08/メディア的日常

2021.01.20

浅田次郎◆見果てぬ花                 ………タオルが大好きで、やがて前を隠す話から、「忖度」と「斟酌」の方へ 

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 手拭いなりタオルなりで前を隠すというのは、本来羞恥によるのではなく、見たくもないものを他人様に見せまいとする礼儀である。

 つまり、このごろの日本人は廉恥の心を失ったのみならず、他者の不快感などはてんで斟酌しなくなったと思われる。
 こんなことでは福祉社会など画餅に過ぎず、

あげくにはさきの「斟酌」と同義であるはずの「忖度」という道徳までもが、

まるで犯罪のような狭義に解されるはめになった。


 湯舟に浸かれば視線は腰の高さになるから、歩く人は恥じるのではなく、遠慮して前を隠したのである。〔…〕。
今日世間を騒がせている事件や出来事の多くは、「礼の喪失」で説明がつくと思える。物言わぬタオルはけだし雄弁である。(「タオル大好き♡」)

◆見果てぬ花  浅田次郎 2020.11/小学館


 JAL機内誌『スカイワード』連載の2017年~2020年分を収録。


 なんども訪れた新潟でなんども方向音痴になる「右も左も」、「はん・エビ」こそ傑作だという「にっぽんの洋食」など、全41篇。

 上掲の「忖度・斟酌」のことだが、国語辞典編集者神永暁のブログによれば……。

「忖度」には他人の心を推し量るという意味しかなく、もし、配慮をするという意味まで含んだ語を使いたいのなら、「斟酌(しんしゃく)」のほう。
 ただこの「斟酌」も、本来の意味からどんどん離れて、新しい意味が付け加わっていった語で、「忖度」と非常によく似ている。として、夏目漱石『坊ちゃん』、島崎藤村『破戒』の「斟酌」を引用している。

 しかし浅田次郎が「まるで犯罪のような狭義」に「忖度」が使われるようになったのは、安倍“姑息”、菅“隠蔽”、麻生“野卑”トリオからである。

 以下、考える前にロボットの知識を頼る「考える葦」の一部分を紹介。
*
 ――たとえば、かつて編集者のみなさんと会食中に、お定まりのダイエット談義となり、ついつい話の流れで「デブ」という言葉の語源に及んだことがあった。
 私が“development”の略語説を唱えると、ある編集者は江戸時代の文献にも「でっぷりと肥えた」などの表現はある、と反論した。またある人は、“doublechin”すなわち「二重アゴ」だろうと主張した。さらには、「出不精」を略して「デブ」だという説も現れた。

 議論を戦わすこと数時間、結論は出なかったのだが、たいそう充実したひとときであったと記憶する。もっとも、結論を見る必要はない。想像に満ちた時間は楽しく、なおかつ十数年もの時を経て、本稿の創造にもこうして益するのである。

 しかし、このごろではどうなるかというと、考える間もなく一斉に、ロボットの知識を頼るのである。つまり、考える前に調べてしまう。(「考える葦」)

 

 

 

 

 

 

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2020.12.20

08/メディア的日常◆T版2020年…………◎磯田通史・歴史とは靴である◎尾原和啓・アルゴリズム フェアネス◎大澤昇平・AI救国論◎丹羽美之・日本のテレビ・ドキュメンタリー

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08/メディア的日常

磯田通史★歴史とは靴である――17歳の特別教室  2020.01/講談社

 

好き嫌いで論じられるものは嗜好品です。酒やタバコと同じです。

はたして歴史学は、好きか嫌いかで選べるものでしょうか。

どうもちがう気がします。

歴史的にものを考えると、前より安全に世のなかが歩けます。

歴史はむしろ実用品であって、靴に近いものではないか。

ぼくはそんなふうに考えます。

*

 鎌倉女学院高等学校において、2019年6月におこなわれた特別授業の内容を元に再構成したもの。以下、……。

 

  年号とはつまり「時間に名前をつけたもの」です。

 日本史の教科書とは、「標準的な日本人」になるための道具立てであり、日本という国の「平均値」で書かれているのです。

 教養とはなにかということを、ぼくはよく考えるのです。「教養」にはいろいろな定義があると思いますが、「ムダの積み重ね」じゃないでしょうか。「年季の入ったムダ」と言ってもいい。

