03/芸というもの

2017.04.13

大下英治★高倉健の背中――監督・降旗康男に遺した男の立ち姿

20170413

 

英二、どこまでも歩いて行く……。このラストシーンは、台本では高倉がさっと去って行く―― となっていた。

  降旗の脳裏に、ふと降旗が初めて撮影で高倉と会った美空ひばり出演の「港町十三番地」で有名な歌謡映画『青い海原』のシーンが浮かんだ。船員の高倉が、ズダ袋を肩に担いでさすらいの船員にもどって歩き去って行く……。

  降旗は、その若き高倉と81歳の高倉を重ね合わせ、高倉がバッグを肩に歩いて去るシーンに切り替えた。

 そこに、山頭火の俳句を文字で流すことにした。〔…〕

  このみちや

 いくたりゆきし

 われはけふゆく

 ――第九章『あなたへ』

 

 高倉健の背中――監督・降旗康男に遺した男の立ち姿  |大下英治|朝日新聞出版|201701|ISBN9784022514172|

  サブタイトルに降旗(ふるはた)の名があるので、本書を手に取った。当方は、監督・降旗康男、撮影・木村大作コンビの映画が大好きである。

  プロデューサー坂上順によると、東映東京撮影所売り出し中のころから、降旗は「呑舟之魚」という言葉が思い浮かぶほど大物感を漂わせていたという。当方は、深作欣二のようにあざとくなく、加藤泰のように文学性を際立たせることなく、観客としてゆったりと画面を眺めるだけの降旗作品のファンだった。

  本書は、デビュー間もない東京撮影所時代の高倉健と降旗の出会いをはさんで、21本のコンビ作品のうちから『冬の華』『駅 STATION』『居酒屋兆治』『夜叉』『あ・うん』『鉄道員』『ホタル』『あなたへ』8作の撮影エピソードを綴ったもの。

  当方は、その昔東映任侠ものでは高倉のファンだった(加齢とともに興味は鶴田浩二、池部良に移ったが)、高倉のベスト3を選ぶとすれば、『昭和残侠伝』『駅 STATION』『夜叉』である。

 『駅 STATION』1981)は、高倉と倍賞千恵子が恋仲になってしまった作品らしい。ふたりがテレビの八代亜紀「舟歌」を見る名場面もさることながら、冒頭のいしだあゆみの汽車で去っていく1シーンがすべてだった。

 『夜叉』1985)を選んだのは、木村大作による北陸の雪の中の港町という映像の美しさもあるが、田中裕子の妖艶さであった。画面に現れるだけでドキドキさせるほど色っぽかった。本書によれば、撮影中ちょうど沢田研二と恋仲であり、三日休みをくれといいアメリカへ有名歌手のライブを二人で見に行ったという(その27年後『あなたへ』の田中裕子は脂が抜けきり単なるおばさんだった)

 高倉健は、なんとなく女々しいというイメージがあって好きではない。あなたに褒められたくてという著書のタイトルも、気に入った共演者に「高倉健」の名前を彫った時計を贈る習慣があったのも、気持ち悪い。鶴田、高倉の二枚看板が嫌で自分ひとりを選んでくれたら「あなたに一生尽くします」と俊藤浩滋プロデユーサーに言ったというのも、嫌な感じがする。

 無冠の男 松方弘樹伝』鶴田派の松方弘樹が、高倉はぜんぜん男らしくなく、“男高倉健”はまったくの虚像」で「唯一、好きになれなかった先輩」だと語っていたのを思いだした。それはともかく、高倉健という俳優は、高倉健というカリスマのイメージをつくりまもるために生涯を費やしたようだ。

  さて、降旗康男監督は、脚本が出来上がる前にシノプシスだけで撮影に入ったり、演技指導もせずアドリブを受け入れながら、ストーリーをつくったり、はたまたカメラは木村大作にまかせっきり。責任だけは自分がとるという監督だったようだ。当方が最後に見たのは『少年H』(2013)。

