05/ビジネスという甘きもの

2021.12.08

服藤恵三◆警視庁科学捜査官 難事件に科学で挑んだ男の極秘ファイル   …………オウム真理教事件の科学的解明に活躍した男の自伝

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「科学を捜査に使う」といっても、具体的にどうするのか、方法はその場その場の手探りだった。

 鑑定機関である科捜研や大学の法医学教室などと捜査本部を行き来し、その内容をまとめたり伝えたりする係が、捜査一課と鑑識課にあった。この捜査員たちは自ずと、学術的内容をある程度理解するようになる。事件の内容によっては、関連する科学を勉強する必要も生じる。あの時代の「科学捜査」は、そんなレベルだった。

 状況が大きく変化したのは、オウム真理教事件だ。化学兵器が犯罪に使用され、銃火器や禁制薬物以外にも、数々の違法な科学が駆使された。

 それらを製造する情報の入手は、新たな時代の科学を象徴するインターネットに依るところも大きかった。当時、「オウムの後は、何でもありの時代がやってくる」と痛感したことを思い出す。〔…〕

 犯罪の高度化が進み、従来の捜査方法や能力だけでは対処できない場面が、そこここに現れ始めていたのである。

 科学的理論を捜査に活用する方法を具体的に示し、結果として見せ、判例を作っていく作業が必要だった。

◆警視庁科学捜査官 難事件に科学で挑んだ男の極秘ファイル 服藤恵三 /2021.03 /文藝春秋


 服藤(はらふじ)恵三(1957~)は、東京理科大学理学部化学科出身で警視庁科学捜査研究所の鑑識技術職員として入庁する。

 その職場は、鑑定の依頼があっても「1日で出来るものは3日かかると言えよ。3日で出来るものは1週間かかるって言うんだぞ」と先輩に教えられ、仕事を教えてと頼んでも「それは財産。なんであんたに教えないといけないの」、技術的レベルは低く、学術的な勉強をする仕組みもなかった。「定年まで、ぬるま湯に漬かっていればいいんだ。捜査員から先生、先生と呼ばれて、科捜研は最高だぞ」。

 服藤は、つねに最善、真実の解明に挑戦し、入庁した年に「ミクロカラーコンピュータ」という車両の塗膜片から車種を特定する鑑定機器を、4人のプロジェクトで開発した。この装置はその後、全国の警察に配備された。

 1995年3月20日9時5分ころだった。警視庁本部庁舎の隣にある警察総合庁舎内の科学捜査研究所(科技研)に「急いで頼みます」緊張した声と同時に、捜査員が駆け込んで来た。
「築地駅構内に停車中の、車両床面の液体を拭き取ったものです」とビニール袋を差し出した。
 これが地下鉄サリン事件とのかかわりはじめであった。

 ――9時34分、ガスクロマトグラフ質量分析装置のモニター画面に、構造式と共に文字が映し出された。
〈Sarin〉
「やっぱり」と「なぜ」が交錯した。サリンの実物を見たことはないが、無色の液体とされている。分析では、サリンと共にN,N-ジエチルアニリンが検出された。反応促進剤として用いられることもある物質で脱脂綿に付いていた液体の薄黄色はこれが由来だと推定できた。
「すると不純物の混在した、精製されていないサリンか?」〔…〕
しかし、誰が何のために……との思いが駆け巡った。(本書)

 3月22日山梨県上九一色村のオウム真理教サティアンに警視庁の強制捜査が入る。服藤のもとには、押収された薬品の輸送に際しての危険性について協力要請がある。

 ――押収品目録を渡された。そこには、毒物、劇物、危険な薬品類をはじめ、およそ宗教団体が所持するとは思えない極めて多くの化学物質の名前が並んでいた。しかも、量が半端ではない。
輸送するには、固体か液体かという性状や反応性などの性質により、密閉性や積載方法が異なる。たとえば強アルカリと強酸が接触すれば、発火や爆発の恐れがある。輸送自体が困難な毒物もある。目録を一つ一つ調べ、分類し終えた。(本書)

 これ以降、捜査本部や現地指揮本部から服藤への科学に関する問い合わせは何でも対応するようになった。警視庁科捜研、警察庁科警研といっても当時は人材が払底していた。

 やがて押収品の「実験ノート」から、土谷正実という教団の化学者としてサリン生成方法を確立した男に行きつく。土谷と服藤の対話によって謎がつぎつぎ解明されていく。捜査員のような仕事もした。

 ――土谷の供述では、松本サリン事件に使用したサリンの生成は、最終工程を第7サティアン3階に小型反応タンクを設置して個別に行なったという。この小型反応タンクが隠されているので、見付けてきて欲しい.というのである。
そして、第3サティアン1階の資材置き場で、青色の小型反応タンクを発見した。(本書)

 地下鉄サリン事件から1年後の1996年4月、服藤は警視庁史上初の科学捜査官に任命される。役職は、捜査第一課科学捜査係の係長(警部)。

 著者服藤恵三とはどういう人物か。当方の印象は、技術職として優秀であり、改革に意欲があり(同僚から敬遠され)、捜査畑のトップに取り入り(好かれ)、出世ばかり気にし、しかし深夜まで働く(博士号も取得)、といったタイプ。