 一回覚えて忘れた状態を教養という、最初から触れたことがない人間とでは雲泥のちがい……と内田百閒は言いました。

 新聞の記事を見ると、よく神への信仰をめぐって宗教戦争が起きていたり、国のために死んでいくとか、おカネをもとに殺人事件が起きていたりします。

 カミ、クニ、カネの「3K」は、犬・猫にはまったく通用しないのに、なぜか人間はそれをつくりだす。しかも、それに酔い、人殺しまですることがあります。この「3K」は実体はありません。シンボルです。

 他の生きものとちがって、シンボルに夢中になれる脳構造をもった者がそれを考えているうちに、いつしか人びとのつながりが変化し、世のなかは新しく進歩したり、不幸な大殺戮が起きたりしています。

 

 

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08/メディア的日常 

尾原和啓★アルゴリズム フェアネス――もっと自由に生きるために、ぼくたちが知るべきこと  2020.01/KADOKAWA

 

 私たちは〔GAFAなどの〕プラットフォームによって出会いの自由を謳歌しているようですが、じつはその権利を保証してもらうために、個人データという“税金”を徴収されているのです。

 この権力は、人々の自由度と直結するだけに、まさに国家権力に匹敵するといってもよいかもしれません。

*

 キツネは、美味しそうな葡萄を見つけるが、手の届かない高みにあるので、酸っぱく不味いだろうと悪態をつく。GAFAを非難する論調に著者はこのイソップ童話を例にあげる。GAFAは北風でなく太陽だとしたうえでフェアネス(公平公正)の追求が重要と解く。

 

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08/メディア的日常

大澤昇平★AI救国論 2019.09/新潮社

 

 文系・理系によらず、水平思考を身につけることで、イノベーションを起こすような提案をすることができる。

 世界で最初の熊蜂が飛行に成功する種へと進化し、今の時代にまで子孫を残すことができた要因は、

自然の淘汰圧に負けないためのハングリー精神と、体重の重さという自身の制約を克服するために

「王道でない手段も思い切って試してみる」という愚者の思考に他ならない。

 これはスティーブ・ジョブズによる「Stay hungry, stay foolish.」という標語にも集約されている。ジョブズは他にも「Connecting the dots」(点と点を繋げ)という言葉も残している。これはまさにイノベーションの必要条件そのものである。

*

 本書は最初に「大学受験のジレンマ」と、それに伴って起こっている諸問題を指摘し、水平思考、AI2・0といったテクノロジーを役立てるための思考の枠組みについて説明、最後に文理融合について提言する。

 日本再生のためには、文理融合型のテクノロジー教育が必要であるというのが、本書を通した主張である。

 

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08/メディア的日常

丹羽美之★日本のテレビ・ドキュメンタリー 2020.06/東京大学出版会

 ラジオが発災直後に被災地の情報源として高く評価されたとすれば、テレビはむしろ災害が一段落してから、ドキュメンタリー番組に代表される持続的報道や調査報道で大きな力を発揮したように思われる。

 一般的に、ニュースの記者は事件や事故が収束するとすぐに次の現場に向かう。しかしそこには必ず「忘れ物」が落ちている。

ドキュメンタリー番組とは、そうしたニュースの「忘れ物」を拾い集める営みということができる。

 東日本大震災でも、ニュースからこぼれ落ちてしまうような様々な視点やテーマのドキュメンタリー番組が数多く作られた。それらの番組を改めて見直すことは、テレビ・ジャーナリズムの多様性を示すと同時に、忘れられた大震災の記憶を掘り起こすことにもつながるだろう。

*

 過去のテレビ番組を大規模に収集.・保存・公開するアーカイブの整備もはじまりつつある。テレビがいよいよ歴史の対象になりはじめているのだ。〔…〕テレビとは何だったのかを問う作業はようやくはじまったばかりなのだ。(本書)

 

 

 

 

 

 

 

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2020.11.25

山田胡瓜★AIの遺電子           …………AIは世界を進めたか、止めたのか


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ある学者が言った。
人間は終わりなき進歩の奴隷であり…
AIこそが進歩から人間を解放すると。


AIに支えられたこの世界で、
人間たちが生きている。


誰かを愛し、過ちをおかし、償い、
平和を望みながら暴力をなくせない…
昔ながらの人間が生きている


AIは世界を進めたか…
止めたのか…

 

山田胡瓜★AIの遺電子08 /2017.11/秋田書店



 悩めるAIたちに寄り添う新医者・須堂光の近未来系ヒューマノイドSFの連作短篇『AIの遺電子』、続編に『AIの遺電子 RED QUEEN』があり、こちらは長篇全5巻(さらに『AIの遺電子 Blue Age』が『別冊少年チャンピオン』に連載中。

