古川日出男◆ゼロエフ …………“復興五輪”について被災者の話を聞き、やがて平家物語、そして憲法に至る
来春には東日本大震災から10年、みたいな区切りが来て……と私が言う、……その先には震災は忘却されるのか自然な流れなのかな、とも思うんですけど……。
ごにょごにょと言ってから、問う。
「どうやったら、伝えつづけられる、と考えます?」
「言葉は悪いけれど、傷なのかな」
「傷」私は即座に了解する。
「傷を残すこと」と高村さんは言って、「傷はたぶん、ずっと治らない」と続けた。
治らないから、と聞こえた。
古川日出男◆ゼロエフ 2021.03/講談社
著者は1996年、福島県郡山市生まれ。
東京オリンピックが決まり、「復興五輪」と謳われととき、東京オリンピックは東京でやればよい、「復興五輪」ならば被災地だけでやればよい、と著者は思う。「言葉が蔑ろにされている」。歩こう、と思った。
――その開会式からその閉会式まで、福島県内を歩いて、それが歓迎されているのか、そうではないのか、それは復興に貢献しているのか、そういうことではないのか、まず見よう、と思った。
そして話を聞こう、と思った。(本書)
オリンピックは1年延期されたため、当初予定の2020年開会式前日に出発。「アスリートたちに礼を欠いては駄目だ」と自ら肉体を酷使する徒歩(かち)を選択。4号線を北上し、つぎに6号線を南下する。
同行は学(38歳)、耕太郎(29歳)、そしてNHKの撮影クルー(ディレクター、カメラマン、音声マン)。のちに「目撃!にっぽん」で「震災10年の“言葉”を刻む 〜小説家・古川日出男 福島踏破〜」のタイトルで放送される。
読後とくに印象に残ったのは上掲の“語り部”の発言。
高村さんは3人の男の子、発災当時は下の子は4歳、長男は21歳の母親。どうして“語り部”の人たちは、それをしているのか? インタビューなど“報道”についてこう語る。
――「本には行間というのかありますよね?」と高村さんは私に振った。
「はい。行間が大事ですね」
「大事ですよね? 私は『行間がある。そこに著者が込めた思いがある』というのをわかって本を読むのが当然だと考えていたんですけれど、それは旧い世代の考え方で……」〔…〕
「……若い世代は、字面しか見ない。で、テストのための答えしか出さない。そういうのがもう、私は、本当に残念で。どうしてこうなってしまったんだろう」
――「でも言葉にはつね高村さんの表情が伴われて、口調が伴われて。前後の文脈があって。
『このメッセージはこういう思いで語っていますよ』というのかある。それが、飛ばされるんですよね。“抽出”で。行間を消してしまう報道、というのはそういうことです」(本書)
著者は、中通りと浜通り、計360キロ、19日を歩き抜く。
やがてかつて現代語訳した『平家物語』に思いが及ぶ(訳者として、1185年の文治大地震の被災者たちに『平家』を語らせた)。
―――『平家物語』は震災文学であると感ずる。同じ口振りで言うのだけれども、『平家物語』は反戦文学である。日本の、古典文学、にして、古典反戦文学。
そういうものがあるのならば(事実ある)、日本の、現代文学、にして、現代反戦文学もあるだろうと探した。脳内にだ。答えは瞬時に出る。日本国憲法。(本書)
そして、その条文。九つめ……。