10/オンリー・イエスタディ

2017.06.29

奥野修司★魂でもいいから、そばにいて――3・11後の霊体験を聞く …………☆2011.3.11版遠野物語

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 この世に存在するのはモノだけではない。ある人を慈しめば、慈しむその人の想いも存在するはずだ。

  この世界を成り立たせているのは、実はモノよりも、

 慈しみ、悲しみ、愛、情熱、哀れみ、憂い、恐れ、怒りといった目に見えない心の働きかもしれない。

  だからこそ人の強い想いが魂となって、あるいは音となって、あるいは光となってこの世にあらわれる――。なんてことを、僕は夢うつつに妄想しながら、被災地で起こった不思議な体験のことを振り返っていた。

 

 魂でもいいから、そばにいて――3・11後の霊体験を聞く |奥野修司 |新潮社 |2017年2月|ISBN:  9784104049028 |○

  1万8千余人の命を奪った東日本大震災。被災地で“亡き人との再会”という不思議な体験が語られていると聞き、著者は3年半にわたって取材を続ける。

  ――石巻では、車を運転中に人にぶつかった気がするという通報が多すぎて、通行止めになった道路もあると聞いた。まるで都市伝説のような恐怖体験だが、当時はこんな話は掃いて捨てるほどあったのである。(本書)

  また「石巻のあるばあさんが、近所の人から『あんたとこのおじいちゃんの霊が大街道(国道398号線)の十字路で出たそうよ』と聞いたそうだ。私もおじいちゃんに逢いたいって、毎晩その十字路に立っているんだそうだ」という話が紹介されている。

  3.11で当方がもっとも気になっているのは、その石巻市の大川小学校である。全校児童108人のうち74人が犠牲となった“人災”ともいえる大惨事と、その後の市の不遜な対応である。当時2年生だった広夢くんも犠牲者の一人。著者は両親に会いに行く。

  広夢くんと莉希くん(当時幼稚園児)は鉄道ファン。家にはプラレールやNゲージのジオラマがあった。プラレールは、車両をレールにセットし、ボタンを押すと、「ポワ〜ン、一番列車が参ります。ジリリリリリ……」、録音されたアナウンスが流れる。「乗り降りの際は、お足元にご注意ください。当駅では終日禁煙となっております」。二人は夢中になって遊んでいた。

  ――「ああ、家族全員が隣の部屋でテレビを見ていたときです。これが、これが勝手に鳴ったんです」〔…〕

「それまで広夢と莉希がよくこれを鳴らして遊んでいたんです。音が聞こえるから、二人で遊んでいるのがわかるんです。だから、その日も隣の部屋で遊んでると思ったのですが、よく考えたら、震災後だから広夢がいるわけないし、莉希は私の横でテレビを見ているんです。『あれ、ちょっと待てよ、隣の部屋、誰もいないよね。なんで勝手にアナウンスが流れているの?』

 それでいっぺんに家族が顔を見合わせて『ええっ?』となったんです」(本書)

  兄から届いたメール“ありがとう”、『ママ、笑って』――おもちゃを動かす3歳児、霊になっても『抱いてほしかった』、『ずっと逢いたかった』――ハグする夫、深夜にノックした父と死の「お知らせ」など、多くの“霊体験”が語られる。

  じつは著者には、『看取り先生の遺言――がんで安らかな最期を迎えるために』(2013)という著書がある。宮城県で在宅緩和医療を先駆的に行った岡部健医師と、死の間際にすでに亡くなった人物が現れる「お迎え」という現象を扱っている。

 「お迎え」と「霊体験」――。東北には霊魂を信じる感覚が今も息づいているからではないだろうか、と著者は書く。『遠野物語』第99話を持ち出すまでもなく、この息づかいは3.11版遠野物語である。

奥野修司□看取り先生の遺言――がんで安らかな最期を迎えるために  

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2017.05.01

山田 稔★天野さんの傘

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 当時、黒田さんは30を少し出たころだったが、若さに似ず大人の風格のようなものが備わっていた。三高時代は剣道3段だったそうで背すじがのび、声にも力があった。そのころよく一緒にいた多田道太郎とは体格だけでなく、さまざまな点で対照的だった。

 

*

才気の人多田道太郎にたいし黒田憲治はいわば常識の人であった。

*

桑原先生などは一方で多田さんの才知を愛でつつも、現実面では黒田さんの生活者としての知恵を重んじていたし、生島先生も黒田さんの堅実さを信頼して相談相手にもしていたようである。〔…〕

*

後年、私はこの頼り甲斐のある先輩と、もっと付合っていたらよかったと悔んだものである。しかし当時、多田道太郎の発想の奇抜さ、〈多田マジック〉に魅せられていた私は、黒田憲治の「常識」に物足りなさをおぼえ、多田さんの方ばかり向いていた。

*

そのような私は、黒田さんの目にどのように映っていたのだろう。何かの集まりの後など、私にむかって「多田の言うことはおもろすぎるわ。実際はあんなもんとちがうよ」と言った。その口調には〈多田のマネをしたらアカンよ〉と、暗に戒めるようなひびきがあった。