『AIの遺電子 RED QUEEN』01の巻末対談での押井守の発言。


 ――コンピュータを人間に近づけるのは無駄だと。人間がコンピュータに近づいた方が手っ取り早いって。確かにその通りだなと。事実そうなっているから。
 スマホっていう外部記憶装置を持つことで、人間は生活のフォーマットだけでなくで、意識のフォーマットも微妙に変化したから。間違いない。要するに人間がAI化されつつあるんですよ。ルーチン化されてるんだからさ。

 同じく山田胡瓜の初弁。


 ――僕らはAIが「聞き分けの良い優秀な人間もどき」みたいものになるんだろうって思いがちなんですが、でもそうじゃない、人間臭くない未知の知性になる可舵性もあって、怖くもあるけど、そいつに出会ってみたい。

 

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2020.10.21

上西充子★呪いの言葉の解きかた      …………“ご飯論法”の教授が「呪いの言葉」の「切り返しかた」を指南する

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 たとえば「嫌なら辞めればいい」という言葉。これは、典型的な呪いの言葉だ。

 長時間労働や不払い残業、パワハラ、セクハラ、無理な納期、無理な要求――そういう問題に声をあげる者に対して、「嫌なら辞めればいい」という言葉が、決まって投げつけられる。〔…〕

「嫌なら辞めればいい」という言葉は、辞めずに「文句」を言う者に向けられている。他方で、その言葉を投げる者は、長時間労働を強いる者や、残業代を支払わない者、パワハラをおこなう者、セクハラをおこなう者、無理な納期を強いる者、無理な要求をする者などには、目を向けない。そもそもの問題は、そちら側にあるのに。

だから、「嫌なら辞めればいい」という言葉は、働く者を追い詰めている側に問題があるとは気づかせずに、

「文句」を言う自分の側に問題があるかのように思考の枠組みを縛ることにこそ、ねらいがあるのだ。 〔…〕

不当な働かせかたという問題の本質を背景に隠し、「なぜ辞めないのか」という問いの中に相手の思考の枠組みを固定化しようとする。「嫌なら辞めればいい」は、そのような「呪いの言葉」だ。

 

★呪いの言葉の解きかた /上西充子 /2019.05 /晶文社


 著者上西充子法政大学教授は、“ご飯論法”の名付け親である。2018年新語・流行語大賞にも選ばれた。

 ご飯論法とは、「朝ご飯は食べたか」という質問を受けたとき、パンを食べたことは隠し、ご飯(白米)は食べていない、と答えるように、質問側の意図をあえて曲解し、論点をずらし回答をはぐらかす答弁手法である。

 その特徴は、論点のすり替え、はぐらかし、個別の事案にはお答えできない、話を勝手に大きくして答弁拒否、過去の事実の書き換え、である。なんといっても安倍前首相の“得意技”であり、菅官邸に引き継がれ、加藤勝信官房長官が多用する。

 その上西先生が、こんどは日本学術会議の会員候補6人が推薦通りに任命されなかった問題を巡る加藤長官の説明を“チャーハン論法”と批判した。

 ――「『エビチャーハンを作っていたのを玉子チャーハンに変えましたよね』という質問に、『同じシェフが作っており、その点においてなんら変わりはない』と言っているようなもの」と記した。

1983年の「(任命)行為は形式的」との国会答弁と、2018年の政府文書の「推薦通り任命すべき義務があるとまでは言えない」との見解に関し、政府が憲法を根拠に「同じ考え方に立っている」(加藤氏)と説明したのを批判している。 (毎日新聞2020年10月8日)

 記者会見で問われた加藤長官は「まず例えの意味がにわかに分からない」と応じたという。確かにねえ、ちょっとわかりにくい。

 さて、本書上掲の「呪いの言葉」への対処法は……。

 相手の土俵に乗せられないように、心理的に距離を置きながら対応する。

「あなたは私を逃げ出せないように、縛りつけておきたいのですね」と問い返し、支配する場から一時的に逃げる。

 どう対抗できるか関係者に相談する。

 呪いの状態から精神的に脱するために、相手の卑劣さを“無効化”する言葉で切り返す。

 といったプロセスが大事だと説く。本書には労働をめぐる呪い、ジェンダーをめぐる呪い、政治をめぐる呪いを扱い、呪いの言葉の“無効化”の方策を探る。

 ただ引用されているケースが、まんがやドラマからなので、高齢の当方にはなじみが薄く、共感しにくい。また、呪いの言葉とは逆に、主体的な言動を促す“灯火(ともしび)の言葉”、みずからの生き方を肯定する“湧き水の言葉”に目を向けたいという。どうもねえ、ネーミングがついていけないです。

 巻末に付録があって、呪いの言葉の解きかた文例集が掲載されている。たとえば……。

仮定の質問には答えない。

→仮定の話ができない方に政治家の資格がおありだとお考えですか?

