★ノンフィクション100選

ノンフィクション100選★神戸新聞の100日|神戸新聞社

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外壁が剥がれ、一部の鉄骨が見えていた。通用門から3階の社長室に入った時、「ビルがうめいている」ように荒川[神戸新聞社長]には思えた。室内のひどさは形容のしょうもない。

「ビルが崩れずに、立っているのが不思議なほど」だった。

隣の2号会議室を基地にし、すぐに出社している社員を集めた。兵庫南部の交通機関がすべて止まっている状態だけに、顔は揃っていなかった。役員もいれば、一般社員もいる。立ったままで荒川は指示を出した。

「どんなことがあっても休刊はしない。新聞発行に全力を上げる」

未曾有の災害を目の前にして、新聞社がやるべきことは、たった一つしかない。「新聞を出す」ことである。

地域の惨状をつぶさに伝えることも、救援を呼びかけることも、被災者に情報を提供することも、すべては新聞を出すことから始まる。

★神戸新聞の100日――阪神大震災、地域ジャーナリズムの戦い|神戸新聞社|プレジデント社|199511

『神戸新聞の100日』(1995)は阪神・淡路大震災に立ち向かった1300人の神戸新聞社員の姿をみずから描いたもの。20101月にテレビドラマとして放映される。

1995年、大震災で神戸新聞会館が全壊、紙面制作システムが壊滅(製版、印刷工程、発送部門は無傷)。「緊急事態発生時における新聞発行援助協定(94)」を結んでいた京都新聞の協力で無休刊で発行を続けた。

本書で社員たちの奮闘ぶりをあらためて知り敬意を表する。本社が崩壊しても、新聞は無休を守ったというのは偉業であろう。

とはいうものの題字に神戸新聞とあるが、紙面はまるで京都新聞を読んでいるのと同じで、しかも配達されず積み上げられた束は無残だった記憶がある。

大震災時がジャーナリズム神戸新聞のピークであったと思われる。その後経営危機がせまり、営業畑出身の社長のもと、大きく舵を切る。

さて、神戸新聞OBに『マングローブ――テロリストに乗っ取られたJR東日本の真実』(2007)で講談社ノンフィクション賞受賞した西岡研介がいる。

その西岡研介『スキャンダルを追え!「噂の眞相」トップ屋稼業』(2001)は、東京高検検事長のクビを取り、首相を売春スキャンダルで窮地に追い込んだスクープなど「噂真」時代を描いたノンフィクションだが、神戸新聞時代の大震災、少年A事件のころの回顧もおもしろい。

同書によれば、神戸空港建設計画を疑問視した記事に対し、神戸市幹部から“神戸の悲願”を地元紙は批判するなと、社長など上層部にプレッシャーがかけられる。それでも効果がないと、市幹部は社会部幹部やデスククラスに現場を抑え込んでもらうよう攻勢をかけてきた、と。

「『なぁ、西岡よ、あいつらも(空港建設に)必死なんや。もちろん批判すべきところは批判すべきや。けど、少しはあいつらの立場もわかったってくれへんか……』。元神戸市役所担当のOB記者にこう諭されたのも一度や二度ではなかった」

賛否の分かれる問題を報じる場合、新聞は双方の意見を平等に載せ、読者の判断に委ねようとする。この「バランス感覚」に居心地の悪さを感じて、西岡記者は神戸新聞をやめ「噂真」へ転職するのである。そういえば「噂の真相」誌上で神戸空港反対の田中康夫が地元神戸新聞の記者を“それでもジャーナリストか”としきりに挑発していた。

 わたしの勤めていた某法人が、あることで事務上のミスをしたが、“約160万円の不正を働いた”と神戸新聞にスクープされたことがある。なんと朝刊1面トップである。仮に記事にするにしても、どう考えても地域版の1段15行程度のニュースである。

反響すさまじく顧客への対応に追われた。PR誌に協力してもらっている元論説委員やフォーラムを共催している新聞社事業部門は何の役にもたたなかった。社会部長にじかに抗議したら“訂正はできないが顧客を意識した記事を再度載せるから”という。しかしそれは「余波の大きさに揺れている。顧客へ釈明行脚」という騒ぎに輪をかける記事であった。このためホームページに「神戸新聞の報道被害にあった。訂正記事を載せるよう抗議中である」と書いた。

 数日後、わが法人の親会社の幹部から、ホームページの抗議文を削除してほしいと社会部長が言っている、とやんわり圧力をかける電話があった。いまその幹部も社会部長も、それぞれ出世し、取締役になっている。

 神戸新聞は、全国紙と同じテーマの社説でつっぱるなど、紙面はローカルに徹することはせず、プライドの高さを誇っているが、それが裏目にでて、シェアを落としているのではないか。またWeb版でも商業主義と共同通信依存が顕著で、毎日新聞のWeb兵庫版等のきめの細かさにいちじるしく劣る。

そして、いまや商業ビルなどの不動産業が経営の主力であり、阪神競馬場の神戸新聞杯であったり、地元自治体に食い込んで指定管理者という下請け事業に進出したり、“地方紙営業の雄”である。

『神戸新聞の100日』をはじめ、神戸新聞社の阪神・淡路大震災に関する書籍は、子会社の神戸新聞総合出版センターを含め30点を超える。なお阪神・淡路大震災関係書籍は、神戸市立中央図書館によれば、2,222点(1999年末現在)がある。本書はその1冊である。