 だが悩みの種は出世欲を抑えられないこと。研究職の昇任試験に2度落ちたこともある。警視に昇任した後輩がどんどん所属長になっていく。そのたびに出席する送別会は、針のむしろだった。技術畑出身で捜査畑も対等に勤めた男の悩みであろう。

 ――かく言う私も、人の気持ちや言動や、その裏に隠された思いを理解せずに接して来たひとりに過ぎない。特に50代前半までは、自分が正しいと思って突き進んだ場面が多々あった。当時の部下や同僚、接していただいた方々を、知らぬ間に傷付けたと思う。 (本書)

 科技研で研究員として15年、特命理事官で2年、捜査一課で通算7年、刑事総務課で通算4年半、捜査三課で1年、警察署勤務は1年7カ月、警察庁・警察大学校特捜研で約7年3カ月。著者略歴に元警視長とあるから部長級まで出世したのだろう。

 さて麻原彰晃が何を目指していたのか。押収されたノートや医薬品から、服藤は推測する。

 ――麻原は、サリンも生物兵器も効かない身体を求めていたのだと思う。「ハルマゲドン」を自作自演し、化学剤や生物剤でたくさんの人々が倒れている中で、自分ひとりが平然と立ったまま手を振っている。そんな神のごとき肉体を、夢見ていたのではないだろうか。(本書)

 

 

 

 

 

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2021.12.06

大下英治◆スルガ銀行かぼちゃの馬車事件  四四〇億円の借金帳消しを勝ち取った男たち …………悪徳ビジネスに対決する弁護士と被害者同盟の破天荒な闘い

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 待ち合わせに指定してきた喫茶店で二人の前に現れたその〔スルガ銀行〕元行員は、氏名の秘匿を条件にして切り出した。
「この場限りですよ。いまも監視されている可能性がありますから……」
「監視?」


「スルガは辞めた人間が情報を漏らさないか、探偵をつけているんですよ。……そんなこともする組織なんです」〔…〕

「スルガは、反社とつながってて、パワハラも当たり前の環境でした。そんなところで優秀な社員というと……要するに、法律違反を平気でできて業績をあげられる奴です」

「今回のシエアハウス投資スキームにも関係が?」
「はい、キックバックで1億円以上儲けたって得意になってた同僚もいました。仲介業者から足がつかないように、レターパックに現金を入れて受け取ってるんですよ。どういう金か周りもみなわかってますけど、誰も何も言わない……金庫を買わないと金が入りきらないって笑ってました…」

◆スルガ銀行かぼちゃの馬車事件 四四〇億円の借金帳消しを勝ち取った男たち 大下英治 /2021.02/さくら舎


 これは「かぼちゃの馬車」というシエアハウスを購入したものの、運営会社の経営難により、千人を超えるオーナーが莫大な借金を抱えることになった事件である。
「被害者は、30年ローンということで、ほとんどが40代の働き盛りなんだが、シエアハウス1棟1億5千万円ほど出資している。しかし、販売会社や運営会社、スルガ銀行がグルでだましていて、ただの不動産投資の失敗では片付かない」

 たとえば、こんな本を読んで、騙される。『「家賃0円・空室有」でも儲かる不動産投資』(ダイヤモンド社刊)というタイトルに、「脱・不動産事業の発想から生まれた新ビジネスモデル」の副題がついている。帯には「『住まい×仕事』女性専用シエアハウスだから実現した社会貢献型ビジネス」。

 河合弘之弁護士は、これを「悪の平行四辺形」というフレーズを使った。
 シエアハウス詐欺の仕組みを編み出したスマートデイズ、シエアハウス投資を売り込むゼノン住販、返済能力のない者に融資をしたスルガ銀行、客に高値で売りつけキックバックをスマートデイズに渡していたホーメストを代表とする建築会社である。

 河合弘之弁護士と冨谷(仮名)がリーダーの被害同盟のメンバーたちは、自己責任論で傷つきながらも、不正融資は返済せずと戦いに挑む。スルガ銀行岡野会長宅にデモをかけ、株主総会で経営者を糾弾し、株主代表訴訟も起こした。世間を騒がせた「スルガ銀行不正融資事件」。被害者約250名が抱える不動産担保ローン合計残高約440億円をスルガ銀行が「帳消し」にするという、金融史上前例のない奇跡の解決となった。

 河合弁護士の活躍譚の一部始終を綴った本書で、最後に河合弁護士はこう語る。

 ――「弁護士とは、ある意味寂しい職業なんです。困っている人たちの依頼を受け、一生懸命闘っても、普通は『解決バイバイ』といって、解決すると弁護士との緑は切れちゃうんです。『ありがとうございました。お世話になりました。さようなら』と。〔…〕

 しかし、このSS被害者同盟の人たちは違った。〔…〕自分たち以外の被害者たちも、社会悪からきちんと救済をしなければならない。またこれ以上詐欺事件を発生させてはいけない。そうした社会的立場にまで到達したという点で、希有な被害団だと思います。そういう人たちとともに闘って成果をあげることができたのは、わたしたち弁護士、またわたし個人にとっても一生の宝です」

 

 