 

コメントせず。

→黙っていれば沈静化して国民は忘れてしまうと考えているのですね!

 

事実に基づき、丁寧な上にも丁寧な説明をしていく努力を重ねていきたい。

→私が求めているのは、丁寧な説明ではなく、質問とかみ合った、的確な返答です。

 

 うーん。それはそうなんだが、勝てるかな。いや勝たねばならない。

 

Amazon上西充子★呪いの言葉の解きかた

 

 

 

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2020.10.14

武田砂鉄★わかりやすさの罪         …………「すぐわかる!」より自分で考えることを徹底する方が、面白い

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 そして是枝〔裕和監督〕が続ける。

「僕は意図的に長い文章を書いています。

 これは冗談で言っていたんだけど、ツイッターを140字以内ではなく、140字以上でないと送信出来なくすればいいんじゃないか()

 短い言葉で『クソ』とか発信しても、そこからは何も生まれない。文章を長くすれば、もう少し考えて書くんじゃないか。字数って大事なんですよ」 〔…〕

「だって、世の中って分かりやすくないよね。分かりやすく語ることが重要ではない。むしろ、一見分かりやすいことが実は分かりにくいんだ、ということを伝えていかねばならない。僕はそう思っています」

 ――「8 人心を1分で話すな」

 

★わかりやすさの罪 /武田砂鉄 /2020.01  /朝日新聞出版


 

「すぐわかる!」に頼り続けるメディア

納得と共感に溺れる社会で、与えられた選択肢を疑うために。

シンプルな暴言を叫べば時代の寵児になれる社会

 これが本書の帯の惹句である。読者になってと誘うには、難解ではないか。タイトルの方がよほど魅力的だ。あえて難しいキャッチコピーで、立ち止まらせようとしているのか。なぜなら「わかりやすさ」至上主義の世間の風潮に違和感を唱えているのが本書だから。

 本書は24のチャプターからなるが、以下「8 人心を1分で話すな」のみを取りあげる(熟読したのはこの章のみ。他の章はほとんどスルー)。

 まず、NHKの「国内番組基準」の「第1章放送番組一般の基準・第11項 表現」の9項目を紹介し、その1に「わかりやすい表現を用い、正しいことばの普及につとめる」に注目する。

 以下、たとえば、新聞やNHKニュースで多用される「……とされる」という表現が、あいまいで解釈に隙間をつくっている、といい、逆にラジオで「確実に差別である」と話したら、SNSに「確実」との断言は言いすぎとコメントが書きこまれた、という話など。

 話題は、熊本地震で芸能人をターゲットに「不謹慎狩り」が横行したこと、沖縄タイムスのコラム、小池東京都知事が「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式」に追悼文の送付をやめたこと、大晦日に放送された『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』での黒塗りメイク、両親から虐待を受け続けて亡くなった5歳の子を取りあげたワイドショー、ベストセラーとなったビジネス書伊藤羊一著『1分で話せ』、梅田悟司著『言葉にできる」は武器になる。』

 などなど多数のテレビ、新聞、本からの世間の話題を敏感に取りあげ、わずか8000字の中で、“わかりやすさの罪”を語っている。ほんとうに凄腕だ。

 だが著者と対極にいる伊藤羊一『1分で話せ』は言う。

「たくさん話したくなるのは、調べたこと、考えたことを全部伝えたい!、『頑張った!』と思ってほしいという話し手のエゴです。

 でも、聞き手は、必要最低限の情報しか、ほしくないのです」

 ええっ、話が“エゴ”の方向に行ってしまうのか。もちろん著者は断固として反論する。著者の発言を引用しておこう。

 ――思考というのは、このように考えなさいという強制だけではなく、考える力をあらかじめ奪うことによっても揺さぶられる。裏側に、逆サイドに、隣に、あるいはまだ吐き出していない心の内に、どういった思考が用意されているか、眠っているかを詮索し続ける必要がある。 (本書)