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ノンフィクション100選★文壇|野坂昭如

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2002

二十五日、毎日新聞から電話があり、「知ってますか」「えっ?」「三島が自衛隊になぐりこみました」「自衛隊に?」「とにかくTV観て下さい」TVをつけると、バルコニーでさけぶ三島の姿、すぐ丸谷に電話をかけた。「はーい、丸谷です」「野坂ですけど」「あ、君かァ」まだ知らない、TV観て下さい」「TV? 君、歌でも唄ってるのかい?」「三島さんが、自衛隊になぐりこんだそうで、今、TVでやってます」「後で電話する」。以後、TVの前に座りこみ、いっさい電話に出なかった。〔…〕

十二月半ば、丸谷から葉書が来て、狂歌、「年の瀬を横に斜めにタテの会、何かにつけて心せわしき」丸谷も三島の蟹嫌いは知っていたらしい。「あれ以後、筆が進んで――」と執筆中の、長篇第三作に少し触れていた。大晦日、丸谷は、「たった一人の反乱」を書き上げ、講談社担当編集者に渡したという。

★文壇|野坂昭如|文藝春秋|ISBN9784163584201200204

 野坂昭如『文壇』(2002)は、1961年の色川武大の中央公論新人賞受賞パーティから始まり、上掲の19701125日の三島事件で終わる。

この間を年譜ふうにまとめると……。1960年、30歳、野末珍平とワセダ中退・落第の名で漫才。1961年、週刊誌のコラムなど雑文業を開始。1962年、「プレイボーイ入門」がベストセラー。黒めがねの元祖プレイボーイとして「女は人類でない」と発言。1963年、「エロ事師たち」で小説家デビュー。1968年、37歳、「アメリカひじき・火垂るの墓」で直木賞を受賞し、焼跡闇市派を名のる。

本書は、その1960年代、流行作家や名物編集者たちが夜な夜な酒に浸り、文学論を戦わせる銀座や新宿の薄暗がりの文壇酒場が登場する。純文学と娯楽小説との差別はあったが、しかし活字メディアが圧倒的に一番だった時代を、おそるべき記憶力で語る私的ドキュメンタリーである。

 著者には本書より23年前に書かれた『新宿海溝』(1979)という同工異曲の作品がある。こちらも主人公の庄助以外はみな実名。作家、編集者など人名索引には165名、バーなど店名索引は101店が掲載されている。本書『文壇』はそれをはるかに越える人名、店名がほとばしりでて、1960年代の文壇風俗が活写される。ノンフィクション100選に選んだ所以である。

著者はその後、「黒の舟歌」など歌手として、また53歳で参議院選に当選するなど、常にその過激ともいえる行動で世間を挑発してきた。

同時代のライバル作家だった2歳下の五木寛之は、70歳を越えても『百寺巡礼』(20032005)『林住期』(2007)『親鸞』(2009)などベストセラーを連発している。

これに対し、野坂昭如は2003年に72歳で脳梗塞に倒れたものの、妻・野坂暘子『リハビリ・ダンディ──野坂昭如と私 介護の二千日』(2009)によれば、ことばを発することができない“76歳のヨボヨボじいさん”が荒木経惟『野荒れ ノアーレ』(2008)という写真集にモデルとして登場したり、ことばを取り戻すために『ひとり連句春秋』(2009)を始めたり、“生涯戦闘”の野坂らしい生き方をしている。

本書『文壇』で直木賞受賞の「火垂るの墓」について、「いかにも自分の体験に基づいているかの如く文字を連ね、大嘘である、自己弁護とまで考えないが、卑しい心根に基づくフィクション、どう嘘をついてもかまわない特権はあるのかもしれないが、この嘘はいかがわしい、小説家にさえ、これは許されないような気がする」と例によって自虐的に書いているが……。

しかしわたしは後世、野坂昭如という作家は“生涯戦闘”の無頼派としてではなく、戦争の語り部、『戦争童話集』(1975)の作家、絵本やアニメの原作者として名前を残す気がしてならない。

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ノンフィクション100選★世界の性革命紀行|上前淳一郎

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すでに性革命を通りすぎたか、いまそのさなかにある国の人びとは、なるほど子供のうちからセックスについて多くを知り、あるいはそれを自由に見たり行なったりしているだろう。

しかしそれを引き換えにその人びとは、性にまつわる多くの心理のひだをめくり捨ててしまった。〔…〕

性革命とはどの国でも、性におおいかけられていた神秘のベールをひっべがすことだった。

だがその結果、人びとはほんとに幸福になっただろうか。ペニスのサイズを測り、クリトリスの形状を調べ、持続時間を質問状に盛り込んで、いったいなにが得られただろう。

性とは統計でも知識でもなく、心理の発現である。だから、よく知っているものに愉楽より大きい保証はまったくない。

むしろ、子供のころから男と女が交合することになんの神秘も見出さずに育ってしまった人たちこそ、心理的に貧しい性生活しか持てなくなる危険があるというべきだろう。

★世界の性革命紀行|上前淳一郎|講談社|19802

 ここにノンフィクション作家の3冊の本がある。70年代末から80年代初めに書かれた“セックス革命”に関するものである。今になってはなつかしい。

エイズは、1981年にアメリカのロサンゼルスで最初の症例報告があった。日本では1985年である。すなわちエイズが世界に蔓延する以前に書かれた本である。

1980年に最高裁は、月刊誌「面白半分」に掲載された永井荷風の作とされる戯作『四畳半襖の下張』(19727月号)を、刑法175条のわいせつ文書販売の罪に当たるとした。そしてビニ本ブームは80年代、週刊誌にヘアヌードが解禁されたのは90年代に入ってからのことである。

