちこたえられた。通夜と葬儀の日に、彼の死を悼んでくださる長い列を見ながら、そう思った。(本書)

 

 

 

 

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2021.07.15

柳原滋雄◆疑惑の作家「門田隆将」と門脇護         …………ベストセラー作家にして、“著名なネトウヨ”の裏事情

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 門田の代表作『死の淵を見た男』では、吉田所長に長時間のインタビューに成功しながら、刻々と進む対応策ばかりに取材の時間を費やしたためか、本店時代の津波対策が正面から取り上げられていない。〔…〕

 

この作品を「東電が欲した物語」と評する人さえいる。

結果的に、東京電力について都合の悪い事実が書かれていないからだ。

 

 吉田所長については、「本店の吉田」「現場代表の吉田」「東電の吉田」の3つの立場があるとされるが、この本で書かれたのが「本店の吉田」でないことだけは確かだ。


 日本人を救うために奮闘した素晴らしい人びととして描くには、都合の悪い事実は作品の設定段階から省くほうがよい。

 

◆疑惑の作家「門田隆将」と門脇護 柳原滋雄/2021.01/論創社


 上掲の『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』(2012)は、F1の内部から3.11を描いたベストセラー。のち「Fukushima 50」として映画化された。

“悪役”菅直人首相に立ち向かう“英雄”吉田所長という役割である。当方もあの悲惨な事故と東電への憎しみに対し、どこかに“英雄”がいなければ救われないと思った。

 本書からの孫引きによれば、吉田所長のインタビューが成功したのは、……。


「私は、吉田さんの幼馴染みや親友、恩師、同僚、先輩、上司……等々を訪ね、手紙を出し、さまざまなルートを辿って吉田さんにアプローチした」、また、「だれでもそうですが、この人の言うことには逆らえないという人が1人や2人はいるはずです。そういう人を探し出し、複数のルートから依頼を行いました」

 本書のもくじを掲げておこう。

第1章 最高裁から「盗用作家」の烙印押された前歴
第2章 門田隆将の来歴「週刊新潮」時代の門脇護
第3章 「右派論壇のヒーロー」から「ネトウヨ」への凋落
第4章 「デマ屋」が放ったアメリカ大統領選挙の無数のデマ
第5章 門田隆将ノンフィクションの虚構
第6章 馬に喰わすほどある“言行不一致”語録集
第7章 山本七平賞受賞作の「大量パクリ疑惑」対照表(角川文庫・37カ所)

 著者は執筆の“真意をこう記す。

 ――週刊誌話者時代から多くの捏造記事で他人を傷つけ、さらに第三者の血と汗の結晶ともいえる作品から記述を盗み取り、裁判所から断罪された過去をもつ作家が、なぜいまも平然と仕事を続けられるのか。〔…〕

「盗用」や「捏造」を指摘される書き手を“金の成る木”として重用し、自社の金儲けの道具として今も活用する出版社や編集者にも警鐘を鳴らしたい。 (本書)

 

 

 

 

 

 

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2021.06.07

02/作家という病気◆T版2021…………◎高野慎三・神保町「ガロ編集室」界隈◎荒俣宏・妖怪少年の日々 アラマタ自伝◎常盤新平・片隅の人たち 

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02/作家という病気
高野慎三◆神保町「ガロ編集室」界隈 

2021.2/筑摩書房

 

それにしても、読者の若さに注目する前に、作家の若さにもいまさらながら驚嘆する。


この頃、一番年長の水木しげるさんが40歳をこえたばかり、白土さんと滝田さんが、34、5歳、つげ義春さんが29歳、忠男さんが26歳だった。楠勝平、勝又進、池上遼一、林静一、佐々木マキ、つりたくにこさんらは、全員19か20歳そこそこだった。

 

つまり、楠さん以下はみな読者とほぼ同年齢だったのである。

 

「ガロ」の読者欄で、これら若い作家の作品に向けて賛否の大論争が延々と展開されたのは、それぞれの作品が十代の読者の心情を代弁するものと受けとられたからだろう。

 