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2021.11.10

本橋信宏◆出禁の男 テリー伊藤伝    …………コンプライアンス、パワハラ、モラハラが騒がれなかった時代のテレビ界

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 テリー伊藤は視聴者を面白がらせるには手段を選ばない。あの人ほど、視聴者を楽しませることに全力を傾ける人はいない、と人々は証言する。

 その代償として現場は過酷だった。コンプライアンス最優先のいまとなっては、伊藤班は存在そのものが成立しないだろう。

 大学、政党、テレビ局、編集スタジオ、寺院。撮影後、出入り禁止になったロケ現場がいくつもあった。
 天才ディレクターは出入り禁止、出禁ディレクターでもあった。

◆出禁(できん)の男 テリー伊藤伝 本橋信宏 2021.08/イースト・プレス


 テリー伊藤(本名:伊藤輝夫、1949~)といえば、テレビで実家の築地の玉子焼き屋の宣伝をしたり、芸能人の不倫を厳しく批判する(自らは長年にわたる不倫を文春砲にやられた)滑舌の悪いコメンテーターの爺さんとしか若い人には思われていないだろう。

 だが、『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』(1985~96)、『ねるとん紅鯨団』(87~94)、『浅草橋ヤング洋品店』(92~96)など伝説的番組を手がけた“天才”ディレクターである本書は若い頃からの知り合いである本橋信宏(1956~)による評伝。400ページの大冊だが、一気に読ませる。

 当方が記憶にあるのは『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』。今おもえば松方弘樹、高田純次、兵頭ゆき、木内みどりなどレギラーの配置が絶妙だった。
 松方弘樹は、東映最後の時代劇スターであり、ヤクザ路線でも、その強面の男が、両手でハンカチをもち、額の汗をぬぐう“かわいい姿”で人気を博した。

 いくつかの証言……。

高橋がなり・元IVSテレビ制作ディレクター

「伊藤って、実は凄く常識にうるさいんですよ。『時間は守れ』『礼儀はしっかりしろ』という。
常識を身につけた中で、『非常識にならないギリギリのところで遊ぶというのがセンスだ』というわけです。常識のある人間が非常識なふりをするというのがおしゃれなんだ、という観念を持っていらっしゃるんですよ。
 伊藤さんに好かれるために、いかに人間としてダメなふりをするかとやっていったら、本当にダメな人間になっちゃうんですから

岡崎成美・IVSテレビ制作社員

「(高田)純次さんから聞いたんだけど、純次さんが伊藤さんに唯一言われたのは、『誉めるときは本人に向けて、けなすときはカメラに向かって』ってことだったそうです。
『いやーお嬢様。きれいな格好して』って本人に向かって言いながら、『でも年に見えますけどね』って言うときってカメラに向かって言う。純次さん、『伊藤さんに言われたんだよ』って言ってました。『悪口言うときはカメラ目線』って言われたって。ああ、その分け方って凄いなと思いましたね」

加藤幸二郎・元日本テレビ制作局長

「ある優秀なディレクターの下につくと優秀な歯車ができる。ディレクターにはなりやすくて、品質管理はしやすい。つまり、あれの言ったとおりやればいい。それが正確にできる人がディレクターになる。でもずっと下にいる人間は、そこに置いておくと歯車になっちゃうんで、はがして違うところに付けないと、才能が死んでしまう場合があるんです。

 その一方で、伊藤さんの下につくと、もう自由に面白いものをつくっていい。伊藤さんは、おれの言ったとおりにならなくていい、面白ければいいと、自由度を持っていろんな才能を何でも認めてくれて、そのまま伸びていくことを面白がってくれる人でした。
 だからか、伊藤さんのもとから独立して会社ができていく。いろんなところに伊藤の遺伝子が分かれて、作り手が才能を発揮できる。

 働き方改革、長時間労働の是正、コンプライアンス(法令遵守)、パワハラ、モラハラ、様々な倫理が求められるいま、テリー伊藤のかつての番組のようなものは放送不可能である。

テリー伊藤の発言。

「昔の百倍、いまのお笑い芸人のほうが面白い。しゃべりが全然違うよね。〔…〕
ディレクターたちがタレントの力なんか借りずに自分たちの力で面白くするんだってやるよりも、タレントさんをうまく利用して面白くしてやろうとするからお笑い自体が違ってきたんだよ。
 おれのやりかたで百パーセントやるんだ、つていうと、お笑い芸人たちも、最初ついてさても二回目は、勘弁してください、自分たちの持ち味じゃないです、と言ってくるから」

 本書のゲラを読んだテリー伊藤の感想が以下。“含羞”のひとである伊藤を著者はみごとに描いている。

 ――「読んでいて胸が痛くなってくるんだよね。かんべんして。助けて。なんだろう、これって。おれ、かっこよくなかったし、だらしなかったし

 

 

 

 

 

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2021.11.02

河野啓◆デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場      …………登れるはずのない最難関のルートを選んだ理由は?

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  栗城史多(くりきのぶかず)さん。
「夢」という言葉が大好きだった登山家。〔…〕

 山を劇場に変えたエンターテイナー。
 不況のさなかに億を超える遠征資金を集めるビジネスマンでもあった。

 しかし彼がセールスした商品は、彼自身だった。

 

その商品には、若干の瑕疵があり、誇大広告を伴い、残酷なまでの賞味期限があった。

 彼はなぜ凍傷で指を失ったあともエベレストに挑み続けたのか?
 最後の挑戦に、登れるはずのない最難関のルートを選んだ理由は何だったのか?