上掲にある美空ひばりの歌「港町十三番地」の入った『青い海原』(1958・小林恒夫監督)は、降旗が初めて助監督になった映画であり、東映第2期ニューフェイスの高倉健との出会いの作品だった。ズダ袋を肩に担いで「港町十三番地」というバーに諷爽と入って来るシーンがあった。その27歳の高倉と81歳の今とをだぶらせたという。

『あなたへ』(2012)は、高倉最後の作品だが、このラストシーンについて降旗康男が語る。

 ――「この映画のクランクアップは、健さんが門司港の岸壁を歩く長回しのラストシーンでした。今になって、健さんがどこか遠くへ去ってしまうように見えると言われますが、僕自身、あれが健さんの最後のシーンになってもいいように、との思いで撮ったんです。道がもっと長かったら、まだまだ健さんをカメラで追い続けていきたかった(本書)

  著者大下英治は、降旗への長時間のインタビュー、木村大作たちスタッフへの取材、過去の雑誌記事などから、高倉、降旗コンビの映画づくりを綴ったもの。大下英治『映画三国志――小説東映』(1990)を読んだ頃をひさびさに思いだした。 

松方弘樹・伊藤彰彦無冠の男――松方弘樹伝

 

大下英治★映画三国志──小説東映

 

 

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2017.02.22

松方弘樹・伊藤彰彦★無冠の男――松方弘樹伝

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 主役がお芝居をやり過ぎるとお客さんがついてこられないんです。上手すぎると疲れるんです。だから「出」(出番)が多い主役のときは淡々と演じます。それば時代劇のときもやくざ映画のときも一緒です。〔…〕

 主役は脇からいろんな役者にもたれられるから“もたれ”っていうんです。

 たとえば『仁義なき戦い』シリーズで、金子信雄さんが主役を食おうと文ちゃんにかかっていくわけじゃないですか。僕も文ちゃんに絡んでいきます。

 そうやってもたれかかってくる共演者をうまぁく、それぞれの技倆を見ながら捌いてゆくのが主役なんです。

主役は上手に脇をもたれさせてやらなきやならないんです。

「俺が…‥俺が…‥」でやると錦兄イと成田三樹夫さんみたいに喧嘩になっちゃいます。

 

 無冠の男――松方弘樹伝 松方弘樹伊藤彰彦講談社2017年02月ISBN:9784062205443|○

  松方弘樹(1942~2017)への長時間インタビューを元にした評伝である。当方、松方の映画はほとんど見ていない。本書を手にしたのは、著者に伊藤彰彦の名があったからである。

  伊藤彰彦『映画の奈落――北陸代理戦争事件』(2014)。なにしろ『北陸代理戦争』(1977・深作欣二監督)公開後、映画のモデルとなった親分がその舞台となった場所で殺害される。映画がつくられるプロセスとモデルとなった実在のヤクザたちを追ったノンフィクションの傑作である。

 松方弘樹といえば、こんな話を思いだした。倉本聰が勝新太郎から、ある親分の伝記を書いてくれと頼まれ、二人で神戸へ行き、そこでヤクザの連中と飲んだときの話だ。

 ――ちょうど「仁義なき戦い」が封切られて、ヒットしかけていた時なんだけど、「やくざを演じるのに一番うまい俳優は誰か」っていう役者論になったんです。「菅原文太は違うぜ」「小林旭も。あんなに格好良くない」って、1人ずつくさしていくんです。「おらんな」。そして、最後に1人が「ああおったぜ」って叫んだ。「誰だ」「松方(弘樹)だ」。そうすると、みんなが「そうだ。あれこそやくざだ」ってことで一致しました。その理由は「あの間のずれた感じと、センスの悪い洋服の感じがまさしくやくざなんだ」って。(『聞き書き倉本聰ドラマ人生』・2013

  本書を読めば、松方のみならず東映撮影所が山口組などヤクザ集団とずぶずぶの関係だったことが分かる。

 さて、本論。第2東映の剣豪スター・近衛十四郎の息子・松方弘樹、旗本退屈男・市川右太衛門の息子・北大路欣也とが、月形龍之介の『水戸黄門 助さん格さん大暴れ』(沢島忠監督)で売り出したのが、1961年。松方は東映の暴れん坊、北大路は東映のプリンスと名づけられた。