*

漫画家たちの言動もさることながら、当方は山根貞夫、林静一、著者の3人と映画監督加藤泰との交流が興味深かった(当方は加藤泰ファン)。

1965年に「明治侠客伝 三代目襲名」を見た後、加藤泰から目が離せないと、ついに3人は京都太秦の撮影所を訪ね、インタビューをし、70年に『遊侠一匹 加藤泰の世界』300ページの布張り上製本を刊行するに至る。

さらに77年『江戸川乱歩の陰獣』では監督の要請にこたえ林静一の美しい少女の緊縛画2点が画面に登場する。

 

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02/作家という病気
荒俣宏◆妖怪少年の日々 アラマタ自伝 
2021.01/KADOKAWA

 

物事の起源を知るために古いものごとを捜索することは、本質的に「神かかり」の技である、とわたしは確信している。

 

何かを再発見するという行為は、なにかの偶然が作用するものでなくてはならない。

 

すぐにたどり着ける発見などは、最初から発見ではあり得ない。

*

鈴木牧之「北越雪譜」の影響を受けたという記述がある。江戸後期には自由な学問である博物学が流行した。妖怪研究も博物学は拒否しなかった。『北越雪譜』の「鮭」や「異獣」の記述姿勢は、近代的な意味での「情報」になっている点が尊い、と。

――平凡社に住み着き、約8年を要した『世界大博物図鑑』の執筆を開始してからのことだ。『北越雪譜』と同じように、わたしの本でも挿絵を重視し、動物の「民話的な知識」をなるべく情報文書のように淡々と記した。(本書)

 

 

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02/作家という病気
常盤新平◆片隅の人たち  
1992.12/福武書店=2021.01/中央公論新社

 

「翻訳なんて缶詰みたいなもんですよ、そう思いませんか」
望月は言って、ロング・セラーをつづけできた、ある翻訳小説を挙げてみせた。
「あれだって訳文はもう古いですよ。

 

原書は古くならないが、翻訳のほうは古くなるというのが僕の持論でね。翻訳 なんていわば耐久消費材じゃないですか。何年かたつと古くなってくる。読めないことはないけれど、訳文にガタが来ている。〔…〕昭和のものよりかえって明治時代に翻訳された『即興詩人』や二葉亭四迷のものが残っている」

 

翻訳者などとるにたりない存在だと望月は自嘲しているようだった。僕も彼の言うとおりだ
と思った。(「新しい友人」1992)

 

*

直木賞受賞の“青春小説”『遠いアメリカ』(1986年)の前後、昭和30年代の翻訳者たちの生活を描いた連作短編。

 

 

 

 

 

 

 

 

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2021.03.05

朝井まかて◆類                       …………森類が見つけた「小倉日記」から松本清張「或る『小倉日記』伝」の方へ

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「松本さんって、あの小倉日記の方でしたね」
 二人とも、父の日記について口にする時は背筋を立て、粛とした声音になる。

 類が発見し、美穂が浄書した日記なのだ。美穂は体調を崩していたにもかかわらず、蒼黒い顔をして筆を走らせ続けた。

 それが昭和25年のことで、3年後の昭和28年1月、松本清張は『或る「小倉日記」伝』という短編小説で第28回芥川賞を受賞した。候補作となったのは前年の「三田文学」9月号に掲載されたものであったと知り、思わず唸ったものだ。

 日記の発見が公表されて2年ほどしか経っておらず、着想を得てすぐさま執筆にかかったのではないかと推したからだ。〔…〕


 そして才能への羨望と自らへの落胆で、肩を落とした。
 僕はなぜ、こういう小説を思いつかなかったのだろう。
 僕こそが当事者であったのに。

 かたや、美穂は髪の生え際まで真赤に上気させていた。千乗書房の帳場で受賞作を読み終えるや、一気に駈け上るような話し方をしたのだ。

 この小説の主人公、鷗外の小倉日記の行方を捜して生涯を懸けてしまったのでしょう。それで彼が息を引き取った後、鷗外の遺族が日記を発見するという筋立てだわ。この遺族って、私たちのことですよね。