 

◆デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場 /河野啓/2020.11/集英社


 著者河野啓(1963~)は、2008年から約2年、栗城史多を取材した北海道放送ディレクター。栗城の死後、あらためて取材したのが本書。以前読んだ著作に『北緯43度の雪――もうひとつの中国とオリンピック』(2012)がある。

 栗城史多(1982~2018)は、「七大陸最高峰、単独無酸素登頂」を“売り”にした登山家。2010年から「冒険の共有」をテーマにエベレストに8度挑戦。2012年の4度目の挑戦時の凍傷により右手親指以外の指9本を第二関節まで切断。

 2018年の8度目となるエベレスト登山時に体調を崩して登頂を断念。下山中に滑落死した。35歳没。

 インターネット生中継など“劇場型登山”で知られ、またNHKスペシャルなどで各種テレビ番組で有名な存在だった。

 そういえばいえばお笑いタレントのイモトアヤコ(1986~)がテレビ番組でキリマンジャロ(2009)、モンブラン(2010)、マッターホルン(2012)、マナスル(2013)など次々に登頂し、2014年にはエベレストを標高4900m辺りで登頂断念したものの、その後デナリ(2015)、アイガー(2016)登頂を果たし、脚光を浴びた時期と重なるのである。

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 エベレスト登頂を目指す登山者で混雑する山頂付近。ネパールの登山家ニルマル・プルジャ氏がインスタグラムに投稿した。この画像は瞬く間に拡散し、エベレストの渋滞論争に火がついた。(PHOTOGRAPH BY @NIMSDAI PROJECT POSSIBLE)

 

 エベレスト登頂の話題といえば、ネットで「エベレスト山頂付近で登山者たちの長蛇の列ができている」というキャプションつきの写真を見て驚いた(2019年5月27日BBCニュース)。まさに“蜜”である。

 長蛇の列のエベレストの中で、目立つには? イモトに負けないエンターテイメントである以上、世界一高い所で流しそうめんやカラオケ。いやいや登山家として、単独、無酸素でなければならない。

「最後の挑戦に、登れるはずのない最難関のルートを選んだ理由は何だったのか?」と著者は問う。

 夢枕獲の小説『神々の山嶺』(映画『エヴエレスト 神々の山嶺』の原作)が描くエベレスト「南西壁」の冬季単独無酸素登頂を、“生”でやろうとしたとかしか言いようがない。

 ――栗城さんの登山は無酸素ではなかった。
 だが、彼の人生は、天を突くエベレストの真っ白な頂のように「単独」だった。(本書)

 と本書は閉じられるが、当方は雪のイメージから突拍子もなく「楢山節考」のおりんさんを思い浮かべた。楢山まいりならぬ、もはや“エベレストまいり”の単独行ではなかったか。

 すこし真面目に書けば、以前栗城さんと知り合いだった女性、談。

 ――「栗ちゃんはこの社会で同じょうに生きにくさを感じている人たちの『代弁者」のような役割を担っていたと思います。彼にとっても、人から求められることは生きがいであり、社会を生き抜くエネルギーになっていた気がします」〔…〕

「結局はそれも、彼の重荷になっていたんじゃないかって…… 。人々の代弁者だったはずの栗ちゃんが、一番この社会の生きづらさを感じ、最後は潰されたんじゃないかと…… 。たぶん登りたくて登ってたんじゃない」。(本書)

 それにしても“技術よりも直観”“プロセスよりも結論”という栗城さんの遠征に何度も同行したカメラマンや“劇場型登山”を煽ったディレクターや記者たち。黙して語らないのは何故か?

 

 

 

 

 

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2021.09.26

寺尾文孝◆闇の盾――政界・警察・芸能界の守り神と呼ばれた男       …………世の中の人間関係はすべてが「グー・チョキ・パー」だ

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「人の世の中で起こったことは、人の世の中で必ず解決できる」――それが私の基本的な考え方だ。日本リスクコントロールがトラブルを処理する際もそれに則って行っている。

 世の中の人間関係はすべてが「グー・チョキ・パー」だ。会社や業界で思うがままに権勢を振るっている人間でも必ず頭が上がらない人は存在する。

 だから依頼主が「グー」で、対立する「パー」の人物から不当な要求を受けているような場合なら、「チョキ」の人物を見つけてくればいい。

 それが解決への近道だ。体育会系の人間関係だとこの傾向はより強いから、話は早い。そうした人間関係に加え、おカネが介在することでトラブルはより早期に解決へと導ける。どんな事案でも最終的には金銭での解決になることがほとんどだ。要はそのバランスがとれているかだけの問題である。

 

◆闇の盾――政界・警察・芸能界の守り神と呼ばれた男  寺尾文孝/2021.05/講談社


 著名人の評伝から時代を騒がせた人の自伝まで愛読している。
 シロかクロかといわれればクロっぽい、たとえば本書にも登場する在日実業家の許永中『海峡に立つ――泥と血の我が半生』、元特捜のエース田中森一『反転――闇社会の守護神と呼ばれて』から芸能界でいえば常松裕明『笑う奴ほどよく眠る 吉本興業社長・大崎洋物語』まで、本人はなにもかも包み隠さずしゃべったと語るが、もちろん都合の悪い肝心なことは伏せられている。