 小学生の時、“世の中で一番偉い人間”と思っていた父が、ある人にぺこぺこお辞儀をしている場面にでくわす。それが御大・右太衛門。その横に目玉をギョロギョロさせている子がいて、それが欣也(1943~)。この子には負けたくないと。ライバル関係はここからスタートする。

 父近衛十四郎を「近衛さん」と呼ぶ。。中村錦之助は「錦兄ィ」、鶴田浩二は「鶴田のおっさん」。 この三人は松方が、畏敬し、心酔し、私淑した人たちだ。東映は、千恵蔵×右太衛門、錦之助×橋蔵、鶴田×高倉というように、つねに両雄を並び立てる。松方は鶴田派なので、高倉健は「ぜんぜん男らしくない。“男高倉健”はまったくの虚像」で「唯一、好きになれなかった先輩」だと手厳しい。

 その高倉が文化勲章を、また北大路欣也が旭日小綬章を、しかし弘樹は“無冠の男”を貫き通した。弘樹×欣也という両雄関係とファンはみたかどうか。たとえば『仁義なき戦い』5部作で、欣也は事実上の主役を2作、しかし弘樹は3作にでるが脇役だった。本人は語っていないが、生涯のライバルは北大路欣也だっただろう。

 当方が、本書で最も惹かれたのは上掲の“もたれ”ような芸談の数々である。

 たとえば萬屋錦之介が12年ぶりに東映に帰った『柳生一族の陰謀』(1978・深作欣二監督)は、 錦之介の但馬守の大仰なセリフ回し、松方の家光の顔の三分の一を覆う大きな赤痣のメーキャップ、烏丸少将の成田三樹夫の“怪優”ぶりが評判だった。

 ところが錦之介が成田に「お前の芝居は流れていて面白くない」、“生き殺し”(強弱)がないと酒の席で大喧嘩になったという。

 また、リメイク版の『十三人の刺客』(2010・三池崇史監督)のラストの死闘で、13人のうち、松方さんの表情だけがはっきりわかります。なぜでしょう?と問われて……。

 ――それは立ち廻りの合間に、一瞬止まっているから。僕だけが止まっていて、あとの俳優さんは流れています。立ち廻りは“動”ばかりではダメで、“静”があって、止まったところの表情を見せないと、その人物の気持ちが見えないんです。(本書)

 松方は入社したとたんに映画が斜陽になり、時代劇でやっと主役を張れたと思うと時代劇が終わり、みんなテレビや舞台に活動の場を移すが、松方は脇役として任侠映画を支え続ける。 

 そういえば、『北陸代理戦争』は新仁義なき戦いシリーズとして企画されたが、菅原文太がもうヤクザ役は嫌と断ったため松方弘樹が主役を務めた。以後、実録物で文太の跡を継ぐと期待されたが、映画と事件が混在したトラブルの発生したため、東映は実録やくざ路線を中止し、一気に終息に向かったのだ。

  ――松方は結果として、実録路線掉尾の代表作の主演俳優となる。この後も、大作時代劇でもⅤシネマでも繰り返され、松方はいつでもひとつの時代の見届け人となる。ここに「遅れてきた最後の映画スター」松方弘樹のそれゆえの悲哀と孤高がある。(本書)

 松方弘樹は時代劇、侠客もの、実録もの、大作もの、Vシネマと確かに“遅れてきた最後の東映スター”である。

 ――いままでやってなかった吉良上野介をやりたいですね。『忠臣蔵』の役柄は役者にとっての道しるべみたいなものなんですよ。10代のころは大石主税、20代になったら浅野内匠頭、30代だと堀部安兵衛、40から50ぐらいになると目標は大石内蔵助ですよ。それで6070になると吉良上野介が回ってくる。僕は大石までは全部やってるんです。あと吉良だけやっていない。これから吉良をどうやるか……それが楽しみですね。(本書)

  20時間にわたるインタビューをこう締めくくった松方弘樹は、その1か月後、脳リンパ腫のため死去。74歳だった。

伊藤彰彦■映画の奈落――北陸代理戦争事件

 