立花隆『アメリカ性革命報告』197910月:「諸君!」19782月~11

上前淳一郎『世界の性革命紀行』19802月:「週刊現代」19791月~10

田原総一朗『セックス・ウォーズ 飽食時代の性』198411月:「週刊文春」19843月~8

 上前淳一郎といえば、初期は多彩なテーマをあつかうノンフィクション作家であった。本書『世界の性革命紀行』(1980)もその一つ。

「性革命を通りすぎた国―デンマーク」では、コペンハーゲンの市庁舎前にあるホルンを吹くバイキングの像にまつわるジョークから始まる。「あの像のを処女が通るとホルンが鳴る、といういい伝えがあるんです。〔…〕でもこの何十年か、ホルンを聞いたひとはいません」。1971年から義務化された性教育、というよりは避妊教育についての報告。

 「性革命の渦中にある国―西ドイツ」では、1975年に解禁されたポルノとセックスショップについての報告。「性革命いまだ成らずーフランス」では、「クイッド」という権威ある年鑑に載っているパリの娼婦地図から売春に関する報告。

 「性革命の劣等生―イタリア」では、ポンペイ遺跡の大胆な“性画”とその後のカトリックの影響を報告。ほかに「性革命のパイオニアたちーアメリカ」「性的冒険家の憂鬱―イギリス」という7つの国のセックス事情がソフトな語り口でレポートされている

 

 それに比して立花隆『アメリカ性革命報告』(1979)は強烈である。アメリカの性革命は人類史がいまだに体験したことのない領域に達していると、「人が千人いれば性的傾向は千ありうる」とか「ワギナ指向かクリトリス指向か」「ホモの世界の驚くべき広がり」とかの見出しが躍る。ほとんどが氾濫する男性雑誌を情報源にしていることが、ノンフィクションとしては不満である。性革命の進行は「実は誰にもまだよくわかっていない社会・文化的大変動が現に進行しつつあるのだという大変な問題に気がつく」と結論づけているのだが。

 田原総一朗『セックス・ウォーズ 飽食時代の性』(1984)は、“性行動”について10代から76歳の老人まで約200人に面接取材し、20のケースを具体的に紹介したレポートである。「妻たちが、すさまじい勢いで被害者から加害者に変貌しつつある」とある興信所の所長が指摘したとある。「困惑し佇む男、とくに中高年。われらの自立こそが緊要事である」と結んでいる。

 今や立花隆は“知の巨人”と称される評論家として出版界に君臨し、田原総一朗はテレビ番組で権力者を挑発し言質を取るやり方で司会者ではなく支配者となり、そして上前淳一郎はというと週刊文春のコラム、ストレス解消に効く『読むクスリ』(19842002、全27)で読者を永年楽しませてきたが、この“ちょっといい話”取材で燃え尽きたのか、まったくメディアに登場しなくなった。

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ノンフィクション100選★宿命―「よど号」亡命者たちの秘密工作 |高沢皓司

1998

失踪したⅠさんから「北朝鮮にいる」という手紙が札幌市の実家に届いたのは、19889月のことである。日本を出てから8年以上の歳月が過ぎていた。

《家族の皆様方、無事に居られるでしょうか。長い間、心配を掛けて済みません。私とMさん(京都外大大学院生)は、元気です。途中で合流した有本恵子君(神戸市出身)供々、三人で助け合って平壌市で暮らして居ります。

事情あって、欧州に居た私達は、こうして北朝鮮にて長期滞在するようになりました。〔…〕取り敢へず、最低、我々の生存の無事を伝へたく、この手紙をかの国の人に託した次第です》〔…〕

紙の裏面には、ちょうど折り畳んでいちばん上にくる部分に、次のようなメッセージが記されている。

please send this letter to Japanour address is in this letter)”

どうか、この手紙を日本に送り届けて下さい。わたしたちの住所は、この手紙の中にあります

★宿命―「よど号」亡命者たちの秘密工作 |高沢皓司 |新潮社|19988

ロンドンに語学留学していた神戸外大生の有本恵子さんが、アテネからの手紙を最後に消息を絶ったのは、19838月である。そして5年後の19889月、神戸の有本さん宅に、北海道の石岡亨さんのお母さんという見知らぬ人から電話がある。「おたくのお嬢さんは、息子と一緒に北朝鮮の平壌にいるみたいなんです」。

上掲の手紙が、19805月にスペインで消息を絶っていた石岡亨の自宅に届くのである。ポーランドからのエアメールで、切手も消印もポーランドのものだった。(なお、札幌に手紙が届いた2ヵ月後の198811月に、有本恵子さん、石岡亨さんは招待所で就寝中、暖房用の石炭ガス中毒で子どもを含め死亡したと、後に北朝鮮が発表した)

「恵子にも責任があると思っています」という有本恵子さんの両親。拉致被害者と認定されるのはピョンヤンにいると判明してから22年後20033月である。一市民にとって、政府、外務省、警察庁、国会議員というのは、いかに厚い壁であるかは、有本嘉代子『恵子は必ず生きています』(2004)に詳しい。そして政治家、メディアなどを実名で告発したのが山際澄夫『拉致の海流――個人も国も売った政治とメディア』(2003)である。NHK報道局『よど号と拉致』(2004)は、番組の制作にあたり、よど号の妻たちを追い、その周辺から証言を得るための取材プロセスを明らかにしたドキュメントである。

恵子さん拉致の模様は、犯人の一人で、よど号グループ柴田泰弘の妻である八尾恵の『謝罪します』(2002)に詳しい。なお『謝罪します』は、そのタイトルのようないい加減な本ではない。ピョンヤン郊外の「日本人革命村」における金正日指導の下にあるよど号グループの活動やメンバーの私生活が臨場感あふれる語り口で綴られる貴重な証言本である。