類 朝井まかて /2020.08 /集英社


森 類(もり るい)
 森鷗外には、於菟、茉莉、不律、杏奴、類の5人の子どもがいて、この物語の主人公である類は1911(明治44)年生まれの末子である。パリへ画業遊学、文化学院の美術科講師、本屋「千朶書房」経営、「鷗外の子供たち」(1956)刊行後、 同人誌「小説と詩と評論」に参加し小説を発表。1991(平成3)、死去。

 類は、父に呼びかける。
「僕はこの日在の家で、暮らしているよ。
何も望まず、何も達しようとせず、質素に、ひっそりと暮らしている。
ペンは手放していない。波音を聞きながら本を読み、時には随筆を、そして娘たちに手紙を書いている」 (本書)

 当方は、娘に「こうも綺麗で無邪気な笑顔をする大人っているかしら」といわれる類に興味があるのではなく、唯一の関心事は上掲の「小倉日記」をめぐる話である。

 松本清張は『或る「小倉日記」伝』は、冒頭、鷗外に関する著作をもつ詩人K・M(木下杢太郎がモデル)のもとに小倉市に在住する田上耕作(初出の「三田文学」では上田啓作)という人物から、森鷗外が軍医として明治32年から数年間小倉にいたころの事蹟を調べているが、同封のその草稿が価値あるものかどうか見ていただきたいという趣旨の手紙が届く。

「四十年の歳月の砂がその痕跡を埋め、も早、鷗外が小倉に住んでいたということさえこの町で知った者は稀だと」と田上は書いている。小倉時代の鷗外の日記が所在不明となっているため、その空白を田上耕作が埋めようとする試みである。

 清張の小説の主人公田上耕作は、身体障害者である。幼少時から、口はだらりと開けたまま言葉がはっきりせず、片足の自由もきかなかった。そのハンディを抱えながら、10数年にわたって、母や友人の協力を得て、鷗外の足跡を訪ね回り、昭和25年、25歳で死ぬ。その翌年……。

 ――昭和26年2月、東京で鷗外の『小倉日記』が発見されたのは周知の通りである。鷗外の子息が疎開先から持ち帰った反古ばかり入った箪笥を整理していると、この日記が出てきたのだ。田上耕作が、この事実を知らずに死んだのは、不幸か幸福か分らない。(松本清張『或る「小倉日記」伝』)

 田上耕作は実在の人物である。鍛冶町の森鷗外旧居を探りあてたことで知られる。ネットを調べると、曽田新太郎「セピア色の詩風景」という一文に出会った。こんな一節がある。

 ――松本清張の「或る『小倉日記』伝」は昭和26年の初夏に朝日新聞北九州版に載った小さな記事がきっかけで書かれた。それは、鷗外研究家・田上耕作の七回忌を伝えるものだった。清張は誰もが見落とすような、あるいはさっと流されるような小さな記事から小説を作り出す手法を生涯のなかで何度も用いている。この時もそうだった。

 田上耕作が鷗外の足跡を手繰っていったように、清張もまた耕作の足跡を手繰っていった。だが耕作が生涯かけた原稿類もまた戦時中に某住職に預けたが、その後行方不明となっていた。

「セピア色の詩風景」には驚くべきことも書かれている(周知の事実らしいが)。「実在の田上耕作は、小説の主人公のように不遇の人でもなく、暗い生活も送っていなかった。また、神経麻痺と栄養失調のために病の床で寂しく死んでもいない。実在の田上耕作は昭和20年6月29日の門司空襲で死亡した」。享年45歳だったという。

 当方の古いブログに、「小倉の松本清張記念館を訪れたことがあり、復元された書斎だけが印象に残っている。そしてご当地ものとして『或る「小倉日記」伝』を読み、以来、当方にとってもっとも好きな清張作品となった」と書いている。