――「ある文学事典の話」

 ★天野さんの傘 |山田 稔|編集工房ノア|20157| ISBN 9784892712340|

 当方は山田稔のエッセイのファンである。2011年に『別れの手続き――山田稔散文選』がでたので、もう新しいエッセイ集はでないのか、なにしろ1930年生まれだものなぁ、とあきらめていた。が、いつもの編集工房ノアから本書がでていたのを、ようやく手に入れた。

 本書では、桑原武夫、生島遼一、伊吹武彦、天野忠、富士正晴、松尾尊允、北川荘平、多田道太郎、黒田憲治など京都の師と友が登場する。それは、忘れ得ぬ人々の思い出を“ひとり残された私が記憶の底を掘返している”のだが、同時に著者の“自伝”の一部のようなものである。

上掲の「ある文学事典の話」は、福音館書店発行の『西洋文学事典』(1954)が半世紀を経て、ちくま学芸文庫として復刊する話から始まる。「情報の新しさがつねに求められる事典の類が改訂も増補もなされずに元のまま復刊される」というは、例がない。

 ちなみに同事典ちくま学芸文庫版の「BOOK」データを調べると、……。

 ――『失われた時をもとめて』、『カラマーゾフの兄弟』、『戦争と平和』、『チボー家の人々』……。一度は読みたいと思いながらも、その分量の膨大さにくじけてしまう西洋文学の高い山。でもこの本があれば大丈夫。作品のあらすじから、時代背景、作者の人物像までが、わずか数分でつかめてしまう。一世を風靡した批評家・翻訳家たちによって執筆された文章はどれも味わい深く、示唆に富み、読書の悦びも与えてくれる。読んで楽しい文学事典の決定版。 

*

 なんだか復刊の理由が分かる。福音館書店『西洋文学事典』は、桑原武夫監修とあるが、

 ――つまりこの仕事は福音館書店から桑原武夫に依頼され、さらに黒田憲治と多田道太郎に下請けされた。そしてその下請けの下請け、つまり孫請けの仕事を、むかし私は多田さんから分けてもらったのである。(本書)

 1958年ごろ、樋口謹一、多田道太郎、黒田憲治、加藤秀俊、山田稔の京大人文研メンバーで「DDの会」というのをつくる。DetectiveDocumentaryの頭文字。推理小説や記録文学(伝記、ノンフィクション)についておしゃべりしているうちに、「週刊読書人」に内外の名探偵Whos Who5人は匿名で連載する。

 上掲の文章はこう続く。

  ――1960年の12月に私が「思想の科学」に「現代の復讐者 松本清張」という評論を書いたとき、多田さんはおもしろいと言ってくれたが、黒田さんからは、あれは要するに一夜漬けのもの、思いつきにすぎないときびしく批判された。〔…〕

 それにもかかわらず、いやむしろそれゆえにと言うべきか、私は黒田さんにかわいがられていたという思いがつよい。(本書)

 さて、その後黒田憲治は神戸大学へ移るが、結核で入退院を繰り返し1961年、37歳の若さで死去する。この「ある文学事典の話」は、単なるエッセイではなく、忘れられていた黒田憲治という先輩を蘇らせたみごとな評伝である。

 ところで「DDの会」は、その後、現代風俗時評を「現代文化事典」と題して毎日新聞に連載する。単行本化されたのが『身辺の思想』(1963・講談社)である。

  当方、現在“終活”で手元の本を整理中だが、ここにその『身辺の思想』がある(佃公彦の“カット”がなつかしい)。本書に引用されているように「わたしたち4人、それに、先年急逝した黒田憲治の5人が、なんということなく雑談の集まりを持つようになったのは、たしか5年前のことだ」と、「まえがき」が始まっている。

 せっかくなので現代風俗・現代文化として扱われているものを紹介する。チューインガム・スキー・ロッカー・パチンコ・デート・ライター・乳母車・アルサロ・オルゴール・貸ボート・スーパーマーケット・あんみつ・少女歌劇・新書・電蓄・ボウリング・マージャンなどである。大宅壮一がカバーに「しゃれた“智的装身具”の一つとしておすすめしたい」と宣伝に一役買っている。

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 なお本書『天野さんの傘』には、『スカトロジア』の著者にしてフランス文学者らしい「初心忘るべからず」というパリの話も収録されている。

山田稔■ 北園町九十三番地――天野忠さんのこと

 
 

 

 

   
 

山田稔□別れの手続き――山田稔散文選

 
 

 

 

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2017.02.17

毛利眞人★ニッポン エロ・グロ・ナンセンス――昭和モダン歌謡の光と影

20170217

 

新東京行進曲から始めたい。

 

♪ 昨日チャンバラ 今日エロレヴュー

モダン浅草 ナンセンス

ジャズが渦まく あの脚線美

投げるイットで 日が暮れる

  まさに1930(昭和5)年のムーヴメントがすべて盛りこまれだ歌詞から、復興成った東京の溌剌とした勢いが感じられる。

 