 本書の寺尾文孝は、当方は初めて聞く名前だが、そのサブタイトルからしてクロっぽい人物である。1941年生まれ。1960~1966年、警視庁勤務。退職後、元警視総監の秦野章参議院議員の私設秘書となる。

――秦野先生の事務所に出入りするようになると、20~30人くらいの人間が「秘書」と称して出入りしていることに気づいた。〔…〕大物政治家には大手ゼネコンはじめ企業が社貝を派遣し、秘書として働かせていた。それによって入札情報をはじめ様々な機密情報にアクセスできるし、政治家を通して官庁とのつながりもできるからだ。〔…〕

 その当時、国会議員の事務所に支持者から持ち込まれる相談といえば、第一に子女の就職先の斡旋、次いで多いのが、交通事故や交通違反のもみ消し、取り消しだった。(本書)

 こうして秦野章の側近として長い間仕え、元法務大臣秦野の人脈、とくに歴代警察庁、検察庁幹部とのつながりを強めていく。

 日本ドリーム観光の事件がくわしく語られている。日本ドリーム観光と雅叙園観光のオーナーで、「昭和の興行師」と呼ばれた松尾國三の死去により、当時の経営者と松尾夫人との間で経営権をめぐる内紛が生じた。
 経営者側には元山口組系の池田保次が率いる仕手集団コスモポリタン、松尾夫人側には秦野章の命により元関東管区警察局長を社長、寺尾文孝を副社長にしての仕手戦である。

 結局、雅叙園観光はコスモポリタン側に、ドリーム観光は松尾夫人側に分離される。雅叙園観光はやがて許永中、伊藤寿永光など後にイトマン事件を起こす面々に転売される。ドリーム観光は、ダイエー中内㓛の傘下に入る。

 本書によれば、当方がかつて仕事で利用したことがある神戸税関近くの神戸ニューポートホテルはその土地建物が100億円で雅叙園観光に譲渡され、すぐ伊藤寿永光に転売され、のち廃業。今になってホテルが消滅し、現在は某宗教団体の建物になっている理由が判明した。

 さて寺尾文孝は、日本リスクコントロールを設立する。暴力団、総会屋、似非右翼等の犯罪組織、反社会集団への対応や企業内犯罪等トラブル支援の危機管理コンサル事業、また警察OBの再就職あっせんや専門家派遣事業を行う。

 話はそれるが、山口敬之という安倍首相の“よいしょ本”を書いたジャーナリストが、準強姦容疑で逮捕状まで出ていた。これを中村格警視庁刑事部長が執行停止し、山口は逮捕を免れたという事件があった。その中村格は菅義偉官房長官の秘書官を務めたが、菅首相が退任直前、駆け込みで警察庁長官に昇りつめた。

 上がやれば、下も真似る。これが組織の大原則である。

 以下、当方の妄想だが、国会議員、自治体の長、大企業や芸能プロの社長たちがトラブルを抱えると、警察本部の幹部に内々に相談する。すると警察幹部は「警察では直接対応しにくいが、リスクコントロールの寺尾さんを訪ねたら」と紹介するのではないか。

 本書の略歴には、「仕事の依頼はすべて口コミで、宣伝は一切せず、電話番号は非公開、ホームページさえ作ったことがないが、政治家、企業経営者、宗教団体、著名人など、あらゆるところから持ち込まれる相談ごとやトラブルに対処し、解決する知る人で知る最強の『仕事人』」とある。

「必殺仕事人」の中村主水は、奉行所の同心にして裏稼業をもつが、権力に虐げられる貧しい人の味方である。自ら「仕事人」と称する著者は、サブタイトルからしてクロっぽい人物であると書いたが、仕手集団コスモポリタンの池田保次に著者が語った言葉がある。
 
 ――「池田、わしら、男の磨き方というのは、いい豆腐になるために努力しているんだ。〔…〕硬すぎてもいけないし、柔らかすぎるのもダメだ。いつも四角で、角が崩れてはいけない。中はどこまでいっても真っ白という、そういう豆腐だ。

お前は中を割ったら真っ黒だろう。俺は真っ白な豆腐を目指してるんだ」 (本書)

 

 

 

 

 

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2021.09.17

児玉博◆堤清二 罪と業――最後の「告白」   …………三島由紀夫「楯の会」制服をめぐる二つの話

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 自決当日、番組出演を終えた清二は、東京・大田区にあった三島の自宅を訪ねた。
 過剰とも言えるデコレーションを施したロココ様式の白い館の外には、数多くの新聞記者たちが集まり、テレビ局の照明が煌々と照っていた。

 館の中にも編集者をはじめ三島縁の者がかなり集まっていた。誰もが状況を慮り、うつむき加減に声を潜めていた。

 ところが清二があるテーブルに座ると、同じ席に三島の父、平岡梓が座り話しかけてきた。

「御尊父がね、座るや、誰に対して言う訳でもなくというか、もちろん僕に対してなんだけれど、小さな声で言うんですよ。

『あんたのところであんな制服を作るから倅は死んでしまった』って。

 これには参ってしまってね、返事のしょうもないんだ。だから取り繕うように『済みませんでした』と言ったきり言葉が続かなかった。

 