 わかりやすさのために、単純化され、四捨五入され、考えることを放棄させられている。自分で考えることを徹底する方が面白いよ。主旨は、こういうことかな。

 ところで、このなかに上掲の是枝監督への朝日新聞のインタビュー記事がある。是枝監督の発言を、孫引きのかたちになるが、コレクションに加えたくて、当方はじつはこの8章だけを熟読した。

 ツイッターは、140字以内という制約があって、当方の経験からいえば、結論だけで、その理由や思考のプロセスが省略されている。そのため注意を引く“盛った”140字になりかねない。

 との理由で当方はツイッターを好まない。そのツイッター嫌いの当方がじつはツイッターに飲み込まれブログへの誘導のため使っているのだが。

 是枝監督の「文章を長くすれば、もう少し考えて書くんじゃないか」には、例外がある。当方や知人のブログが、年とともに長くなっていく。だらだらと続き、字数制限がないため歯止めがきかない。垂れ流しである(本稿がそうである)。たくさん話したくなるのは、断言するが、エゴではなく、老化、劣化のせいである。

 話がそれてきた。もっとも著者はまえがきにこう書いている。

 ――「わかりやすさ」の罪について、わかりやすく書いたつもりだが、結果、わかりにくかったとしても、それは罠でも罪でもなく、そもそもあらゆる物事はそう簡単にわかるものではない、そう思っている。

 

Amazon武田砂鉄★わかりやすさの罪 

 

 

 

 

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2020.09.21

柳美里★南相馬メドレー     …………復興の地に居を移した作家の真っ直ぐな生き方

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  全国的なベストセラーリストとは全く異なっています。


 それは、おそらく、ここ、〔南相馬市〕小高が、地震、津波、原発事故によって大きく傷ついた地域だからです。


 フルハウスに訪れる人が切実に本を求めていることは、本への眼差しから伝わってきます。
 

 本は、扉を開ければ、そのまま異世界に通じたり、存在という事実そのものに立ち戻らせてくれたり、悲しみを明るく照らしたりしてくれます。
 わたしは、現実の中にはどこにも居場所がなかった子とも時代、本にしがみついて生きてきました。
 本の中の登場人物と手に手を取り合って生きてきたのです。

 この世に誰一人味方がいなくても、本があれば孤独ではない、と――。
 現実の中に身の置き場がなく、悲しみや苦しみで窒息しそうな人にとって、本はこの世に残された最後の避難所なのです。

★南相馬メドレー /柳美里 /2020.03 /第三文明社


 南相馬市といえば、福島浜通りに位置し、数百機の騎馬武者が駆け抜ける相馬野馬追祭りが有名である。福島第一原発の北、20km圏内にある。3.11の津波で死者行方不明者多数。当時の市長がYouTubeからSOSを発し、米タイム誌「世界で最も影響力のある100人」に選ばれた(のちに除染作業談合疑惑で問責決議)。

 本書の舞台となる小高(おだか)区は、2016年7月に避難指示が解除。常磐線原ノ町― 小高駅間の列車運行も5年4か月ぶりに再開。小高駅の1日の乗車500人程度。失礼ながらふつうの田舎町である。

・2012年3月 「南相馬ひばりエフエム」で毎週「柳美里のふたりとひとり」という30分番組のパーソナリティ。2018年3月閉局まで、地元被災者約600人の話を聞く。

・2015年4月 神奈川県鎌倉市から福島県南相馬市原町区に引越し(毎週南相馬への交通費宿泊費の工面が苦しく)。

・2015年1月~ 福島県立小高工業高校の仮設教室で「表現(自己表現・文章表現)」についての講義とワークショップ

 ――わたしが生徒たちに伝えたかったことは、書き言葉に先立つものは話し言葉であり、話すことは聴くことから始まり、それは肉体的な行為なのだということ。外側からの情報で物事や人を知ったつもりになるのではなく、それらと親身に関わることが何よりも重要なのだということです。

・2017年4月 小高産業技術高校(小高工業高校・小高商業高校合併)校歌を作詞。
・2017年7月 南相馬市原町区から小高区へ転居。
・2018年4月 自宅で本屋「フルハウス」開業。 