 ニッポン エロ・グロ・ナンセンス――昭和モダン歌謡の光と影|毛利眞人 |講談社|2016年10月|ISBN:9784062586405 |○

 上掲「新東京行進曲」は西條八十作詞、中山晋平作曲、四家文子唄で、日活映画「新東京行進曲」(1930・長倉祐孝監督)の主題歌。前年、西條・中山コンビの「東京行進曲」(♪昔恋しい銀座の柳……)が大ヒットし、続いて出されたがこちらは映画も歌もヒットしなかったようだ。

 上掲は3番の歌詞だが、問題は“イット”という言葉。当方、初めて出合うが、どういう意味なのか。

  ――『モダン用語辞典』をひもとけば次のような意味である。

 アメリカの作家エリナー・グリーン女史原作、クララ・ボー主演の映画〈イット〉から来た言葉。性的魅力のこと。〔…〕

エロが肉体美も含んだ官能的とか淫蕩という意味あいであるのにたいして、“イット”はにじみ出るほんのりとしたお色気フェロモンというところだろうか(本書)

  ところが、同じ“イット”という言葉でヒットしたのは、サトウハチロー作詞、井田一郎作曲、二村定一唄の「とこイットだね(イット節)」(1931)。その2番の歌詞。

 ♪青い靴下その昔

肌色靴下もう古い

今は素足のはづむ肉

おまけに太いよ おそれるね

とこイットだね

  ――はじめ「容貌や肉体の美しさではなく、内面からにじみ出て異性を惹きつけてやまない性的魅力」だったはずの“イット”が、可能をかぎり拡大解釈されている。看板に偽りあり。ここで描かれている情緒はイットなどという生ぬるいものではなく、もはやエロそのものである。(本書)

  ――川端康成も「浅草紅団」のヒロイン弓子に「靴下をはかないのは、ストッキングレスつて、わざと素足を見せてるのよ」と言わせているように、ナマ足がカジノ・フォーリーなどレヴュー団の踊子のエロな武器から一般的に広がり、ファッション化したのが1930年という年であった。ちなみに当時のストッキングはシルク製で、縫製線が入っていた。これがナイロン製に移り変わってストッキングがシームレスとなるのは、日本では戦後を待たなければならない。(本書)

 手元の小学館英和中辞典を引いてみると、たしかに「it」には「《俗・古風》性的魅力、イット」という意味もある。ちなみに当時の流行語に、やばい、ダブる、彼氏、マークする、アイドル、歓声のイエーイなどがあり、今も使われている。

  さて、本書は、上記のような流行語がテーマではない。大正末から昭和のはじめ、関東大震災から日中戦争へと至る時代。テロよりエロ、アカより桃色、その混沌の時代の「エロ・グロ・ナンセンスとは何だったのか?」を3分半のレコードの不埒な歌詩と軽佻浮薄なメロディーから読み解こうとしたもの。

 著者曰く「道楽のきわみ」の一書。文章では伝わる面白さに限りがあるので、著者監修のCD『ねえ興奮しちゃいやよ』や『ニッポン・エロ・グロ・ナンセンス――モガ・モボ・ソングの世界』を聴きながらお楽しみいただきたい、とのこと。

 

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2017.01.18

こうの史代★この世界の片隅に

201701181

 

 わたしは死んだ事がいので、死が最悪の不幸であるのかどうかかりません。他者にった事

いから、すべての命の尊さだの素晴らしさだのも、厳密にはからいままかも知れません。

  そのせいか、時に「誰もかれも」の「死」の数で悲劇の重さを量らぬばならぬ「戦災もの」を、どうもうまく理解出来ていい気がします。

  そこで、この作品では、戦時の生活がだらだら続く様子を描く事にしました。

  そしてまず、そこにだって幾つも転がっていた筈の「誰か」の「生」の悲しみやきらめきを知ろうとしました。

  呉市は今も昔も、勇ましさとたおやかさを併せ持つ不思議都市です。わたしにとっては母の故郷です。わたしに繋がる人々が呉で何を願い、失い、敗戦を迎え、その二三年後にわたしと出会ったのかは、その幾人かが亡くなってしまった今とっては確かめようもありません。

  だから、この作品は解釈の一つにすぎません。ただ出会えたかれらの朗らかで穏やか「生」の「記憶」を拠り所に、描き続けました。

 正直、描き終えられるとは思いませんでした。(あとがき)

 

 ★この世界の片隅に(上・中・下)|こうの史代|双葉社|20082月・8月・20094月|評価=◎おすすめ

  評判のアニメ映画『この世界の片隅に』(2016年・片渕須直監督)を見た帰り、書店に寄って孫にと本書こうの史代のまんがを買ってきた。

  絵の得意な浦野すずが北條周作に嫁ぎ、軍港の街呉での戦中の日々が描かれる。

 本書は、昭和1812月から209月が舞台の40編、その前に昭和91013年が舞台の短編3作、その後に昭和20,21年の短編5作で構成されている。

 こうの史代は、1968年広島生まれ。かなり綿密に取材したらしく、たとえば、当時の衣(着物をもんぺに)・食(楠公飯)・住(警戒警報が発令されたら)から愛国かるた、防空用機材、焼夷弾、呉鎮守府などの図解まで丹念に描かれている。