 さて、よど号ハイジャック事件があったのは、19703月、もう40年になる。

赤軍派9名は、福岡、韓国金浦空港を経由して北朝鮮美林飛行場へ。亡命し、消息を絶った。メディアはその後よど号機長や身代わりとなった代議士の私生活を追っかけたが、月刊「創」だけが断続的に田宮高麿などよど号グループの近況を掲載していたように思う。執筆は本書の著者高沢皓司だった。

高沢皓司は、学生運動家出身であり、田宮高麿の友人としてよど号グループを支援する立場にいた人で、のちに本書で北朝鮮に残るメンバーから“裏切り者”との非難を受ける。著者は“巡礼の旅”と称しているが、本書『宿命―「よど号」亡命者たちの秘密工作』(1998)の取材は北京~延吉~長春~モスクワ~ロンドン~コペンハーゲン~マドリッド~パリ~ウィーン~ベオグラード~サラエボ~スプリット~ザグレブ~ブカレスト~バンコクに及ぶ。よど号グループの国際謀略秘密工作は、北朝鮮、日本以外にこれだけの地にかかわっており、著者による謎解きはスリリングである。

本書にこういう一節がある。

――「よど号」グループ(自主革命党)がこれまでに語りつづけたいくつもの虚構の物語は、すでに破綻した。

これまでの例でも、結婚を否定しつづけたこと、〔…〕ヨーロッパ「拉致」工作の偽装、子どもたちの「人道」を理由にした帰国問題の訴えと実際の不履行、いずれもすべて彼らの語ってきたことは虚構の政治的言辞にすぎなかったことが明らかになっている。

しかし、彼らはこうした《嘘》を語ることそのものが政治的な活動だと信じ、「革命」のためだと信じ、正しいことをやっていると信じ、いまも信じつづける。

これでは、彼らの語る「革命」もまた《嘘》で塗り固められた「革命」に過ぎない、ということにしかならないだろう。

「よど号」のハイジャック事件が起きてから、すでに30年近い歳月が流れた。異貌の思想の徒となった彼らの《嘘》が、ひどく虚しく、ひどく悲しい。

『宿命―「よど号」亡命者たちの秘密工作』は、よど号グループのその後の人生、北朝鮮という国、拉致の実態を描いたオンリーワンかつベストワンの書である。

文庫版に、新潮社『宿命』担当編集班名でこう記されている。

――「田宮が死ぬことがなければ、僕はこの本を書き出すことはしなかった」

高沢暗司氏は、いま、そう言う。『宿命』はかつての同志と袂を分かった一ジャーナリストの、血のにじむような内部告発の書であり、盟友田宮高麿への悲痛な鎮魂歌なのである。

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ノンフィクション100選★新東洋事情|深田祐介

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1988

中国の観光地が「活性化」しているのは、中国の開放政策のせいじゃない、日本の円高、そして日本人の一種身勝手な「中国幻想」のせいだ、という説もあります。〔…〕

「中国は、礼の文化といってな、礼に非ざれば動くことなかれ、と孔子さまもいってるんだ、中国人が人をだます筈がない」

大抵は中国留学体験の持主である添乗員たちは、「いいえ、文革によって礼の文化は亡びたんです」と反論したいのだが、そんなことをいえば、怒鳴りまくられるのがおちだとわかっているから黙ってしまう。〔…〕

中国へ旅行する、中高年齢層の日本人男性には、「中国大好き爺さん」が多く、添乗員は彼らの扱いにはほとほと疲れてしまうらしい。

「だから中国、やはり中国、さすが中国」というのが「中国大好き爺さん」を形容する場合の合言葉のようになっているのだそうです。

★新東洋事情|深田祐介|文藝春秋|19884

 深田祐介が話し言葉のような文体で書いた『新西洋事情』(1975)に、当時たちまち魅了された。海外で勤務する企業の社員たちの“あぶら汗の一滴、屈折する感情のひだ”を描いたノンフィクションである。その後も深田祐介のビジネスマンのカルチャーショックもののエッセイや小説をずいぶん読んだ。

 

 本書『新東洋事情』(1988)は、「アジアを語ることは、日本の国内問題を語ること」という状況になった1980年代の韓国、台湾、タイ、中国、ブルネイ、フィリピンなどアジア各国に進出した日本企業の現地におけるカルチャーショックと各国の発展ぶりをリポートしたものである。「タブーを書かなければ、アジアを書く意味がないようにおもわれ、そのタブーを書けば、どういう波紋が生ずるか、予断を許さず、気持がすくみがちでした」とあとがきにある。

 その後、シリーズとして書き継がれ、マレーシア、ベトナム、インド、シンガポール、ミャンマーなども描かれる。

ここでは上掲の『新西洋事情』(1975)に続いて、中国の動きを見てみる。

『新・新東洋事情』(1990)では、天安門事件にゆれる中国、南部沿岸地域を中心に急成長をとげる「赤い資本主義国・中国」の実態が描かれる。「天安門事件の衝撃と挫折感から脱しきれず、そして『中国とはなんだ』という、永遠の問いかけに、重く胸を閉ざされつつ、(北京へ)帰任していった(日本企業の)男たちも少なくないのである」。

『最新東洋事情』(1995)では、市場経済が進む中国など日本企業の盛衰をも左右するアジアは日本の救世主か、ライバルかが報告される。

「中国では商売を始めようとすると『3回盗まれる』といわれます。まず担当者に莫大なリベートを取られる。次に製品のノウハウを盗まれ、『もうノウハウはいただいたから、あんたのところは日本へ帰ってくれ』みたいな脅しをかけられる。3番目には、社員に製品自体を盗まれる、というわけです」。