倉本聡/北海道新聞社:編□聞き書き 倉本聰ドラマ人生

 

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2016.11.28

角川春樹・清水節■いつかギラギラする日――角川春樹の映画革命

20161128

 

 実際の大和の全長は263メートルだったが、そのうち190メートル分が原寸大で再現されたのだ。〔…〕

 生存者たちの大和に対する賛歌のためにも、きちんと造らないといけませんから」

 最大幅40メートル、艦橋の高さ15メートル、長さ18メートルの主砲3門、副砲門、高角砲5基、三連機銃14、鉄鋼使用6トン。原寸大の大和の建造には4カ月を要し、6億円が投じられた。

 完成した作品には、特撮であることを意識させず、いかに記録映像に近づけるがという主旨のもと、ロングショットでの航行や戦闘シーンなどに、ミニチュアやCGVFXも使用されている。

 しかし、原寸大の大和を造ったことの効果は計り知れなかった。〔…〕

何より、スタッフやキャストは甲板に立つことで映画の虚構性を超え、あの時代を、五感を通して実感することができたのだ。

――scene12 大和の奇蹟

 

■いつかギラギラする日――角川春樹の映画革命 |角川春樹・清水節|角川春樹事務所|201610|ISBN: 9784758412957|

  角川書店を創立した角川源義の3人の子ども、ややエキセントリックな春樹(1942~)、兄と対立する歴彦(1943~)、そして二人と同じく出版社(幻戯書房)を営み、歌人でノンフィクション作家である辺見じゅん(1939~2011)。辺見には『呪われたシルク・ロード』(1975)、『収容所から来た遺書』(1989)というノンフィクションの傑作がある。

  ――あるとき辺見は、春樹に向かってある兵士の話をした。

「大和の沈没後、奇蹟的に生き残った兵士が島に収容された。沈没した事実を隠すためだったのでしょう。そこで咲き誇る桜を見た瞬聞、その兵士が突如発狂したという話でした。自分は死に物狂いで戦ってきたのに、桜は平然と咲いていやがる。あまりの無情さに狂ったのでしょう。それを聞いてますタイトルを思いついた。『男たちの大和』しかないと」。

 ぜひ一冊の本にまとめるよう、姉に勧めました。本はうちで出す。取材も支援すると」(本書)

 辺見じゅん『男たちの大和』(1983)が角川から刊行されると、乗組員戦没者の遺族から多くの手紙が届く。1985年、辺見は鎮魂のために春樹と「海の墓標委員会」を結成し、1945年に沈んだ大和の探索を始め、ついに艦首の菊花紋章を発見する。そして上掲のように映画化する(2005年公開)。

  ――終戦/敗戦から60年の節目に生まれた『男たちの大和/YAMATO』は、戦争を知る世代の実体験と鎮魂の想いが結集した最後の戦争映画になった。(本書)

 以降戦争を知らない世代によって作られた戦争映画は、戦争の事実を伝えるのではなく、フィクションによって感動させるための戦争映画になった、と著者は語る。

   本書は、角川映画のメディアミックス戦略による『犬神家の一族』から『男たちの大和』までを、春樹へのインタビューと映画関係者の著書からの引用によって構成された“春樹の映画史”。角川商法は毀誉褒貶にまみれたが、日本映画に革命を起こした偉大なプロデューサーであった。

  なお、春樹の映画論としてこんなことが語られている。

 俳人でもある春樹は、自らの監督作品『汚れた英雄』(1982)に俳句理論を適用したという。第1に、俳句も映画も〈リズム〉である。リズムを決定づけるのはキャメラ・アイ。第2に、俳句はイマジネーションであり、映画は〈映像の復元力〉、つまりあるシーンを鮮烈に思い出すことができること。第3に、〈自己の投影〉、つまり自分の想いを濃厚にフイルムに反映させること。

角川春樹□夕鶴忌――一行詩集

辺見じゅん▼夕鶴の家――父と私

 

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2016.11.18

石井妙子■原節子の真実

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 昭和14年、その矢沢(正雄)に召集令状が届く。ふたりの交際は淡いものだったが、矢沢はけじめをつけるべきだと判断し、「自分は生きては帰れないと思う。お互いに自由に元気にそれぞれの道を歩もう」と節子に告げ、戦地に向かった。〔…〕