 あとがきにあるように「戦時の生活がだらだら続く様子を描く」ことによって、逆にスリリングな展開になっている。

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 映画の方は、第1に、片渕須直監督がさらに時代考証を重ねたようで、そのディテールが興味深い。第2に、こうの史代の絵を水彩画のあわあわとしたイメージにした背景がすばらしい。第3に、すずの声を担当する“のん”(元の事務所とのトラブルで“能年玲奈”という本名が使えないらしい)の原作どおりの「しみじみニヤニヤしとるんじゃ!」のセリフもかわいい。

  第4に、なによりも遊郭のリンとのかかわりがかなり省略されている以外は、原作に忠実で換骨奪胎していないのが好ましい。

 というわけで中学生の孫が、興味を示すかどうか。 

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2016.12.09

工藤隆雄■マタギ奇談

20161209

 「昔はよかった。今では無駄な道路ができたりしてろくなことはない。白神がズタズタにされました。さらに数年経ったら、世界遺産にでも指定され、いろいろと制約が出てさてマタギがでなくなる日が来るかもしれません」

  まさかと思った。大昔からここに住み、マタギをやってきた人はどうなるのだろう。男はマタギ小屋も撤去されるだろうといった。

「いくらなんでもそこまでしないでしょう。千年、いや縄文の昔から続いてきた日本の文化ですから」

 「いや、やりかねない。国は、自然を守るというのは、誰も入れないことと思っている。〔…〕机の上で考えているから見当違いなことばかりやっている。

 我々地元のマタギに話を聞こうともしない。白神が荒廃しないで今もあるのは、昔からマタギが守ってきたからなんです〔…〕

 その間に白神山地は世界遺産に登録された。すると、どこからどこまで入ってもいいが、ここからはだめたというような線引きがされ、それまでの白神ではなくなった。

 

 マタギ奇談|工藤隆雄|山と渓谷社|201610|ISBN: 9784635320146|

  青森、秋田、山形でマタギに会い、山の神のたたり、山津波、熊捕獲、怪魚などマタギ伝説を収録したもの。白神山地の暗門の滝菅江真澄が来たことがあるらしいというマタギはなしは興味深い。

  新田次郎『八甲田山死の彷徨』(1971)は映画化もされ有名だ。この事件は1902年(明治35年)200名近い死者を出した陸軍の雪中行軍の遭難事件。この事件が明るみに出たのは、当時部隊を案内したマタギが28年後に経験談を語ったところから。さらに時事新報記者小笠原孤酒『八甲田連峰吹雪の惨劇』(1970)によって事件がよみがえった。これを読んだ新田次郎が『八甲田山死の彷徨』を一気に書き上げたという。

  ――孤酒は自分の本が有名作家の小説の元になったことを喜んだ。が、その一方で愕然ともした。(マタギの)鉄太郎たちがひどい扱いを受けたことが明確に書かれていなかったばかりでなく、青森隊と弘前隊は関係なく雪中行軍をしたのに、連絡し合って山中で会うことにしたことなど、ところどころ史実が曲げて書かれていたからだ。おもしろくするためにありもしないことを書いていいのかと思ったのだ。(本書)

  文章が洗練されていないのは惜しいが、ひとつひとつ興味深い話が満載。さて、上掲の白神山地の老マタギのはなしの続き……。

  ――それから数年後、白神山地は鳥獣保護区に指定された。その結果、白神ではいっさいの猟ができなくなってしまった。その瞬間、千年、いや、縄文時代から続いてきたマタギという文化が終焉を迎えた。奇しくも男がいった通りになった。白神山地が世界遺産に指定されてから11年後の2004年のことである。(本書) 

志田忠儀★ラスト・マタギ――志田忠儀・98歳の生活と意見

 

小泉武夫■猟師の肉は腐らない

 

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2016.04.13

小熊英二■生きて帰ってきた男――ある日本兵の戦争と戦後

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近所の人たちは空襲におびえ、すでに日常の風景になった一青年の入営などに、かまう者はいなかった。勇ましい雰囲気などはかけらもない。入営を示すタスキもない。

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カーキ色の国民服を着た謙二は、「立派に奉公してまいります」といった型通りの挨拶のあと、祖父母に「行ってくるね」と告げた。

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そのとき祖父の伊七は、大声で泣きくずれた。

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ともに暮らした三人の孫がつぎつぎと病死し、最後に残った謙二が軍隊に徴兵される。おそらく生還は期しがたい。孫たちの死にも、商店の廃業にも、自身の脳梗塞にも、いちども愚痴をこぼさず、ただ耐え続けていた伊七が、このとき初めて大声で泣いた。

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入営の見送りにあたって家族が泣くなど、当時はありえない光景だった。

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■小熊英二│生きて帰ってきた男――ある日本兵の戦争と戦後│岩波書店│ISBN-978400431549020156月│評価=◎おすすめ