 しかし実際に初めて読んだのは高校生の頃で、読後の「切なさ」が記憶から離れずにいた。当時教科書で習った国木田独歩『忘れえぬ人々』以来、「切なさ」が今もかわらぬ当方の小説やノンフィクションの評価指標となっている。

 

 

 

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2020.12.17

02/作家という病気◆T版2020年…………◎石原慎太郎/坂本忠雄・昔は面白かったな

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石原慎太郎/坂本忠雄★昔は面白かったな――回想の文壇交友録 2019.12/新潮社

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 政治はね、発想ですよ。何か足りないな、という感覚。


〔都知事として〕一つやり残したのは、隅田川の沿岸をテムズ川沿いの観光地みたいにどうにかしようと思ってたことだね。

 あそこの横、高速道を走ると何にもないでしょ。ビルというビルは全部川にケツ向けてるし、何も味わいがないんだな。

*
元「新潮」編集長坂本忠雄を相手に“文壇裏話”。秘話満載なので、あと3つほど……。

 江藤〔淳〕が困っていたから、僕は素晴らしいお手伝いさんを紹介したんですよ。〔…〕
 女性は綺麗で品の良い人でね、彼は奥さんが亡くなった後、自分の余生を彼女に預けられると思ったと思うんだ。女性に対する思慕みたいな、性的意味もあったかもしれないよ。
 で、その人が、お手伝いさせていただきますっていうんで、軽井沢の実家まで身のまわりの物取りに行ったんですよ。それで、帰ってこなかったんだ。そのとき、すごい寒冷前線が通ってて、僕は都庁にいたんだけど、都庁にも落雷して、ビルの外側が剥がれて落ちたりしてね。あそこは高層ビルでしょ。ビルとビルの間を雲が通っていくの。そのすごい寒冷前線で嵐が来たんですよ。彼女もそれで帰宅が遅れたんだ。電車も立ち往生して。それで「遅れて申し訳ありません」って帰ってきたら、風呂場で死んでたんだ。
 結局その人にも見放されたと思ったのかな。変な喪失感があったんだな。本当に孤独だったからね。茶毘に付すとき、「あの嵐がなかったら死ななかったと俺は思うな」
*
 江の島の並びの一番端に有名なステーキハウスがあって、そこのオーナーがヨット仲間でね、ある時、「石原さん、今だから言いますけど、うちの店、一番上の三階に小部屋があって、川端〔康成〕さんがよく使われたんですよ。

 若い女の子を呼んで、夜中から朝の三時四時まで、ずっと川端さんと一緒にいました」。「何してたのって聞くと、「さあ、わかりません。触ったぐらいはしたのでは」だってさ(笑)。
*
 まあ、あの頃の文学賞は本当にいやらしかったな。吉行淳之介みたいな大して才能のない、限界の知れた連中が飲み屋で集まって文学賞を決めてたんだからさ。僕の「わが人生の時の時」も、吉行とは大喧嘩したよ。もう、どうでもいいけどさ。〔…〕

 とにかく吉行とは合わなかったな。
「文学界」の座談会でさ、「お前が芸術院なんてチャンチヤラおかしいんだよ。早く俺を推薦して芸術院会員にしろよ」って言ったら、「僕は君を必要としてない」って。「必要としてない? お前の本なんか必要とされてないから全然売れねえじゃないか。俺は必要とされてるから、たくさん本売れてるぞ」、「お前、飲み屋で人の作品けなしたりするのやめろよ。姑息でいやらしいやつだな」って言ってやったの。

 あまりに険悪なんで編集者が困って、結局そのやりとりは削ってしまったけどね。

 

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2020.11.20

白石一文★君がいないと小説は書けない      …………人間は生きたいと願うのと同じように常に死にたいと願う動物だ

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「短くて波乱に満ちて、ものすごく充実した現実」のような人生を送れば、人はみな「長くて退屈でひどく空しい夢」のような人生から解放されるのであろうか?