  戦時下の不穏な空気は、節子をそれまでになく恋へと向かわせたのだろうか。戦後、こんな発

言をしている。

〈戦争中は恋愛なぞ考えるいとまもありませんでした。

 だけれど唯誰かを愛していなければあの大苦痛、狂いそうな時間の連続にはたえられないような気がしました〉(「民報」昭和22531日)

 さらにもうひとり、彼女が思いを寄せた男性がいる。

 それは淡い恋ではなく、結婚を意識した熱烈な恋だったと映画関係者の間では、密かに語り継

がれてきた。昭和15年ごろのことと推察される。節子は20歳だった。

 ――第5章 秘められた恋

 

原節子の真実 |石井妙子|新潮社|20163|ISBN9784103400110 |◎=おすすめ

 ――平成279月5日、原節子という伝説を生き切った会田昌江は、95歳でその生涯に幕を下ろした。半世紀にも及んだ隠棲の末に。

 その死は故人の固い遺志によって、およそ3カ月のあいだ、世に知られることはなかった。(本書)

 原節子は、1920年生まれ、1963年に引退したから、封切りを映画館で観たという人はもうほとんどいないだろう。映画全盛のころ映画館で観たのは、木下恵介であり黒澤明であって、小津安二郎ではなかった。小津の評価が欧米からの逆輸入されてから、テレビの深夜番組や衛星放送で原節子がひんぱんに見られるようになった。

 当方もその一人。『わが青春に悔なし』(黒澤明・1946)、『安城家の舞踏会』(吉村公三郎・1947)『青い山脈』(今井正・1949)『めし』(成瀬巳喜男・1951)など、すべてテレビだ。

 しかし再三放映されたのは小津安二郎の作品で、『晩春』(1949)『麦秋』(1951)『東京物語』(1953)『東京暮色』(1957)『秋日和』(1960)『小早川家の秋』(1961年)。

 当方にとって小津作品の魅力は、その時代の折り目正しい日本語による会話と清楚でシンプルなファッションであった(『秋日和』で銀色のマニキュアをした和装の原節子に幻滅したが)。

 小津の死と原の引退が同じ年だったことから、「小津の死に殉じて姿を消した」という原節子伝説もあった。本書によれば、「小津映画を代表作とされることに、節子は不満を抱いていた。小津映画に敬意を払っていたことは確かであり、出演すれば評価されることもわかっていた。とはいえ、もっと躍動感のある映画、人生に果敢に挑んでいく女性を演じたいと思っていたことも事実である」。

  ――多くの巨匠たちに愛され、数々の名作に出演し、幸福な女優だと語る人がいるが、果たしてどうであろうか。彼女は最後まで代表作を求め続けた。しかし、その夢は果たせなかった。女優人生のなかで恋を犠牲にし、実兄を失い、自身の健康を損ない、得られたことはどれほどのものだったろう。(本書)

  2000年発表の『キネマ旬報』「20世紀の映画スター」で日本女優の第1位に選ばれたという。かつてのスター女優がテレビで老醜をさらすことも多い(それも一つに生き方だ)が、“映画女優”という職業が死滅した現在、原節子の「永遠の処女」伝説は語り継がれていくだろう。

 著者は、彼女の引退、隠棲、独身は「抗い」だった、と書く。当方は、なかでも42歳で引退後95歳で死に至るまで半世紀の間その姿を現すことのなかった、という生き方を貫いたことによって原節子伝説は語り継がれていくと思う。

 

 

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2016.01.23

矢野誠一■小幡欣治の歳月

20160123

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菊田一夫亡きあとの商業演劇作家のトップとして君臨していた小幡欣治が、戯曲『熊楠の家』の筆を執ったのは、

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劇作家としてのおのが原点である新劇への回帰の念からであったのは間違いない。