 ――電車を一本乗り遅れたら、時間帯によっては一時間半も待たなければならない。ブックカフェを開き、生徒たちがおしゃべりをしたり、軽食をとったり、宿題をしたり、携帯電話の充電をしたり、Wi-Fiでゲームをしたり、思い思いのことをして時間を過ごせる場所を作りたい、と頭の中であれこれ計画していました。(2020年3月にカフェ増築)

・2018年9月 自宅敷地内の古い倉庫「La MaMa ODAKA」で演劇ユニット「青春五月党」の復活。地元高校生等の出演による「静物画」、「町の形見」公演。

 ――原発事故によって幾重にも分断され、無数の対立が生まれたこの地に、わたしは演劇によって他者との真の触れ合いの場を創出したい。

 柳美里(ゆう みり、1968~)は、3.11による被災地南相馬市に引っ越した。本書は月刊誌「第三文明」に2015年から19年まで連載、その復興の地での日々の暮らしのエッセー47篇を収録。

 本書のタイトルの「メドレーというのは、間にナレーションなどを入れずに、いくつかの曲を続けて演奏すること」。人生における劇的な変化、単調ともいえる日々の暮らし、過去の悲しみを奏でるメドレーを聴いてください、とある。

 3.11復興ものだが、取材記者によるドキュメントや識者の評論などと違い、作家自らの実践的支援活動を気負いなく淡々と綴り、その真っ直ぐな生き方に地元の人々が共感する。

 ――演劇や小説の言葉を真に必要としているのは、不幸や不運に直面している人だ。
言葉が、言葉としての役割を最終的に問われるのは、自分と他者の不幸や不運に直面した時だ。 (本書)

 

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2020.07.26

青山ゆみこ★ほんのちょっと当事者         …………コロナ禍の今、“ほんのちょっとの間”でいい。正々堂々と「生活保護」の権利を行使したい。

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  バカはアリのように働き、言われるがままに納め、死んでいくしかないのか。そんなのやっぱり悔しい。

 生活保護制度だって、わたしに与えられている権利だ。もしそのときが来たら堂々と申請して受給したい。それには情報と最低限の知識が必要だ。


 わたしは間違っていた。
 必要なのは、「働き方改革」ではなくで、なにより「知る」ことなのだ。


 わたしはこの国から、「健康で文化的な最低限度の生活」を送ることを保障されている。
 改革すべきは、アリの働き方ではなく、アリに保障されているはずの権利が正しく行使されていない現状ではないのだろうか。

――築8章 わたしのトホホな「働き方改革」

★ほんのちょっと当事者 /青山ゆみこ /2019.12 /ミシマ杜


 著者には、脳梗塞で倒れて以来の左半身麻痺、最近ではアルツハイマー型認知症等が進行している要介護3の父がいる。2年半前に母が死去した後、その父と向きあい、初めて自分が「介護問題」の当事者であることに気づかされた、という。

 それまで “世間の介護問題”と思って見聞きしていたものが、急に自分事として切実に迫ってくる。

 ――自分でも見落としていたあれこれに目を向けて、ほんの少しの当事者意識をもって改めてぐるりと周りを見渡せば、いつもの景色のなかにそれまで見えなかった風景がくっきりと浮かび上がり、世界の見え方が少し変わっていくような気がした。
わたしたちが「生きる」ということは、「なにかの当事者となる」ことなのではないだろうか。(まえがき)

 ローン地獄、児童虐待、性暴力、障害者差別、看取りなど、“ほんのちょっと当事者”として、つまり「自分事」として考えてみたのが本書である。ただ、ウェブや書籍やドキュメンタリー番組での既知の情報が引用されているのは興をそぐ。著者自らの経験を綴った部分は生々しく“ちょっと当事者”に役立つようなヒントが記されている。

 上掲の「働き方改革」では、著者が一度だけ登録した「派遣」の経験談が語られる。当時(今も)、著者はフリーランスのライターである。そこでその仕事を継続しながら、経済的安定をも図るため、図書館勤務をもくろみ、そのための人材派遣会社に登録しようとする。その汗と涙の奮戦記は本書で……。

 本書はコロナ禍以前に書かれたものだが、メディアの報道によれば、新型コロナが影響した解雇や雇い止めが2020年6月末で3万人を超え、広がりは収まっていない。また、完全失業者数は2月以降で33万人増加した。“失業者予備軍”の休業者数も400万人と高止まりしており、失業率は今後急増する恐れが指摘されている。