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 小熊謙二は、1925(大正14)年10月生まれ。1年後に昭和と改元されるから、昭和を生きた人といっていい。著者の父である。本書は一市井の人の昭和という時代の生活史である。著者と林英一による小熊謙二のオーラルヒストリーを元にしている。

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 1944(昭和19)年11月、陸軍二等兵として満州へ。

1945(昭和20)年10月、捕虜としてシベリアへ。

1948(昭和23)年8月、帰国。

1951(昭和26)年1月、結核に。5年間を結核療養所。

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「謙二はすでに30歳になっていた。彼の20代の10年間は、戦争とシベリア、そして結核療養所で終わってしまっていた」。

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 収容所での持ち物はといえば、着ている軍服、飯盒、水筒、軍用毛布。背負いのザックには軍用靴下と裁縫袋。コップも歯ブラシも食器も、着替えの下着もなかったという。

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「裁縫袋は、おばあさんの小千代が、軍隊入営のときに持たせてくれたもので、その後にとても役立った。着替えも何もないから、服が破れたら自分で直さなければならない。零下40度のシベリアの冬で、服が着られなくなったら命取りだ。糸がなくなったあとは、はけなくなった軍用靴下をほぐして作った」

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 住所や職業を転々としたのち、立川市でスポーツ用品店を営むに至る。のちに謙二は「不戦兵士の会」や戦後補償裁判にかかわる。だからといって庶民のありふれた生活史を逸脱するという違和感はないし、そういう議論は読者にとってはどうでもいいこと。

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 本書は意欲的な試みのすぐれた作品であるにかかわらず書評があまり出ないのは、おそらく著者の「あとがき」でまんべんなく“解説”されてしまっているせいだろう。

 すなわち、第1に、戦争体験だけでなく、戦前および戦後の生活史を描いていること。これによって戦争から帰ってきてからの市井人の生々しい生活が分かる。

 第2に、社会科学的な視点の導入。これによって昭和という時代の経済、行政、労働など市井人の日々の背景が分かる。

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 この昭和を生きた普通の人の個人史は、記録されなかったわれわれの父であったり、祖父であったりする。昭和という時代の底辺を知るに欠かせない一書である。

 

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2016.01.17

三浦英之■五色の虹――満州建国大学卒業生たちの戦後

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谷〔学謙〕は明らかに狼狽していた。

「私はこの数週間準備を重ね、この日をずっと楽しみにしていたのです。あなたに伝えたいことがたくさんあります。午前中も胸を高鳴らせてずっと待っておったのです。それなのに突然電話が来て、日本人の記者とは会ってはいけないということになり、私は今どうしていいのか……、悲しくて……、悔しくて……、とても……」

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 中国政府はある意味で一貫していた。

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《不都合な事実は絶対に記録させない――》 

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戦争や内戦を幾度も繰り返してきた中国政府はたぶん、「記録したものだけが記憶される」という言葉の真意をほかのどの国の政府よりも知り抜いている。

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記録されなければ記憶されない、その一方で、一度記録にさえ残してしまえば、後に「事実」としていかようにも使うことができる――。

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戦後、多くの建国大学の日本人学生たちが「思想改造所」に入れられ、戦争中に犯した罪や建国大学の偽善性などを書面で残すよう強要されたことも、国内の至る所でジャーナリストたちに取材制限を設け、手紙のやりとりでさえ満足に行えない現在の状況も、この国では同じ「水脈」から発せられているように私には思われた。

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■五色の虹――満州建国大学卒業生たちの戦後│三浦英之│集英社│ISBN9784087815979201512月│評価=◎おすすめ

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建国大学は、「民族協和」を建学の精神とし将来の満州国建設の指導者を養成するため、1938年新京市(現長春市)に設立された。1945年満州国崩壊により閉学まで7期生約1400名が在籍した。

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1期生は約2万人の志願者から150名が選ばれた。日本人65人、中国人59人、朝鮮人11人、モンゴル人7人、ロシア人5人、台湾人3人という内訳。その最大の特色は、日本政府を公然と批判する自由を含め「言論の自由」が保障されたこと。

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卒業生、とりわけ外国人の戦後は、「日本の帝国主義の協力者」とみなされ、逮捕、拷問、自己批判、強制労働など過酷な人生を余儀なくされた。すでに85歳を超える卒業生たち会い、その過去と現在を知るため、著者は大連、長春、ウランバートル、ソウル、台北、カザフスタンのアルマトイ等を訪ねる。

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1期生で反満抗日運動のリーダー、在学中に憲兵隊に逮捕され、無期懲役の判決を受けた楊増志に大連で会ったとき……。話が1947年国民党軍が支配していた長春の街を共産党軍が巨大なバリケードで封鎖し兵糧攻めにした「長春包囲戦」(約30万人の市民が餓死)に及ぶと、楊増志に同行してきた男の携帯電話が鳴り、突然取材は打ち切られる。

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台湾人1期生でのちに「台湾の怪物」と呼ばれた李水清は言う。