児玉博◆堤清二 罪と業――最後の「告白」 2021.06/文春文庫 2016.07/文藝春秋


 

 著者による長時間のインタビューをもとにした本書は、以下のように綴られ閉じられる。

 ――人生の最晩年に清二の口から語られた物語は、堤家崩壊の歴史であると同時に、家族の愛憎の歴史であり、辻井喬ではない堤清二による、もう一つの「父の肖像」でもあった。

 堤家の筆頭継承者の最後の肉声は、どうしようもない定めに向き合わねばならなかった堤家の人たちの物語であり、悲しい怨念と執着と愛の物語だった。清二がそれを自覚していたのかどうか、確かめる機会はついになかった。

 だが」当方は、堤清二と異母弟堤義明との経営をめぐる確執やそれぞれの母と父康次郎との愛憎には全く興味がない。
ゴシップ好きの当方の本書でのコレクション。ゴシップ(噂話)というよりエピソード(挿話)というべきか。

 上掲は自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決した三島由紀夫のその日1970年11月25日のできごとである。これにはよく知られた前段がある。本書で堤清二が語る。

 ――「楯の会の制服は西武百貨店で拵えたんですよ。良いデザインを探していた三島さんから連絡があり、『フランスのドゴール(大統領)の軍服のデザインが良いから、誰がデザイナーか調べてくれ』と連絡があったんです」

 当時、西武百貨店のヨーロッパ駐在部長としてパリに滞在していたのが、妹の邦子だった。問い合わせた邦子からの答えに、清二は驚いた。ドゴールの軍服をデザインしたのは日本人で、しかも西武百貨店に在籍しているという返事だったからだ。

「こちらも何か三島さんの役に立ちたいと思っていたから、急いで連絡しましたら、三島さんも大変よろこんでくれてね。電話の向こうで『灯台下暗し』と言って、豪快に笑っていた」

 

 

 

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2021.09.14

味田村太郎◆この世界からサイがいなくなってしまう アフリカでサイを守る人たち   …………「子どものための感動ノンフィクション大賞」最優秀賞受賞作

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  キタシロサイの数は激減し、1960年代には、2千頭ほどが残っていましたが、1990年代に入ると数十頭にまで減少します。

そして2008年ごろには、アフリカの地に野生のキタシロサイはいなくなってしまいました。

幸いだったのは、かつてアフリカの国ぐにから、ヨーロッパのチェコ共和国の動物園に送られた数頭のキタシロサイがまだ生きていたことです。

これらのサイをもう一度、アフリカ大陸にもどして子どもを産んでもらい、キタシロサイを絶滅から救おうというプロジェクトが始まりました。

2009年には、チェコから4頭のキタシロサイが東アフリカのケニアにあるオルぺジェタ自然保護区に到着しました。

 

◆この世界からサイがいなくなってしまう アフリカでサイを守る人たち 味田村太郎/2021.06/学研プラス


 南アフリカの人たちに人気がある野生動物は「ビッグ・ファイブ」と呼ばれる、ライオン、ヒョウ、ゾウ、バッファロー、サイ。

 このうち密猟によって激減しているのは、ゾウとサイ。

 象牙は、印鑑、箸、麻雀牌、耳飾りなどが思い浮かぶが、ピアノの鍵盤、扇子、義歯などさまざまな用途に利用されてきた。また犀角は、科学的に効能はないとされているが、漢方薬として解熱剤として古来から使用され、最近はガンに効くてとの噂がひろまった。

 象の密猟に関しては、朝日新聞記者の三浦英之『牙 アフリカゾウの「密輸組織」を追って(2019)』に詳しい。

 本書は児童向け環境ノンフィクション・シリーズの1冊として、サイと密猟者、サイを守る人たちの“戦い”を描いたもの。

 さて、アフリカで絶滅したキタシロサイの“復活”のため2009年にチェコから4頭が到着したという上掲の続き……。


  だがオスの2頭は、2014年、2018年に相次いで死んでしまい、メス2頭が残される。ここで科学の力でキタシロサイを絶滅から救おうと「バイオ・レスキュー・プロジェクト」という国際研究チームが結成される。その一人が九州大学の林克彦教授。iPS細胞の研究を始め、iPS細胞からマウスの卵子を作り出し、健康なマウスを誕生させた。

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 ――しかし、研究にはさまざまな困難があります。実験でよく使われるマウスの妊娠期間は3週間です。これに対して、サイの妊娠期間は16か月で、くりかえし実験をおこなっていくためには、10年単位の長い時間がかかります。〔…〕

 2020年1月、林教授も参加する国際研究チームの仲間の研究者たちがキタシロサイの復活にむけて一歩、前進しました。ケニアに残っているキタシロサイの最後のメス2頭から取りだした卵子と、保存していたオスの精子とを受精させ、人工的に受精卵を3個作りだすことに成功したと発表したのです。 (本書)

成功を願わずにはいられない。

 著者味田村太郎は「はじめに」で、「わたしの仕事は記者です。アフリカの国ぐにの取材を担当するため、2014年から4年間、南アフリカ共和国でくらしました」と自己紹介をしている。