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人気役者のキャラクターにあわせた、多数の観客を動員できる台本づくりという、強いられた大きな制約を絶えず克服しなからきわめて良質な作品を生みつづけてきた実績を、そうした制約とは無縁の、しかも自分の出発の地である新劇の世界で発揮したいという、これはもう衝動と言ってもいい思いから南方熊楠なる類いまれな傑物にのめりこんでいったのだ。

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たまたまその新劇にあっても大劇団とよばれる民芸からはなしのあったことに、大きな喜びを感じたことも想像に難くない。

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こうして完成した傑作戯曲が、劇団という組織のかかえた事情によって、二年間も上演されずに棚上げされたことが、劇作家の自尊心をいたく傷つけるところとなる。

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■小幡欣治の歳月│矢野誠一│早川書房│ISBN 9784152095077 201412月│評価=○

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 本書は、劇作家小幡欣治(1928年~2011)との53年に及ぶ交遊を記録したものである。著者の日記をもとに畏敬する7歳上の小幡を描くが、年譜も作品目録もないから、評伝や作家論を意図したものではない。

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 小幡欣治は、小劇団炎座に属していたが、五味川純平『人間の條件』の脚本で一躍脚光を浴び、これを契機に菊田一夫の東宝現代劇へ移る。「日本で芝居を書くだけでめしの喰えるのは、小幡欣治ただひとり」(阿木翁助)といわれた。代表作に『あかさたな』『横浜どんたく』『三婆』『喜劇 隣人戦争』など。

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 商業演劇に筆をとったことを「志と魂を売ったような目」で見られ、小幡は「面白い芝居に新劇も商業演劇もないとした」と著者は書く。にもかかわらず『熊楠の家』以降8本の戯曲はすべて劇団民芸のために書かれた。

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「新劇への見果てぬ夢がそうさせたようにも受け取れるが、実はそうではない」と著者はいう。『浅草物語』『喜劇の殿さん』『神戸北ホテル』などむしろ商業演劇のほうが望ましいが、小幡の脚本料は最高額にランクされており、採算面で許容額をこえていたから、とする。なんだが納得がいかない記述だ。

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 落語を愛し、俳句を好む著書の洒脱な面が本書では見られず、あまりにも「小幡あにさん」に付きすぎて、贔屓の引き倒しが前面に出すぎた。たとえば『熊楠の家』の主役米倉斉加年との軋轢、これへの出演を断った三木のり平への意地の悪い視線。さらに長年の俳句仲間江国滋『おい癌め酌みかはさうぜ秋の酒』の紹介に、小幡の『根岸庵律女』の「とくに文学者が、命を売物にするんは卑しい」という一節まで引用して、江国をおとしめるのはいかがなものか。

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もっとも著者はあとがきでこう書く。

 ――若干恣意に委ねた記述に流れたきらいのあるのを、認めるに吝かではない。とくに言いわけのできない故人に対するくだりには格別に配慮したつもりだが、受け取り方によっては不快の念をいたかれるむきもあるかと思う。いたし方のないことだろう。

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 まことに近い場所に存在した小幡を書くために調査、取材をする必要がなかったためだという。そのためかたとえば俳人西東三鬼の名作『神戸・続神戸』を題材にした『神戸北ホテル』について、「予定されていた『神戸はきだめホテル』のタイトルは、三越側からふさわしくないとのクレームがついて、変更のやむなきにいたったようにきいてる」と書いている。

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しかし『神戸北ホテル――小幡欣治戯曲集』(2011)の解説にある演劇評論家渡辺保の言によれば、「この戯曲の題名ははじめ『右前方、福江島』であった」とのことである。「小幡欣治の仕事に(東宝時代に)製作者として付き合ってきたことがもはや自分の人生の一部だった」という渡辺保の文章は、べったりと密着した著者の小幡観に比べ率直でわかりやすい。小幡への矢野、渡辺の立ち位置は知らないが。

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 ――しかし基本的には書きたいものを書く自由が東宝にはなく民芸にはあった。民芸の戯曲九本は全て小幡欣治自身の企画であり、書きたいように書いたものであった。そこに東宝から民芸への移行の本質的な意味がある。(同解説渡辺保)

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 ついでに小幡欣治『神戸北ホテル』で当方がもっとも気に入った台詞……。