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――楊にとってみればね、現在の共産党政権でさえ、たまたま今の中国に居座っている一時的な為政者にすぎないんだよ。だってそうでしょう?一党独裁政権が未来永劫継続するなんてあり得ない。すべては歴史が証明している。清朝は300年続いた。満州国は13年で終わった。共産党政権は今60年ちょっと続いているにすぎない。中国の長い歴史から見ればね、今の中国の政治状態だって、ほんの一時代の揺らぎのようなものにすぎないんだよ。そんなものに惑わされて、自らの信念を翻させられてたまるか。それが彼の生き方なんだ。(本書)

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そして上掲。長春の7期生の谷学謙は、日本の工作員だとあなどなれながらものちに東北師範大学教授、日本語教育の権威となり、今回の著者の取材のビザの発給、招聘状などに便宜を図ってくれた人。インタビュー直前に不許可となり、会うこともできなかった。

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本書は、一時は刊行を断念するなど紆余曲折を経ながらも、97歳となった楊増志から届いた漢詩を契機にどうしても記録を残さねばと、建国大学同窓会の協力により刊行にこぎつける。本書の中で満州国の研究者山室信一京大教授は言う。「歴史がせり上がってくるには時間が必要なのだ」。

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建国大学卒業生たちが次々鬼籍に入るなか、ぎりぎりに沈黙から開放された当事者たちの貴重な過去と現在の証言である。いっきに読ませる筆力、渾身のノンフィクションだ。

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三浦英之□南三陸日記 

 

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2016.01.04

発掘本・再会本100選★従軍慰安婦・続従軍慰安婦│千田夏光

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満州(中国の東北地方)に生まれ育った私は或る年の夏、大連から長春へ旅行した。夜汽車であった。満員であった。通路にも新聞紙を敷いて人々が寝ていた。

夜中になると、便所へたつ人が、その人たちをまたぎながら通っていった。その人たちはしばしば足を踏まれていた。すると、私の横で寝ている一人が並んでいる一人に言った。

「汽車の通路って朝鮮に似ているね」

「どうして」

「人々は通りすぎるだけ、何も与えてくれない。足を踏んでいくだけだ」

そんな会話であった。アクセントから朝鮮人であることはすぐ分かった。だが、考えていくと、彼女らは足を踏まれただけではなかった。人生を踏まれたのであった。

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■従軍慰安婦・続従軍慰安婦│千田夏光│双葉社│19731974/文庫版:講談社│1984.111985.12│評価=◎おすすめ

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  慰安婦のことを、一冊の本を使ってクローズアップしたのは、千田夏光『従軍慰安婦――“声なき女”八万人の告発』(1973)がおそらく初めてであろう、と朴裕河『帝国の慰安婦』(2014)にあり、おそらくその頃であれば“政治色”のない本だろうと探し出した。

 

毎日新聞の記者であった千田夏光が、写真集『日本の戦歴』(1964)を担当したとき、兵隊とともに行軍する朝鮮人らしい女性の写真数葉を見つける。

 

「頭の上にトランクをのせている姿は朝鮮女性がよくやるポーズである。占領直後とおぼしい風景の中に和服姿で乗り込む女性。中国人から蔑みの目で見られている日本髪の女性。写真ネガにつけられている説明に“慰安婦”の文字はなかった。が、この女性の正体を追っているうち初めて“慰安婦”なる存在を知ったのであった」(本書)。

 

そして証言を求めて調査を開始し、ほぼ10年後に『従軍慰安婦――“声なき女”八万人の告発』(1973)、『続従軍慰安婦――償われざる女八万人の慟哭』(1974)が刊行される。そのなかにこんな一節がある。

――冷厳なる数字としてこんにち示し得るのは、元ソウル新聞編集局副局長で現在は文教部(文部省)スポークスマンを務めておられる、鄭達善氏が見せてくれた一片のソウル新聞の切り抜きだけである。そこには1943年から45年まで、挺身隊の名のもと若い朝鮮婦人約20万人が動員され、うち“5万人ないし7万人”が慰安婦にされたとあるのである。(本書)

 これは「挺身隊に動員された日韓の女性は約20万、そのうち韓国女性は57万」という記事を千田が誤読したとの説がある。ここから挺身隊=慰安婦という誤解が生じ、また韓国挺身隊問題対策協議会」(挺対協)の「日本軍によって強制的に連れていかれて性奴隷となった20万人の朝鮮人少女」という説が世界に流布されるに至る。

 

なお、続編において「従軍慰安婦とは、旧日本軍が戦場における兵士の性欲を処理させるために使った女性のことであり、敗戦の時点、つまり昭和20815日現在で、彼女らは推定8万余人いた。〔…〕うち朝鮮女性は推定65千人であった」と書いている。

 ところで従軍慰安婦は、性病蔓延による戦力低下の防止(上海の兵站病院に2千人の花柳病患者が入院していた例)と地域住民の治安維持(南京進撃途中の暴行、略奪、強姦の例)のために発想されたものだという。