 じつは当方、味田村記者に20数年前にある事件で取材を受けたことがある。当時氏はNHK神戸支局の記者で、まだ20代だったと思う。取材の終わりに、お疲れが出ませんようにとねぎらいの言葉をかけられた。珍しい姓とともに記憶に残っている。
 その後、記者はニュース番組でヨーロッパやアフリカからのレポートを何度か見た。本書の略歴によれば……。

味田村太郎(ミタムラタロウ)
 1970年生まれ。NHK記者。慶應義塾大学在学中よりアフリカで支援活動を行う。2014年から、初代ヨハネスブルク支局長として、アフリカ30か国以上で取材。紛争で苦しむ人々や、野生動物をめぐる問題、エボラ出血熱などについて取材を行う。『この世界からサイがいなくなってしまうーアフリカでサイを守る人たち』にて、「第8回子どものための感動ノンフィクション大賞」最優秀賞を受賞。

 ――新型コロナウイルスも、もともとの感染源は野生動物とみられています。
新型コロナウイルスの拡大は、わたしたちに野生動物を保護することの大切さを改めて伝えることになりました。野生動物たちの命を守るということは、じつは、あたしたちのくらしを守ることにもなるのです。(あとがき)

 

 

 

 

 

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2020.12.26

絲山秋子★御社のチヤラ男          …………社内でひそかにチャラ男と呼ばれている男について語るのは、本人を含む同僚など14人。

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 私は努力をしないひとが嫌いだった。
 なんでも楽々とこなしてしまうひと、勘でものを言うようなタイプ、サボっていても帳尻だけ合わせる輩。いい加減にやって上手くできてしまうひとも、物事をほったらかして平気なひとも。


 つまりチヤラ男である。
 だがほんとうは、そのかろやかさが羨ましく、心は楽をしたいと叫んでいたのかもしれない。


「あのひと一貫性がないんだよね」山田さんが言った。「脈絡がないし受け売りばっかりだし」
「そう。不連続性のひとなんですよ」
「え、なに?」


 私が失って苦しんでいた連続性をかれはもとから持ち合わせていない。ものごとが不連続でも、矛盾していても平気で生きている。

★御社のチヤラ男 /絲山秋子 /2020.01/講談社


 地方都市にある「ジョルジュ食品」という会社の部長である三芳道造(44歳)は社内でひそかにチャラ男と呼ばれている。そのチャラ男を語るのは、本人を含む同僚など14人。会社という組織とその人間関係を浮き彫りにする。本書は“会社員小説”として評判になっている。

 “会社員小説”といえば、伊井 直行『会社員とは何者か?――会社員小説をめぐって』(2012)を思いだす。同書では源氏鶏太、山口瞳、庄野潤三、黒井千次、坂上弘、長嶋有、津村記久子とともに絲山秋子の作品も取りあげられていた。

 チヤラ男が言動のチャラチャラした男というのであれば、当方の会社にも沢山いた。「権力者に好かれ、そして人事に関わることを無上の喜びとしています」と本書にあるが、出世する男の1/4はチャラ男だったし、その上司もまたチャラ男だった。

 さて、本書の「チヤラ男」とは……。

*

「チヤラ男って本当にどこにでもいるんです。わたしもいろんな仕事してきましたけれど、どこに行ってもクローンみたいにそっくりなのがいます」
「さすがにクローンってことはないでしょ」
 と言ったのだが、
「ほぼ同じです」と断言した。「外資系でも公務員でもチヤラ男はいます。士業だって同じです。一定の確率で必ずいるんです。人間国宝にだっているでしょう。関東軍にだっていたに違いありません」
*
 このひとの話すことって、コピぺなんだ。ひとから聞いたこと、ビジネス雑誌に書いてあったこと、ネットのまとめの受け売りなんだ。
チヤラみがはんぱない。
*
 偉くなる男性ってリスとかネズミみたいな齧歯類系のかわいい系で、性格きつめなひとが多いらしいです。三芳さんも敢えて言うならハムスターっぽい。
*
 自分で言うのもおかしいけれど、ぼくには自分がない。
その上、友達もいない。
*
 チヤラ男の中身はばか女である。おおらかというか若いというか、無鉄砲というか、ばかなことを平気で言ってしまうところが本質だと思う。ビジネスやフォーマルな場で実家での習慣とか、体のこととか、そういう極めてプライベートな話をしてしまうとか。そういう類のことなのだ。
*
 ところが齢四十を過ぎたチヤラ男は平気だ。外側はおじさんなのに、臆面もなくわがままな女の子みたいなことを言う。ビジネスやフォーマルな場でも着ぐるみを脱ぐし、脱いだら脱いだでばか女が出てくるのだ。
*
 あのタイプは実際どこにでもいるんです。
 見た目や性格はほとんど同じですが、能力は多少の個人差があります。ものすごくうっかりミスが多い、働くことそのものが向いていないんじゃないかというひともいれば、得意分野に限ってはなかなかやり手というのもいる。ひとことで言えば「狡猾」ですかね。権力者に好かれ、そして人事に関わることを無上の喜びとしています。
*
 チヤラ男さんが何よりも嫌がるのは、無視されることなのだが、みんなに声をかけてほしいならもう少し感じよくしてくれても、と思う。
*
 別にぼくは特別な人間じゃない。何をしてもしっくりこなくて、間違った選択ばかりして苦しんでいる、チヤラ男はいつの時代でもどんな国にも、どこの会社にもいるのかもしれない。生きるということはプロセスだ。つまり誰にでも「その後」はあるということなのだ。