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――人間は生まれてくるとき、親を選ぶことは出来ない。同じように時代を選ぶことも出来ない。

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でも親は、暖かい心で子供を慈しみ、育て、大事に成長を見守ってくれるわ。でも時代は、人間が作るのに、私たちを慈しんでもくれなければ育ててもくれない。

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無慈悲で冷酷で無責任で、だれがこんな悲しい時代を作ったのか、なぜ私はこんな時代に生きなければならないのか、今でも私の心の中に熾火(おきび)のように残っている。戦地へ行っても、きっと消えることはないでしょう。(『神戸北ホテル』)

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 本書のオビに「矢野誠一の自伝ともいえます」とあるが、後半はとくに著者の演劇界交遊録のおもむきがあって、それはそれでおもしろい。

矢野誠一□さようなら――昭和の名人名優たち

小幡欣治■ 評伝菊田一夫

 

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2015.11.09

発掘本・再会本100選★鬼の詩/生きいそぎの記│藤本義一

20151109


――思想堅固デナク、身体強健デナク、粘リト脆
(もろ)サモチ酒ト色ニ興味アルモノモノ求ム。

監督室内、股火鉢ノ川島――。


撮影所の掲示板に、手帳の一頁を破った募集広告がピンでとめられていた。〔…〕


「やめとけ。あかん。行かん方がええ」

先輩は断固として反対した。理由は、川島雄三に従(つ)くと、先ず胃潰瘍になるか肝臓をやられるという。


――『生きいそぎの記』


★鬼の詩/生きいそぎの記――藤本義一傑作選│藤本義一
│河出書房新社│文庫│ISBN9784309412160201304月│評価=◎おすすめ│小説「生きいそぎの記」講演記録「師匠・川島雄三を語る」ほか。


川島雄三(
19181963)の作品といえば、当方「洲崎パラダイス赤信号」(1956)「幕末太陽伝」(1957)しか見ていない。藤本義一(19332012)が弟子入りする上掲の場面は、その二作のあと「暖簾」(1958)が終わり「貸間あり」(1959)の脚本準備が始まるころである。


「プロとアマはどう違うんですか」と川島に問われ、「嫌なことをやるから好きなことができるのがプロじゃないんですか。嫌なことを避けるから好きなこともできないのがアマというんじゃないですか」と答え、気に入られ弟子となる。


 川島はすでに筋萎縮性側索硬化症を発症しており、それだけで満腹になりそうなほど掌にいっぱいの薬を飲んでいたという。その川島と
20代半ばの藤本とが、「貸間あり」の脚本を練る。川島は病気の進行に追いつかれぬよう映画づくりに生きいそぐ。その破天荒な言動を綴ったのが「生きいそぎの記」。


 破天荒、鬼気迫る、壮絶なと前置きをしたくなる3篇。落語家の「鬼の詩」、漫才師の「贋芸人抄」、三味線の「下座地獄」。川島雄三を描いた短編と講演記録を本書は収録している。


 芸人の又吉直樹が芸人を描いた小説「火花」(
2015)がベストセラーとなったが、40年前の藤本義一「生きいそぎの記」(直木賞候補)、「鬼の詩」(直木賞受賞作)と比べると、果たして文学は進化しているのかと疑問符が浮かぶ。

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2011.10.10

桂米朝◎桂米朝句集

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*

ところがやなぎ句会は、圧倒的に下戸が多い。それも一滴も飲めない完全な下戸。定例の句会でアルコールが出るというのは、まずありませんな。

 

この会の中では、私は少数派です。こんなに喧しい顔ぶれが寄っているのに、酒を飲まないというのは不思議だと、よく言われます。

 

ところが、酒を飲まないからといって、句作に集中しているわけやない。みんな、だべっているのが楽しくて、毎月集まっているんですな。

私ら酒飲みより下戸のほうがワアワアと賑やかです。

 

酒を飲まないから、喋らなしょうがないんですな。

けど、決して無駄な時間ではない。何の気兼ねもいらない仲間同士の馬鹿話には、役立つことも多いもんです。

 

──「四十周年、短いような長いような」

 

 