『激震東洋事情』(1998)では、不気味な軍事大国・中国がアジアに及ぼす、さまざまな悪影響を分析し、日本と台湾の友好関係の再構築を提言する。「日中対立について今日に至るまで、江沢民主席をはじめ、中国指導部が繰り返しそれを持ちだすものだから、なんとなくアジアでは反日感情が強く、日本は嫌われているということになっている」。

さらに『中国に媚びてはいけない――東洋事情20002001(2001)では、汚職や偽造が絶えない中国の無軌道、そして「12億人の巨大市場・中国」幻想に酔い、媚び続ける日本の弱腰を糾弾する。「収賄した役人は皆金を持ってマカオに行って、この金はマカオのバクチで儲けた、という証明書を書いて貰って帰ってくる。今やマカオに空港ができて、中国全土から収賄の金を持った役人が金の“洗濯”に駆けつけていますよ」。

著者はタブー何のその“嫌中国、親台湾”が年を追って加速、親台湾のプロパガンダと化し、嫌中国暴走の様相を呈する。中国の近未来予測は(現時点からはすでに過去だが)まったく当っていない。かつて『新西洋事情』で描いた“あぶら汗の一滴、屈折する感情のひだ”の優雅さはどこにも見られない。

 わたしは、返還前の香港を見ておこうと1990年に、浦東新区の本格的開発がはじまった上海へ1992年に、シルクロード入門編として敦煌・西安へ1999年に、台湾を肌で感じておこうと2005年に、それぞれ行った。が、わたしはチベット問題に興味をもつようになってからの中国嫌いであり、なんとなく“二流”のイメージの台湾がいまも好きである。

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ノンフィクション100選★コリアン世界の旅|野村進

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韓国人とベトナム人との反目は、元を辿ればすべてベトナム戦争時の両者の不幸な出会いに根ざしている。

戦争中の住民虐殺や、混血児を置き去りにした行為の延長線上に、ベトナム人の韓国人観はある。同様に、戦場で敵として見せつけられたベトナム人の権謀術策や、戦楓に翻弄されつづけてきたベトナム庶民の生きるがための「嘘」や「ずるがしこさ」の上に、韓国人のベトナム人観は立脚している。〔…〕

韓国人は、南北統一を成し遂げたベトナム人を羨望しつつ蔑み、

ベトナム人のほうも、いまや“先進国”の仲間入りをしようかという韓国から来たリッチな韓国人たちを羨望しつつ嫌う。

こうした感情のもつれをそのままに、韓国人とベトナム人とは一気に経済のパートナーとして(おそらく今後はライバルとして)再び相まみえることになった。

★コリアン世界の旅|野村進|講談社|ISBN9784062080118199612

野村進『コリアン世界の旅』(1996)は、日本に住む韓国・朝鮮系の人びとと日本人との間の「見えない壁」をさぐり、“在日”の直面する問題を掘り下げたノンフィクションである。

 第1部で、“新しいタイプの韓国系日本人”歌手にしきのあきらの生き方、在日経営者が多い焼肉店、パチンコ店をめぐる問題など、日本の地における「コリアンとは誰か」を追う。

 第2部では、英語もナイフ、フォークも必要のないロサンゼルスのコリアンタウン、のべ31万人の韓国兵士を送り込んだベトナム戦争の地にもどってきたコリアンなど、海外の韓国人を描く。

 第3部は、大震災のあとの神戸・長田に生きる人びとなどをとりあげ、「新しい方向」を示唆する。

 

わたしは、その第3部で取り上げられている歌手・新井英一を、じつはまったく知らなかった。「清河(チョンハー)への道」は、最後まで歌うと小一時間かかり、「一曲ライブ」といって、この歌だけを歌ってステージが終わることもあるそうだ。ぜひ聴いてみたい。以下、本文より引用……。

……父の故郷の土を踏んで自由に生きる決心をした「俺」は、再び釜山港から船に乗り、家族が待っている、自分が「生まれて育てられた国」日本へと帰っていく。

旅からわが家に帰り着き迎えてくれる家族見て

みんなの笑顔が嬉しくて家族が俺の国だよと

妻と子供を抱き寄せた

そして、最終48番――。

俺のルーツは大陸で朝鮮半島と言う所

俺の親父はその昔海を渡って来たんだと

ひ孫の代まで語りたい

アリアリランスリスリラン

アラリヨアリラン峠を俺は行く

あとがきで日本のマスメディアは「通名(日本名)を名乗っていたり、日本国籍を取っていたりするがため、私たちから『見えなく』されている大多数の韓国・朝鮮系の人たちの日常の姿」がすっぽり抜け落ちていると批判している。

 著者には『海の果ての祖国――南の島に「楽園」を求めた日本人』(1987)をのち加筆し改題した『日本領サイパン島の一万日』(2005)という、日本統治領サイパンの30年を、二つの家族の歴史を通して描いた優れたノンフィクションがある。

 

 大学教師でもあり、そのせいか学生に向けて書いたような“から目線”の筆致が気になる著作もある。たとえば、若者に指南するスタンスの『アジアの歩き方』(2001)、ノンフィクションの書き方ハウツー本『調べる技術・書く技術』(2008)など。

 

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ノンフィクション100選★アフリカにょろり旅|青山潤

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2007

私たちの心は、この時すでに擦り切れ始めていたのかもしれない。

日本を出る時には、ラビアータを見たいという思いと、困難に立ち向かう機会を得た喜びに満ちあふれていた。

冒険への、非日常への好奇心ではち切れんばかりの心には、道行く人々の衣装の色や、どこまでも続く茶色の大地、風に向かって立つ象の姿や水面を滑るユーモラスなカバの動き、目にするすべてが生き生きと感動的に映った。

しかし、二カ月近くアフリカを放浪した今、それらはすでに当たり前の風景となっていた。残念ながら、私たちは「日常となった非日常」に、いちいち感動できる感性を持ち合わせていなかった。〔…〕