 学生の就活も内定取り消し、飲食店やアパレルなどの廃業による雇止め、解雇、また自営業者、フリーランスでなど個人事業主も収入が途絶えているケースが多い。

 そこで上掲のように著者が説く生活保護制度である。第2次安倍政権後の2013年、法改正により生活保護基準の引き下げが実施された。以後、締めつけが進行している。また不正受給の非難に便乗し“生活保護叩き”が行われている。

 しかし本来生活保護を受けることが可能な生活困窮者の中で実際に生活保護を申請し受給している者の割合(捕捉率という)は2割程度と言われている。たとえば小さな子どもをもつシングルマザーなどがおこす悲劇的な事件が報道されるたび、「情報と最低限の知識」をもって、ほんのちょっとした勇気で権利を行使せよと叫びたくなる。

 コロナ禍の今、「生活保護」は他人事ではない。“当事者”そのものの数が急増している。 “ほんのちょっとの間”でいい。ふつうの生活に戻れるまでの間、正々堂々と権利を行使したい。

Amazon青山ゆみこ★ほんのちょっと当事者

 

 

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2019.09.28

山折哲雄◎激しく考え、やさしく語る

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〔鶴見俊輔〕氏の作品を愛読していた私はその思想や生き方からじつに多くの影響を受けることになった。

とりわけ忘れられないのは、

「相手を批評するときは、まずおのれの背中に大刀をつき刺し、腹に出たきっ先で相手を突く」

という言葉だった。


#山折哲雄◎#激しく考え、やさしく語る #私の履歴書 2019.03/日本経済新聞出版社

 宗教学者の多彩な半生と精神遍歴を綴った日経新聞連載の「私の履歴書」。担当した宮川匡司記者が「精神のドラマと生身の体験」をさらに深く聞き出したインタビューが併録されており、読みごたえがある。

 夜中に目覚めぐずぐずしていると妄想が出てくる。「想像というのは、一つの物語をつくり出していくんですが、妄想には物語はない。断片的な破片のような、いろんな妄想が出てくる」。

  著者の“わが老人3原則”、食べ過ぎない、飲み過ぎない、人に会い過ぎない、に加え新たな生活のリズムとして、“3三昧”が加わったという。すなわち昼寝三昧、妄想三昧、執筆三昧。

山折哲雄◎激しく考え、やさしく語るhttps://a.r10.to/hfdvj1

 

 

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松尾貴史◎違和感のススメ

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 最近、東武鉄道が「駅や車内でベビーカーをご利用になるお客様は周りのお客様に配慮し、十分ご注意ください」という表示を電車内で出した。

なるほど、そういう考え方の会社なのか。

「駅や車内でベビーカーをご利用のお客様には配慮し、安全のためのサポートをよろしくお願いいたします」ではないのか。

 

★松尾貴史◎違和感のススメ    2019.02/毎日新聞出版


 本書は2012年から毎日新聞に連載した辛口コラム。この間社会の雰囲気は、「疲弊であったり破壊であったり腐敗であったり、つまりは『退化』としか思えない惨状です」と。圧倒的に多いのは安倍内閣批判の「第1章永田町をめぐるあれこれ」だが、ここでは「第2章不健全な社会」から、もう一つ。

  ――2012年12月19日に亡くなった中沢啓治さんの戦争・被爆体験を元につづられた漫画『はだしのゲン』を、(タイミングは偶然だろうと思うが)その12月に鳥取県松江市の教育委員会が各学校に、児童や生徒が自由に閲覧・借り出しができない閉架措置を要請、所蔵している全校が承諾していたことがわかった。

 理由は、「小学生には描写が過激」ということだそうだ。しかし、過激になるのは当たり前ではないか。戦争というものの恐ろしさを子供たちに知ってもらうのに、「戦争は怖いよ。命は大切だね。平和が一番だね」と何の刺激もなしに教えればこと足りるとでもいうのだろうか。

 戦争体験者がどんどん亡くなっていく中、これから社会を担う子供たちが少しでもその凄惨さを知る機会を奪うデメリットのほうがいかに大きいか、考えていただきたいものだ。

 

 ――鳥取県松江市の教育委員会が、『はだしのゲン』を開架方式にして、子供たちに自由に読ませないようにしたが、その措置を撤回したという。

 その理由に、「手続きに不備があった」と浅ましい言い訳をしているが、そういう問題ではないだろう。戦争の恐ろしさを知る機会を奪うことが間違いなのに、手続きのせいにしている。