 それはそうだろうと思う。

 だが、人間はなかなかそういう人生を送ることができない。〔…〕

 要するに、私たちは自分自身の意志で「長くて退屈でひどく空しい夢」のような人生を選択しているのだろう。特に強く執着しているのが「長くて」の部分だと思う。

どんなに波乱に満ち、愉快な人生であったとしても、それが「短い」というのはどうにも私たちには受け入れがたい。それならば、退屈で空しくても「長く」続く人生の方がまだマシだと考えているのではないか?

 突然、不治の病を宣告された人たちが、にわかに人生を輝かせ始めるのは、この「長くて」といぅ条件を否応なく外されてしまうためだろう。そうなると「退屈でひどく空しい」人生にしがみついている必要がなくなる。必然的に「波乱に満ちて充実」した人生へと一歩を踏み出さざるを得ないというわけだ。

 どうして私は、このいかんともしがない虚無の心境からいつまで経っても抜け出すことができないのか?〔…〕

 一言で言うと、私には「理想の人生」が見つからなかったのだ。

 

★君がいないと小説は書けない /白石一文 /2020.01 /新潮社


 白石一文の作品を読むのはまだ3作目だ。

 この作家はエッセイを書かないが、小説の中にエッセイやミニ論文を挿入するし、インタビューには応ずるが対談はしない。したがって雑談とか無用のはなしを書かないので、そのたぐいのエッセイ集がなく、孤高の作家のようにみえる。それが「自伝的小説、堂々刊行」と惹句にあるから、手に取った。だがあまりにも多くのものを包含した作品なので、どの部分を紹介しようかと迷う。

 タイトルにある「君」とは、小説家野々村保古のパートナーの魅力的な女性「ことり」である。ことりと初めて知り合い、ともに生活し、巻末のことりの不倫疑惑までの約20年の愛を描いたもの。その最後の部分で小説自体は“破綻”しているが、それはともかく「ことり」という同じ名をもつ別の実在した人物を含めて、三人のことりについて書こうか。

 また同じ直木賞作家の父である白石一郎から物を書く秘訣を教えられた話もある。「文章を書くというのは、紙の上で喋るということだ。ペンを使ってちゃんと喋れるようになれば、それでいいのだ」。このエピソードを紹介しつつ、20年以上も前に若い女性の編集者から当方の「だ」「である」調や体言止めの文体を全面修正され打ちのめされた経験でも書こうか。

 なんといっても文藝春秋社の社員時代の芥川賞、直木賞、大宅壮一ノンフィクション賞などの裏面を赤裸々に描いた実録小説風な場面や、どうやれば社長になれるか、上司、同僚の出世する方法を描いた会社小説的な部分が受けそうだから紹介しようか。

 といろいろ考えたが、この作家には、鬱状態、胃腸の不調、呼吸困難という持病があり、全体の基調が死についての考察である。「50歳を過ぎた頃から、目の前に伸びている道が未来に繋がっているのではなく、過去へと通じているような、そういう感覚に浸る時間が徐々に増えていった。〔…〕なかでもとりわけよく見えるのは、死んだ人たちの姿だ」。

――そもそもこの時代に小説を必要とする人間などどこにもいやしない。(本書)

 ここでは死についての考察をランダムに紹介したい(“共感”しているわけではない)。

*

苦痛の中の死は、死それ自体と同等か、場合によってはそれ以上に恐ろしい。

 

死とは視点の喪失であり、未来に自分が存在しないという現実である。

 

私の心には一切の不安がなかった。理由はすこぶる単純で、

――肉体的にしろ経済的にしろ、万事休すとなったら死んでしまえばいい。

と腹を括っているのだ。

 

突然の死はいまでも十分に恐ろしいが、自ら死を選ぶという一点において私に一片の恐怖もない。

 

わざわざ自殺などしなくとも、人間は、死ぬと決意すればちゃんと死ぬことができる。〔…〕これまで莫大な数の人々が名誉や自己犠牲、信念に殉ずるために死を選んできた。

 