「ウナギを捕ること」に対するモチベーションを失った私たちが、ここで粘っていたのは、ある種の惰性であったかもしれない。

★アフリカにょろり旅|青山潤|講談社|ISBN9784062138680 20072

「エンタメ・ノンフ」という造語があるらしい。エンターテインメント的なノンフィクションを“オンリーワンの辺境冒険作家”を自称する高野秀行が命名したもので、宮田珠己などと「エンタメノンフ文芸部」を結成したという。その面々がたぶんマッサオになり、たぶんひれ伏すのが青山潤『アフリカにょろり旅』(2007)である。

著者の青山潤は、東京大学海洋研究所でウナギの研究に携わる研究者である。ウナギは、海で産卵・孵化を行い、淡水にさかのぼってくるのだが、その生態は意外と知られていない。ニホンウナギの産卵場所がグアム島近くのマリアナ海嶺のスルガ海山付近であることが突きとめられたのは、わずか前2006年のことである。その発見が著者の所属する研究所行動生態研究室・塚本勝巳教授の「ウナギグループ」なのである。

ある日、塚本教授から著者に、こんな話を持ちかけられる。

「青ちゃん、ウナギは、世界に、何種類いると思う? 18種類だよ。意外と、少ないと思わないか。僕はね、全種類のウナギを机の上に並べてみたいんだよ。すべてのウナギの遺伝子を調べたら、まだ解明できないこともわかるしね」

後輩の渡辺俊研究員と組み、50カ国以上の国で、17種類のウナギを集める。残すはアフリカに生息する「アンギラ・ラビアータ」という熱帯ウナギだけ。宿や食事、移動費用を切り詰めた貧乏調査旅行である。マラウイ共和国、モザンビーク、ジンバブエ。地雷が埋まっているモザンビークは気温52度。毛穴から入り込んで肝臓や脳を冒す「住血吸虫」が潜んでいる湖。ホテルのベッドには小さな赤いアリがウジャウジャ。大きなマンゴを120個という食事。身も心も蝕まれるウナギを探す苛酷な旅。読者にとっては爆笑の「エンタメ・ノンフ」ですね。

 ウナギといえば、中国産や台湾産を四万十や一色産と偽装する事件が多発した。以前読んだ深田祐介『新・新東洋事情』(1990)によれば、当時、中国で養殖したウナギを裂く技術が中国にはなく、いったん香港に送り、そこでベテランの韓国人女性たちが猛スピードで裂いてゆき、香港の工場で蒲焼にして、真空パックに詰めて、日本に輸出していたという。

吾妻博勝『新宿歌舞伎町 新・マフィアの棲む街』(2006)にも、ウナギの話が出てくる。

稚魚のシラスウナギは数センチ前後で無色透明。南の深海から海流に乗って日本沿岸にたどり着く。それが河川、湖沼で水棲昆虫や雑魚を餌に成魚になる。

しかし、これから河川を遡上しょうとするときに、全国各所で網が待ち構えている。この「生きた海の宝」のシラスウナギを手に入れようとタモ網を持って港の岸壁や河口岸に駆けつける人たち。それをヤクザが買い集めに回る。

シラスがなぜ、ヤクザの資金源になるのか。シラスはあくまでも自然の恵みであり、養殖稚魚のように安定供給ができない生き物だからである。シラスの1キロは数千匹。養鰻業者の仕入れ価格は年ごとに大きく変わり、豊漁であれば1キロ10万円を切り、不漁であれば100万円を突破する。

シラスウナギは成田、関西空港から香港経由で密輸される。シラスを入れた厚手のビニール袋をリュックサック、トランクなどで運ぶ。「シャブなら罪が重いから気軽にできないが、シラスは捕まっても知れたものだ」という。シラスは安い人件費で育てられ、それが200グラム前後の大きさになると、加工品、あるいは活ウナギで日本に逆流してくる。

 ニホンウナギは、グアム島近くで産卵し、日本へ、そして香港、中国を経て、再び日本へと、「にょろり旅」を続けるのだ。一句見つけました。

上海語で鰻を捌くをんなかな   田中英子

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ノンフィクション100選★キャパになれなかったカメラマン|平敷安常

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2008

私はテリーとサムの遺体の区別さえできないほど動揺、混乱していた。

しかも確認しにくい理由を、自分の溢れ出る涙のせいにした。傷んだ美しくない遺体を、美しい遺体と思うように自分に言い聞かせ、いつの間にかそう思い込み、テリーの友人たちにもそう書いて報告していたようだ。〔…〕

しばらくしてテリーの母親が、テリーの弟嫁のポーリーと、ウィニイを連れてサイゴンの私を訪ねて来た。〔…〕

そのときも私は母親の願いを聞き入れなかった。危険な最前線のクアン・チの現場に、どうして連れて行けようか。テリーが過ごしたり、楽しんだり、生活したりしたサイゴンの街で、彼にゆかりがある場所を数日間案内した。〔…〕

テリーの話はつきない。いつかテリーの物語を書くとテリーの母親に約束してから35年が過ぎた。

私のこのカメラマンとしての回顧録は、その約束から始まったのである。

目標だったテリーにはいまだに追いついていない。追いつけるはずがない。そして、追いつく必要もない。

★キャパになれなかったカメラマン――ベトナム戦争の語り部たち|平敷安常|講談社|200809

 旅仲間の定年を祝う“卒業旅行”が4年連続であり、2008年はホーチミン市へ行った。ベトナム戦争のことを、すこしばかり記憶を呼び起こそうと、岡村昭彦『南ベトナム戦争従軍記』(1965)開高健『ベトナム戦記』(1965)、大森実監修『泥と炎のインドシナ――毎日新聞特派員団の現地報告』(1965)を探したが、手に入れられなかった。