◎桂米朝句集│桂米朝│岩波書店│ISBN9784000258111201107月│評価=△

<キャッチコピー>

桂米朝師匠。俳句を嗜むことでも知られ、東京やなぎ句会発足時(昭和44年)からのメンバーである。俳号は「米」の字にちなみ八十八。桂米朝初めての句集。東京やなぎ句会で詠まれた作品を中心に収録。その高座同様に粋で端正な俳句から、遊び心あふれる破礼句まで、米朝俳句の多彩な表情が味わえる。

<memo>

上掲の随筆は、東京やなぎ句会編『五・七・五──句宴四十年』から再掲されたもの。以下、酒にまつわる10句を紹介。

稲妻の帰りたくない夜の酒

三の酉君等まっすぐ帰るのか

待人来ず又酒にするカビの宿

浴衣がけだんじり囃子はもの皮

十年をヒレ酒二杯埋め去り

鴨鍋を少し残せし恨みかな

夜は雪という予報あり酒にする

初燕花見小路をぬけゆけり

法善寺ぬけて帰ろうはるの雨

もう一本たのむよと云う京しぐれ

 

東京やなぎ句会■ 友あり駄句あり三十年

東京やなぎ句会◆五・七・五――句宴四十年

桂米朝■私の履歴書

 

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2011.09.23

発掘本・再会本100選★映画三国志──小説東映│大下英治

20110923

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岡田も、『日本侠客伝』の試写を見て、よろこんだ。

「これは、いける。高倉のリアルな迫力も、なかなかええじゃないか」

中村錦之助のピンチヒッターとしての起用が間違っていなかったことを、あらためて感じた。〔…〕

岡田は、俊藤にいった。

「鶴田で“博突打ちシリーズ”、高倉で“侠客シリーズ”をやろう。頼むで」〔…〕

この『日本侠客伝』を境に、錦之助と高倉は、明暗を分けていく。

俊藤は、ふと思うことがある。

〈もし『日本侠客伝』を錦ちゃんが主演で演じていたら、錦之助の俳優としての運命は変わっていたやろな。

鶴田同様に着流しやくざをみごとに演じ、十年は錦之助の時代が延びていたろうな……〉

高倉健主演の『日本侠客伝』は、昭和39813日に封切られるや、爆発的にヒットした。

◎映画三国志──小説東映│大下英治│徳間書店│ISBN9784191242104199004月│評価=◎おすすめ

<キャッチコピー>

千恵蔵・右太衛門が大車輪。『きけわだつみの声』『ひめゆりの塔』の大ヒット。ひばり&錦之助。健サン・鶴田浩二・お竜さんの任侠路線。実録路線の『仁義なき戦い』。文太・欽也の『トラック野郎』。空前ヒットの『二百三高地』『柳生一族の陰謀』…etc。「スポーツニッポン」連載の『映画だけが人生だ』を加筆したもの。

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<memo>

『映画三国志──小説東映』(1990)は、元社長・岡田茂が創立された東映に入社するころから1980年までをエピソードで綴った東映映画史である。ずっと気になっていたが文庫化されず、入手したのはずいぶん後である。

1981年には『東映映画三十年──あの日、あの時、あの映画』という全映画のスチール写真で構成した“社史”が東映から発行された(付録に、312作品の映画ポスターを一枚にしたポスターがあり、ルーペ付)。冒頭に寺山修司の詩が載っている。多羅尾伴内、網走番外地、緋牡丹のお竜、笛吹童子に触れ、「東映映画のスクリーンのなかの/心の旅路をふりかえると/三十年は、やるせない長い一瞬だ/さらば、さらば、一回かぎりの人生よ/また来る映画に、春がある」と結ばれている。

この2冊はわたしにとっても“やるせない長い一瞬”を振り返らせてくれる愛蔵本である。なお、岡田茂『悔いなきわが映画人生――東映と、共に歩んだ50年』(2001)がある。こちらは私的50年史である。

「日本侠客伝」をめぐる三者三様

任侠と加齢と

石井妙子★おそめ

岡田 茂■ 悔いきわが映画人生――東映と、共に歩んだ50

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