人生はいずれ死をもって終止符を打つ。だとすれば、人間にはおそらく死ぬに最も適した時期というものがあるのだろう。

 

確かに、人間は生きたいと願うのと同じょうに常に死にたいと願う動物だ。

私たちに分からないのは、自分が死ぬかどうかではなく、自分がいつどんな形で死ぬかということだけである。

 

「寿命」とは「生き恥」の対義語なのである。

私自身は、肉体的にしろ経済的にしろ、もうこれ以上生きられないと判断した時点――そこが人生に終止符を打つべき適切な死に時だと考える。

そのときは「死のう」と覚悟を固めるつもりなのだ。

 

私たちは私たちがふだん信じている何倍から何十倍ものレベルで精神(こころ)の支配を受けており、意識するしないにかかわらず「生きたい」と願っているからこそ生きているのである。

つまるところ、人間は「死にたい」と願えば死ぬのだ。

 

死のうと思って死ねるのであれば、生まれようと思って生まれることができるのではないか?

死ねる能力は生まれ(られ)る能力と対をなしているのではないか?〔…〕

だから私は、自殺できるということは誕生できるということでもある、と考えている。〔…〕

人間は、他の動物たちとは異なり、自ら生まれようと決心して生まれてくるのだろう。

 

Amazon白石一文★君がいないと小説は書けない

 

 

 

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2020.10.18

花房観音★京都に女王と呼ばれた作家がいた           ………… 山村美紗の死後、“美紗命”の男二人は

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 山村美紗の死後、肖像画を描き続ける夫の山村巍(たかし)。

 山村美紗をモデルにして、ふたりの恋愛を小説にした西村京太郎。〔…〕

 もしもそれを愛と呼ぶならば、その愛は、私には狂気にすら思えた。「執着」という言葉が浮かぶ。ひとりの女に対する、男たちの執着は、彼女が亡くなっても彼らを捕らえて離さない。

 夫の描く絵、京太郎の小説、どちらからも漂ってくるのは、山村美紗への執着だ。

 彼らはまるで山村美紗に取り憑かれているかのようだ。

 亡くなったあとも離れない女の念が、絵や小説を描かせたのか。

 そう思わずにはいられないほどに、山村巍が描いた美紗の肖像画からは、強い念が漂ってくる。そして小説『女流作家』からは、美紗がどれだけ魅力的で愛されていた女だったかということを残したい、という切々とした想いが伝わってくる。

 

京都に女王と呼ばれた作家がいた――山村美紗とふたりの男 /花房観音 /2020.07 /西日本出版社


 山村美紗は、京都に住み、京都を舞台にしたトリック重視のミステリーを書き、その作品の多くは2時間ドラマとなり、人気を博したベストセラー作家である

 たとえば1994年の“長者番付”では、1赤川次郎、2西村京太郎、3内田康夫、4司馬遼太郎、5山村美紗という順位であり、女性作家のトップだった。文学賞受賞歴なく“無冠の女王”。

 本書には154冊の著書リストが掲載されているが、22年間の作家生活で本の売上げは3千万部を超え、100本以上がドラマ化されたという。

 じつは当方、1冊も読んだことがない。だが”噂”は知っている。

『文藝春秋』の広告が毎月10日の新聞に出ると、同日発売の『噂の真相』を買いに本屋を覗いた。週刊誌が書かない文壇のスキャンダルが記事になり、山村美紗はしばしば登場した。

 とびらに足立三愛のイラストがあり、実在の人物とは関係ありません、という注釈付きで、山村美紗と西村京太郎とおぼしき二人が裸で絡み合っているのもあった。

 作品を売るためには、自らもミステリーな存在に、スキャンダルも華のうちと考えたいたようだ。京都東山に移り住んだとき、隣りに引っ越してきた西村京太郎邸とは地下通路でつながっていた、という噂も同誌で知った(夫の巍は目の前のマンションに居住、と本書にある)。