――慰安婦という女性をつれ戦場から戦場に移ったのは、近代国家の軍隊では日本軍が唯一のものだった。しかし、それも理由をもとめていくと、米軍は軍事力経済力に物を言わせ、一回戦を終了した段階、もしくは作戦が一段落した段階で、部隊を後方の歓楽地へ後退させ、新手の部隊を前線に送っていくのに対し、日本軍にそうした軍事的経済的ゆとりはないことにあった。(本書)

 

朴裕河『帝国の慰安婦』では、元慰安婦の証言が、たとえば、「日本人の男が見せてくれた赤いワンピースと革の靴が子供心に本当に嬉しくて、ついあとさき考えずについていくことになった」が、「日本軍の刀に威嚇された女性が自分を呼び出し、抱きかかえるようにして連れていった」などと時間経過によって証言の変化することが記述されている。

“記憶は作られる”にしても、本書刊行の1973年と2016年の今とはずいぶん違う。しかし千田が書いた上掲の「だが、考えていくと、彼女らは足を踏まれただけではなかった。人生を踏まれたのであった」という記述は、今も生々しく響く。記憶し続けなければならない言葉である。

同時に201512月、日韓両政府による従軍慰安婦問題の合意に基づく解決策が「最終的かつ不可逆的」であることを願うばかりである。

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2015.10.26

岸富美子・石井妙子★満映とわたし

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昭和261951)年に担当した『保衛勝利的果実』は、伊琳監督の作品だった。

私の人生において忘れがたい一作である。

 

この作品は日中戦争の最中、ある村を日本軍が占領した際の出来事を描いていた。日本軍が家を焼きつくし、奪いつくし、中国人を殺しつくす、三光作戦を描いた内容だった。

そのワンカット、ワンカットを私はムヴィオラ(フィルム編集機)で見るうちに、胸が苦しくなり、作業ができなくなってしまった。〔…〕

 

 私の様子に気づいた伊琳監督が声をかけてくれた。

「岸さんは、このフィルムを見てどう思いますか」

私は率直に言った。

 

「日本軍がこんな酷いことをしたとは、とうてい思えません……」〔…〕

 

「岸さん、実は、これは私が実際に体験したことなのです。留守中、日本軍が入ったと聞き、慌てて戻ると村は全滅していたのです。私の親兄妹も全員が日本軍によって虐殺されていました」

 

私は言葉を失い、何も言えなかった。

 

★満映とわたし│岸富美子・石井妙子│文藝春秋│ISBN9784163903149201508月│評価=◎おすすめ│満映の崩壊と敗戦後抑留者の大地での日々。

本書は、岸富美子の手記『私の映画人生』をもとに、石井妙子がリライトし、章ごとに解説、注を加えたもの。

 岸富美子は、1920(大正9)年生まれ。1939(昭和14)年、満洲に渡り満映に入社。敗戦後、1953(昭和28)年まで映画編集者として中国映画の草創期を支える。映画編集という仕事は、撮影された膨大なフィルムをカットし、そのカットとカットを繋げて、音を画と合わせ作品として仕上げるもの。

 

 上掲はこう続く。

――満洲とは何だったのだろう。満洲で日本軍は何をやっていたのだろう。日本軍が村を占領したと聞いて、私たちは提灯行列をして喜んでいたが、そこでは何が行われていたのだろう。私は満映でどんな映画を作っていたのか。映画とは何か。

  私は初めて仕事を辞めたいと思うようになった。心の混乱は続いた。(本書)

 

満映(1937年設立)は、親日を訴える映画を作り識字率の低い中国人を感化する目的の国策会社である。敗戦後、満映は東北電影公司という映画会社に生まれ変わり、中国共産党に接収される。

日本人社員は1/3に減らされる。が、「日本人技術者の協力がなくては、私たちは映画一本、作れません。生活も責任を持って中国共産党が保証しますから、一緒に映画を作ってください」という舒群新所長を信頼し、旧満映の撮影機器、衣装等物資を貨車100両分とともに、長春からハルビン、さらに北の国境近くの町佳木斯、鶴崗と撮影所を求めて国共内戦の中を移動する。

とりわけ過酷な生活が待っていたのは、「精簡」(精兵簡政)と呼ばれるいわゆるリストラで約半数の117名が選別され、のちの文革時の下放のように沙河子で使役に供される。たとえば零下30度のなか松花江に沈んでいる船の周りの氷を割る作業、しかし翌日また氷で覆われるまことに無意味と思える作業だ。

 

岸たちのかかわった映画は、共産主義を浸透させるための国策映画だったが、日本人技師たちはそれに共鳴したわけでなく、また日本人がかかわったことは長く伏せられていた。1953(昭和28)年になって岸たちは帰国を果たした。

 

 満映(満洲映画協会)が取り上げられるとき、これまで甘粕正彦、李香蘭が主役、内田吐夢、大塚有章が脇役で、“鳥瞰図”のように描かれてきた。だが本書は映画編集者岸富美子とその家族が主役、脇役内田吐夢、大塚有章、端役甘粕正彦、李香蘭で“虫瞰図”(大森実の造語)のように描かれる。