この3冊は特派員もの南ベトナム・ルポルタージュとして同時にベストセラーとなり、日本の社会をベトナム問題で沸き立たせるきっかけとなった。

わが20代の頃であり、とくに岡村昭彦『南ベトナム戦争従軍記』は若干の揶揄をふくめて“かっこいい”という印象が残っている。

 いま玉木明『「将軍」と呼ばれた男――戦争報道写真家・岡村昭彦の生涯』(1999)から、ベトコン兵士と疑われて捕らえられた二人の男を前にして、岡村昭彦がアメリカ軍の大尉やベトナム政府軍の少尉とやり合う場面を、孫引きしてみると……。

――ヴェトナムの少尉は、二人を地面に座らせて、カービン銃をかまえた。私はいそいで二人の男のうしろにまわり、カメラをかまえた。

「撃ってみろ! おれはジャーナリストだ! ヴェトナムの政府軍が、武器を持たない人間を殺したと、世界中にニュースを送ってやる! 私は絶叫した。それはほんの短い時間であったが、私には長い長い時間のように思われた。少尉のカービンの銃口が、静かに空に向けられた。「殺すつもりはなかったんだ。司令部まで連れていこう!」とぼっそり彼はいった。

 結局、事前に読んだのは、ベトナム戦争現地報告などのエッセイ集、開高健『饒舌の思想』(1966)、街道をゆく“ベトナム版”の司馬遼太郎『人間の集団いついて――ベトナムから考える』(1973)、元サイゴン特派員の近藤紘一『サイゴンから来た妻と娘』(1978)であった。

 もちろん旅の本も読んだ。この国を旅すると心身ともにくたくたとなるという。あの米国を叩きのめした国、ひと筋縄でいく国ではない、と。どうも貧乏旅行向きの国ではなさそうだ。

そこで私たちは、ドンコイ通りにある最高級のシェラトン・サイゴン・ホテル&タワーズに泊まり、最上階のシグネチャーで夜景を見ながらフランス料理を食べ、昼間は市街地を歩き、土産物屋や市場を冷やかし、とにかく何にもしないでだらだらという旅を選んだ。

 戦争がらみでは戦争証跡博物館のみ訪れた。庭に戦闘機などが展示され、見学の子どもたちであふれていた。戦場で活躍した沢田教一や市ノ瀬泰三の写真も展示されていた。

 いい旅だった。残念だったのは火焔樹の咲く時期ではなかったことくらい。それはこの本を読むまでだった。読み終わって、こんな旅でよかったのか?

 帰国後すぐ本書、平敷安常『キャパになれなかったカメラマン――ベトナム戦争の語り部たち(上・下)(2008)に出会うことになる。これは1965年の北爆、開戦から1975年のサイゴン陥落、終戦まで、アメリカABCテレビのカメラマンとして報道に従事した著者の回顧録である。

 こんな細部にわたる生々しいドキュメントがまさか30年後に登場するとは驚きである。“戦友”だったテレビや写真のカメラマンを「舞踏会の手帖」のように訪ね、また“戦死”した仲間のエピソードをたんねんに語る。盟友テリー・クー、沢田教一、一ノ瀬泰造。

上掲では省略しているが、テリーの母親は、テリーの魂がまだ成仏できずにベトナムでさまよっているはずだから、彼とサムが死んだクアン・チの現場まで行き、その魂を慰めたいといって著者を訪ねてきたのだ。

「目標だったテリーにはいまだに追いついていない。追いつけるはずがない。そして、追いつく必要もない」

 なんと感動的な友情のフレーズだろう。

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ノンフィクション100選★マニラ行き――男たちの片道切符|浜なつ子

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1997_2

「はまる」という言葉がある。「はまる」の使用頻度が最も高いのは、フィリピン在住の日本人の間ではないか、と私は思っている。

「あの人はまり組だから」とか、「女じゃなくてフィリピンそのものにはまってしまって……」等々、あまり品のよろしくない会話の中で頻繁に使われる。

だからこそ「はまる」は、流れ者の在比日本人たちの状況をきわめて的確なニュアンスで言い表わすことができる言葉なのである。〔…〕

「はまる」という辞書の項目に、私はこんな意味を秘かに加えたいと思う。

はまる【填る・嵌る】 ⑦依存的な日本人男性が、生命力の逞しいフィリピン女性に帰依して魂を抜かれること。

★マニラ行き――男たちの片道切符|浜なつ子|太田出版|199709

 フィリピンといえば、人材派遣大国、出稼ぎの国というイメージである。じつはわが家の近くの国道沿いに「マニラガール」という店がある。700PMオープン、セット料金¥3500――という看板がある。

最盛期の2000年前後には、年間8万人のフィリピーナが国内各地のフィリピンパブで働いていたという。興行ビザ撤廃により現在はほとんどが閉店した。

フィリピンから来る人がいれば、フィリピンに行く人もいる。

浜なつ子のエッセイ集『アジア的生活』(2000)によれば、「日本のフィリピンクラブでフィリピーナにはまって、彼女を追いかけてマニラに入ったとたん、フィリピンという摩訶不思議な世界にはまって抜けられなくなり、痛い目にあってもなお、この国とこの国の人々を愛してやまない日本の男たちのこと」を「はまり組」という。マニラに約1万人が棲みついているという。