 

松尾貴史◎違和感のススメhttps://a.r10.to/hfWOWR

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2018.01.08

M・ジャコーザ、R・モツタデリ、J・モレッリ/村田綾子:訳■世界の特別な1日――未来に残したい100の報道写真…………☆20世紀は忌まわしい戦争の連続であった。

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 1993年3月|スーダン、アヨド

「ハゲワシと少女」

瀕死の国の内戦と貧困、病気の蔓延〔…〕

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南アフリカの報道写真家ケビン・カーターは、長年にわたり母国のアパルトヘイトと血みどろの暴力を記録していた。

1993年、彼はスーダンの国民を死に追いやる深刻な飢饉を取材する。この国は内戦と貧困、病気の蔓延ですでに瀕死の状態だった。 

飢えた人びとに食糧を配給している国連のキャンプからそう遠くないアヨド村の近くで、カーターはこの光景に遭遇した。

彼の写真「ハゲワシと少女」は1993年3月26日に『ニューヨーク・タイムズ』紙に掲載され、翌94年にカーターはピュリツアー賞を受賞するが、厳しい非難にさらされた。

目の前に助けを必要としている少女がいるのに、何もせずにただ写真を撮っていた、と。

 

■世界の特別な1日――未来に残しい100の報道写真|マルゲリータ・ジャコーザ、ロベルト・モツタデリ、ジャン二・モレッリ、村田綾子:訳|日経ナショナルジオグラフィック社|2017年6月|ISBN:9784863133853|○

1869大陸横断鉄道、同年スエズ運河の開通から、2015年火星探査機「キュリオシティ」のセルフィー、同年ギリシャ・レスボス島、難民流入まで、100の報道写真が選ばれている。

――過去150年間における重要な歴史的瞬間を写しとったものだ。そのため、写真の歴史というより、歴史の写真集とでもいうべき1冊となっている(はじめに/ロベルト・モツタチリ)

 したがって1941年真珠湾攻撃、1945年長崎への原爆投下など第2次世界大戦、1967年第3次中東戦争、2003年イラク戦争、引き倒されるサダム・フセイン像まで、戦争報道が圧倒的に多い。

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ベトナム戦争では、1968年エディ・アダムス「ベトコンの処刑」、1972年ニック・ウット「戦争の恐怖」という共に有名な写真が収録されている。

 これは余談だが、ここには収録されていないが、ホーチミン市へ行ったとき、沢田教一がピュリツァー賞を受賞した「安全への逃避」がある戦争証跡博物館を訪ねたことがある。

 博物館では戦闘機や戦車が野外展示され、別棟の粗末な展示館では沢田教一や一ノ瀬泰造の写真が展示されていた。帰ってから、あらためてデーヴィド・ハルバースタム『ベスト&ブライテスト』を読み、アメリカの中枢部門の“最良にして最も聡明な人たち”がなぜベトナム戦争という泥沼にはまり込んだかを知り、また平敷安常『キャパになれなかったカメラマン』を読み戦争報道の生々しい現場を知った。

 さて、100点の作品の中でもっとも記憶に残っているのは、上掲の「ハゲワシと少女」である。

――時が止まった、衝撃的な写真。そこには目を背けたくなるほどの痛ましさがある。〔…〕少女はひどく痩せ衰え、もう力は残っていない。うずくまった彼女は餓死しようとしている。表情はわからないが、私たちは彼女の疲れと苦しみを感じることができる。彼女の背後では、 1羽のハゲワシがじっと待ちかまえている。(本書)

 最初に見たのはいつだっただろう。写真の悲惨さだけではなく、カメラマンの運命も変えた。

 このケビン・カーターの写真は、「報道か人命か」というメディアの姿勢を問う論争に発展した。ピューリッツァー賞の受賞式の1か月後、かれは自殺する。33歳だった。本書には「彼は自分のカメラがとらえた痛みに鈍感でいられなかったのだ」とある。

 ――以来、この少女の写真はアフリカ大陸全土の苦しみの象徴となっている。その苦しみは無関心の産物でもある。国際社会はあまりにも多くの場合、積極的に関わろうとする行動力だけでなく、ただ見るという勇気にも欠けている。(本書)

 ロベルト・モツタチリは、「歴史」が訪れたときのためにカメラを手に、その瞬間をとらえる準備ができていることの大切さを強調する。画像こそ文章を超えたアイコンだと。

 

 

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