 

 歴史も政治も関係なく、戦争に翻弄された市井の一員の手記だからこそ、満映の記録としての意義がある。

 

 

 

 

 

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2015.10.25

◎10オンリー・イエスタディ│T版 2015年9月~10月

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★片岡義男『去年の夏、ぼくが学んだこと』

「ひとりの男がこの世でなにかをしようと思ったら、三人の男が必要なんだそうだ」

「あらゆる物事の原理原則を教えてくれる男」「なにごとに関しても直言してくれる男」

「そして三人目の男は、師と仰ぐ男だ」

★片岡義男『去年の夏、ぼくが学んだこと』〇2015

**

『去年の夏、ぼくが学んだこと』著者は76歳。なぜ1967年が舞台の小説が今書かれるのかが分からない。

当時「ワンダーランド」「宝島」より前、テディ片岡時代である。あの時代はよかったと老人たちが郷愁を感じるのか。それとも若い人たちが60年代に憧れるのか。たしかに魅力的な女性たちが登場するが……。

 

★鵜飼秀徳『寺院消滅』

荒廃した寺の本堂に入ると、以前は多くの信者が祈りを捧げたであろう仏様が一人で住んでいた。しんと静まり返った空間で、私は自然に手を合わせていた。しかし、こうした全国に点在する荒廃寺院も、かつては住職が存在し、ムラ人が集い、守り、信仰の拠点としての役割を果たしていたはずだ。なぜ、寺を守れなかったのか。〔…〕

寺が消えることは、自分につながる〝過去〞を失うことでもある

★鵜飼秀徳『寺院消滅――失われる「地方」と「宗教」』2015

 

本書は、地方の困窮寺院の声を拾ったルポルタージュ、伝統仏教の構造をひもといた歴史書、あるいは菩提寺との付き合い方が分かる実用書でもある。

玄侑宗久氏のインタビューが出色。

「現代人は面倒なお付き合いを避けがちですよね。でも考えれば面倒なお付き合いこそが、「絆」なんです。絆って、語源は馬の鼻づらをつなぐ綱のことですからね。絆は、束縛そのものなんです。その束縛を、面倒と考えるか、貴重なネットワークと考えるか。それはその人の考え方次第なんじゃないでしょうか」。

 

 

★市川哲夫編『70年代と80年代――テレビが輝いていた時代』

 

『ニユースステーション』は、ニュースのテレビ番組化に成功した。テレビ朝日、電通とオフィス・トゥー・ワンはニュースを原材料とした商品開発に成功し、確実に利益が見込めるロングセラー商品を手にしたことになる。(高村裕)

★市川哲夫編『70年代と80年代――テレビが輝いていた時代』◎2015

70年代と80年代――テレビが輝いていた時代』はTBS『調査情報』掲載されたもの。

オンリー・イエスタディものだが、7080年代を「体験そのものを語りうる人々が健在で」、その当事者による執筆が多いのが特色。たしかに、大阪万博からおたくの登場まで喧噪と狂騒の“黄金時代”はすべてテレビの中にあった。

 

柳田国男『柳田国男の故郷七十年』

 

姻戚と本当の親類との間にもとは、はっきりした差別があった。播州の仕来りによると〔…〕姻戚関係はその関係のあった本人の死後三十三年を境にして解消して他人になっていいことになっているようである。

★柳田国男『柳田国男の故郷七十年』〇2014

「甲寅叢書」の第三冊日が私の河童の本すなわち「山島民譚集」である。購読者の中には、まだ学生時代の芥川竜之介もいた。ずっと後のことであるが、有名な「河童」という小説は、私の本を読んでから河童のことが書いてみたくなったので、他に種本はないということを彼自身いっていた。(『故郷七十年』「甲寅叢書」)

**

民俗学者の柳田国男(18751962)は現在の兵庫県神崎郡福崎町生まれ。『故郷70年』は1958年神戸新聞に嘉治隆一を聞き手とした談話による自伝。翌1959年のじぎく文庫から刊行。実に半世紀を越えて手に取った。本書PHP研究所版は若い読者向けに半分程度の抄録。播州の遠き風景、生活、仕来りが興味深い。

 

 

★岸富美子・石井妙子『満映とわたし』

 

「岸さん、実は、これは私が実際に体験したことなのです。留守中、日本軍が入ったと聞き、慌てて戻ると村は全滅していたのです。私の親兄妹も全員が日本軍によって虐殺されていました」『保衛勝利的果実』の伊琳監督

★岸富美子・石井妙子『満映とわたし』◎2015

 

『満映とわたし』は、岸富美子の手記をもとに石井妙子がリライトし各章に解説、注を加えたもの。

  満映(満洲映画協会)が取り上げられるとき、これまで甘粕正彦、李香蘭が主役、内田吐夢、大塚有章が脇役で鳥瞰図のように描かれてきた。

  だが本書は映画編集者岸富美子とその家族が主役、脇役内田吐夢、大塚有章、端役甘粕正彦、李香蘭で“虫瞰図”(大森実の造語)のように描かれる。

 

 

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