 

 

 

 

 

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2020.12.25

杉本貴司★ネット興亡記――敗れざる者たち         …………IT企業の“創業社列伝”

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 栄光をつかみスポットライトを浴びる者たちを、世間は「時代の龍児」ともてはやし、あるいは、「IT長者」や「成金」と心の中でさげすんだ。


 だが、多くの人たちは知らない。


 そこにあったのは未開の荒野を切り開く者にしか分からない壮絶なドラマだということを。パソコンやスマホの画面の中で毎日のように見かけるサービスは、そんな隠されたストーリーを何も語らない。

 栄光、挫折、裏切り、欲望、志、失望、失敗、そして明日への希望……。
 数え切れない感情が交錯するなかで、ある者は去り、ある者は踏みとどまった。


★ネット興亡記――敗れざる者たち /杉本貴司 /2020.08/日経BP


 90年代からの日本のIT企業の誕生の成功と挫折を追った“創業者列伝”。

 ドコモのiモード、ヤフー・ジャパン、楽天、ライブドア、ミクシィ、LINE、メルカリ等の創設への展開はまことにスリリング。この記録は一種の“辞典”として役立つ。それにしてもどういうわけか自著を表わすことが好きな天才たち。

 彼らはライバルというより狭い世界でつながった“仲間”であることに驚いた。

 あわせて森功『ならずもの 井上雅弘伝――ヤフーを作った男』を読んだ。

 当方は、80年代のパソコン事始めのPC8801購入、90年代のniftyパソコン通信、asahiネットの句会、インターネットでホワイトハウスに初接続、駅前の商店街の入り口で通信モデムを無料配布していたヤフーBBなどなつかしみ、

 現在のブログ、ツイッターの利用をやめないでいるのはなぜかと考えこんだ。

 

 

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森 功★ならずもの 井上雅弘伝――ヤフーを作った男            …………井上の残した名言「自分に理解できない人は採用する」

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 井上がそうして手塩にかけて育ててきたヤフー・ジャパンが、スマホ時代の到来という転機を迎えていた。にもかかわらず、当人はあっさり経営を投げ出してしまう。

「正直に言えば、井上さんはヤフーに飽きたのではないでしょうか」
井上の社長退任理由について先の松本〔真尚=井上の懐刀〕はそうも口にした。その言葉の真意は、ヤフーにおけるソフトバンクの孫正義との関係に疲れたという意味だろう。

 その一方で、経営の若返りを図ろうとした孫〔正義〕に首を切られたという説も根強く残っている。

 孫と同じ1957年生まれの井上は2012年、55歳にしてビジネスの世界から身を引いた。だが社長退任は、少なくとも孫との関係だけが理由ではないように感じる。

 間違いなく井上は、50歳になった頃から55歳になるまでの5年のあいだ、社長を退くタイングをはかってきた。それは、米ヤフー・インクが経営難に陥った2000代後半の時期と重なる。つまり米国事情が井上の進退に大きな影を落としているように思えてならない。

 

★ならずもの 井上雅博伝――ヤフーを作った男 /森 功 /2020.05 /講談社


 井上 雅博(1957~ 2017)
 1996年1月 ヤフー・ジャパン設立。同年7月からヤフー株式会社代表取締役社長に就任。日本におけるインターネットポータルサイトの草分け。

――「井上さんの残した名言はいくつもありますが、その中でも『自分に理解できない人は採用する』という言葉が印象に残っています。(川辺健太郎=ヤフー社長)

 ヤフーの社名の語源である無名の「ならずもの」を好んで雇い入れていった。
「今から振り返ると、井上さんが会社の創業期に採用した社員たちには、共通点がありました。インターネットが好きでたまらない人間ばかりだということです。それが、ヤフーの成功した最大の理由かもしれませんね」(宮坂学=ヤフー元会長)

 当方がヤフーでいちばん残念に思ったのは、検索エンジンをグーグルに替え、グーグルに対抗できる検索エンジンがなくなったことだった。検索がグーグルの恣意的独占事業になりはしないか。だが、それによって日本のヤフーだけが生き残ったという。それどころか、ヤフーは今なお、国内IT業界のトップ企業として君臨する。

 ――井上はストックオプションという自社株の割り当て制度や自らの投資のおかげで、莫大な財産を築いた。一説によれば、総資産は1000億円とも、それをはるかに上まわるともいわれる。
事実上の創業社長ではあるが、私財を投じて事業を立ち上げた事業家ではない。一介のサラリーマンからここまで成りあがってきたのである。(本書)

 井上は引退後、趣味の達人となり、クラシックカーをはじめ、ワインや音楽の世界に没頭した。
2017年、アメリカ・カリフォルニア州でクラシック・スポーツカーの耐久レース大会に参加している最中に自損事故を起こし死去。60歳没。

 IT業界“伝説の人”である。

 

 

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