 ――既に長者番付の作家部門上位にいる京太郎とコンビを組むのは、美紗にとって必要なことだった。京太郎を自分の盾にして、出版社への圧力にする。ふたりで編集者を京都に招き、もてなし、仕事につなげる。

 今以上に売れるために、「同志」と隣同士に住む。〔

 出版社は、京太郎の原稿をもらうためには、まず美紗のご機嫌をうかがわねばならなかった。だから美紗にも依頼をする。京太郎だけに挨拶をして帰るなんてことは、できない。(本書)

 山村美紗は、1996年9月5日、東京帝国ホテルのスイートルームで執筆中に心不全で急死する。65歳(公称では62歳)であった。

 当方がもっとも興味があるのは、“美紗命”だった男二人のその後である。

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山村 巍(1928~)

 1994年に高校の数学教師をやめていた巍は、美紗の死の2年後から画家に師事しデッサン・油絵・人物クロッキーを習い、美紗の肖像を描いた。

 2003年に美紗によく似た美術モデルの祥と出会い、2008年に80歳で、その39歳年下の祥と再婚した。2012年、近鉄百貨店上本町店「山村美紗とともに~山村巍と祥」ふたり展を開催。

 現在、美紗の絵は描かず、もっぱら猫の絵を描いている。

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西村京太郎(1930~)

 1996年、美紗の死から3か月後、呪縛から解かれたように京都から湯河原に転居し、そこで10歳下の現在の妻と出会う。

 1997年、美紗未完の「在原業平殺人事件」「龍野武者行列殺人事件」を完成させ、共著として刊行。2000年、美紗をモデルにした「女流作家」刊行。2006年に続編「華の棺」を刊行。

 2001年、湯河原に西村京太郎記念館を開館。展示に美紗の痕跡はいっさいなし。現在もトラベル・ミステリーを書き続ける。出版社では美紗の話はタブーとなっている。

 

 いかに“ミステリーの女王”といえども、死後、夫が80歳で再婚したり、“愛人”が痕跡をすべて消すとは、想定外であったろう。

 

花房観音★京都に女王と呼ばれた作家がいた

 

 

 

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2020.09.18

坪内祐三★みんなみんな逝ってしまった、けれど文学は死なない。      …………歯に衣着せぬ発言から、( )書き多用の文章の方へ

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「〔名探偵エルキュール・ポアロの言葉〕

 椅子に坐ったままで考えるだけでじゅうぶんなんですよ。働くのは、ほれ、この頭ですよ」
 その手法を吉田さんは“アームチェア(肘掛け椅子)・ノンフィクション”と呼んでいる。
 しかし実はそれだけではない。吉田さんは調査を怠らない。私は偶然それを目撃した。

 いや、その前に。
 私は吉田さん以外の団塊の世代のノンフィクション作家の殆どが嫌いだ。
 パクリ屋たちばかりだ。
 しかしこれは彼らの出自に関係している。
 つまり、週刊誌のアンカーマン上りだからなのだ。


 アンカーマンはデータマンが集めてきた資料に目を通し、それをパッチワーク的に文章にまとめる。そのやり方が体に染まっているのだ。


 その点で、そのやり方(パクリ)が明らかな佐野眞一はまだ良心的だ。
 もっとセコいのは猪瀬直樹だ。猪瀬直樹は直接パクルことなく加工して誰かの研究を盗用するのだ(幾つだって例をあげることができる)。
 その中で吉田さんは違う。

 ――「マイ・バッド・カンパニー 吉田司さん」

★みんなみんな逝ってしまった、けれど文学は死なない。/坪内祐三 /2020.07 /幻戯書房


 上掲の吉田さんとは、『下下戦記』、『宮澤賢治殺人事件』等傑作ノンフィクションをもつ吉田司(1945~)のこと。
「月刊現代」「論座」「ダカーポ」「エンタクシー」などの発表誌が休廃刊、担当編集者が退職したりして発表機会を失った吉田司にエールを送った文章。

 だが、その「いや、その前に。」とあるようにここは横道にそれた部分だ。坪内祐三の文章は、歯に衣着せぬ発言があったり、急に横道にそれたり、( )書きを多用したり、変幻自在というか、行き当たりばったりにみえる。

 その坪内祐三が若くして亡くなった(1958~2020)。

「本の雑誌」が「さようなら、坪内祐三」という特集を組み、 「ユリイカ」は「総特集=坪内祐三」の臨時増刊号を出し、それぞれ友人諸氏、同業者、編集者たちのおびただしい追悼文、コメントを掲載した。「新潮」「文学界」「群像」にも追悼文が出ている。こんなに人気のあった(あるいは畏敬された)文筆家だったのかと驚いた。
 
 以下に紹介する本書の「跋」(これも追悼文だが)を書いているこの平山周吉は、上記の「本の雑誌」「ユリイカ」「新潮」にも追悼文が掲載されており、坪内と親しい編集者仲間だったらしい。

 



 ――しつこいのを承知で、追悼文「坪内さんの電話」から三たび引用をする。

「はい坪内です。あもしもし名嘉真さん手紙ありがとう。あのねオレこの時間朝仕事場来て雑誌に目を通したりしたい時間なんだよ。だから11時から12時の間ぐらいにまたかけ直してくれない」

 実際に電話をしたことがあるならばご承知だと思いますが、坪内さんは非常に早口でした(油断していると聞き取れないことも)。

 最初の電話(1分で終了)を置いた時、(さすが東京人だ)と私は思いました

(余談ですが坪内さんの文体で特徴的なのはこんなふうに文末に(  )で註釈を入れることでそれが時に文章本体より長くなることもありました。

 そしてそこには読点「、」をあまり入れさせなかったのですが、もしかするとそれは本人の早口を文体上再現しようとしていたのかもしれない)。

――平山周吉「東京タワーなら倒れたぜ」



 ここに登場する名嘉真(春紀)さんとは、幻戯書房の編集者(本書を担当)で、この引用された追悼文「坪内さんの電話」は「ユリイカ」に掲載されたものである。

 当方は『靖国』(1999)『慶応三年生まれ 七人の旋毛曲り』(2001)『一九七二』(2003)など、編集者出身らしくユニークな視点の坪内に魅かれた。文壇ゴシップも楽しんだ。しかしいつの頃からか坪内本を敬遠するようになった。

 この人の文章は、パソコンで打ったものでなく手書きであろうと思われ(それはそれでいい)、その( )書き多用の文章、酔っぱらいながらだらだら書いているんじゃないでしょうね、思いついて( )書きで補足したり、いったん書き上げれば書き直しはしないんだろうなと、たまには添削しなさいよ、と気になって仕方がない。
 なぜあちこち( )で括るのか理解できなかった。註釈とは思いもしなかった。( )書きがあるとイライラした。速読のリズムが乱された。

 これまで当ブログで坪内祐三を十数冊とりあげているが、こんなメモが残っている。
 曰く、おなじみ( )書き多用の坪内祐三の文体。読んでいて呼吸の仕方が分からなくなり、苦しい。曰く、この書評はいい、いつものやたらカッコ書き多い文章でないのも、いい。曰く、このやたらに( )つきの文章に疲れる。曰く、これは( )書き多用のメモ書きのような文章でないのが何よりすばらしい。

 じつは坪内祐三への追悼文あまたあるなかで、その( )書き多用の文体に触れているのは、この平山周吉が引用した名嘉真春紀「坪内さんの電話」のみである。さすが名編集者。

(以上、けっこう坪内文をマネてみました。書きながらイライラした)

 ついでに書けば、坪内に作家の追悼特集について書いたものがあり、たしか文芸雑誌に掲載される追悼文の多寡は、作家の死亡年齢とリンクし、あまり高齢で亡くなると追悼文を書ける同時期の作家がいないためで作家の評価ではない、とあった。さて、坪内祐三の場合は?

 

Amazon坪内祐三★みんなみんな逝ってしまった、けれど文学は死なない。

 

 

 

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