 本書『マニラ行き――男たちの片道切符』(1997)は、はまり組をはじめ、フィリピンと抜き差しならぬ関係を持った6人の日本人のドキュメントである。

日本人とはほとんど接触せずにフィリピンでひとり自動車関連の仕事をしている人、35歳。ペドファイル(小児性愛者)の容疑でマニラの拘置所に収監されている人、自称医師、44歳。大麻所持で死刑を言い渡されてモンテンルパの刑務所にいる死刑囚、40歳。マニラで浮浪者生活をしている元証券マン、41歳。フィリピンパブとフィリピーナとフィリピンそのものにはまって2億円を使った飲食店主、48歳。そしてフィリピンと関わって三十余年日本人の起こすトラブルを処理してきた人、60歳。

 著者には、マニラやフィリピンやアジアとタイトルにある著書が10冊ほどある。しかしこの国の民族も政治も経済も産業も地理も紛争もほとんど語られることはない。著者の関心は、そこに棲みつく日本の男たちである。フィリピンにはまってしまう男たちは、酔狂や逃避ではなく「路地返り」であるという。都会の隅に育ち、路地の子どもたちだった彼らが、人間くさい居場所を求めた結果がマニラなのだという。

下川裕治『日本を降りる若者たち』(2007)は、その「路地返り」よりもかなり年下の「外こもり」の若者たちを描いている。短期のアルバイトで稼ぎ、一定の金ができるとバンコクなど海外に棲みつき、「引きこもり」のように何もしないで安宿で暮らしている若者たち、「金もなければ、先も見えない。でも、ここでなら生きていける」。バンコクに日本の若者だけで約1万人いるという。

この「外こもり」という言葉は浜なつ子がつくった。『アジア的生活』(2000)のなかで、バンコクのバックパッカーの“聖地”カオサンでMPツアーという旅行社につぎつぎ現れる若者を見て、「あっ、この人たち“そとこもり”だ」と思ったとある。「人間関係のつくり方においてはものすごく無機質で、不安を抱え、逃げているように」に感じ、そこに「引きこもり」を見たという。そういえば下川裕治は「外こもり」は「僕の知人にマニラを中心に本を書いている浜なつ子さん」が口にした言葉だと書いている。

著者は「はまり組」にも「外こもり」にもいっさい非難も批判もしない。むしろ視線はやさしいといえるだろう。あるインタビューでこう話している。

「何もいまの社会規範に従わなくてもいいのではないか、向こうの社会がありそこで生きてもいいではないか、と思うのです。作家は白い原稿用紙の中で生き、年寄りだって恋に生き、ある男はフィリピーナに生きる、それはそれでいいのではないか、と思うのです。夢だから。人はどう生きようと、生き方は彼や彼女自身のものですから」。

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ノンフィクション100選★「話の特集」と仲間たち|矢崎泰久

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2005

「新しいプランは? 誰かいい執筆者は?」

現れると二言目に和田誠が聞く。私がボソボソと伝えると、がっかりした表情をして、首を横に振る。ほとんどの人選が彼には気に入らないのである。〔…〕

「もっと、新しい人いないの。今活躍している人より、これから世に出る人を探そうよ」

和田誠の言う通りではあったが、それが難しい。〔…〕

表紙を担当して貰うことになった横尾忠別もちょくちょく編集部に顔を見せるようになった。

和田誠の紹介で谷川俊太郎、寺山修司が時々編集会議に参加してくれるようになった。〔…〕

創刊への企画ブレーンは一気に増えた。と、同時に企画ばかりが先行して、どんな雑誌になるのか、かえってわからなくなった。私は創刊を間近にして、焦っていた。

★「話の特集」と仲間たち|矢崎泰久|新潮社|20051 ISBN9784104736010

memo

 矢崎泰久が編集し和田誠がアートディレクションを行った『話の特集』は、1965年に創刊されたサブカル・ミニコミ誌の草分け。30年後の1995年に休刊したが、本書は創刊前後の5年間のエピソードを綴ったもの。

 メジャーになる前の新進気鋭の作家、写真家、イラストレーターなどがつぎつぎ登場した。わたしは“中綴じ”の雑誌が好きで、1970年前後から毎月買った。寺山修司・宇野亜喜良「絵本千夜一夜」、植草甚一「緑色ズックカバーのノートから」、深沢七郎「人間滅亡的人生案内」、永六輔「芸人その世界」などを愛読した。

 1970年代は雑誌の時代、とりわけサブカル・ミニコミ誌の時代だった。

梶山季之責任編集の『噂』(19711974)は「活字にならなかったお話の雑誌」というキャッチフレーズだったが、小説が載っていない「オール読物」「小説新潮」のようだった。その全貌は「梶山季之と月刊『噂』」(2007)としてまとめられている。

佐藤嘉尚の『面白半分』(19711980)は、「面白くてタメにならない雑誌」は吉行淳之介を初代編集長とし、半年ごとに編集長が替わった。野坂昭如編集長時代に「四畳半襖の下張」を全文掲載し裁判ざたとなった。五木寛之編集長は「日本腰巻文学大賞」を創設した。佐藤嘉尚「『面白半分』の作家たち」(2003)がある。

萩原朔美・高橋章子の「投稿雑誌」『ビックリハウス』(19751985)、天野祐吉の『広告批評』19792009)、岡留安則の「人はこれをスキャンダル雑誌という」『噂の真相』(19792004)。総会屋系の新左翼雑誌『現代の眼』『月刊ペン』『新評』『流動』『マスコミひょぅろん』。

このほか、まぼろしの雑誌といってもいい佐藤正晃の『TOWN(タウン)』、植草甚一の「ワンダーランド」(1973)があった。

現在も続いているのは、篠田博之の「メディア批評」『創』(1971~)、椎名誠・目黒孝二らが創刊の「書評とブックガイド」の『本の雑誌』(1976)のみである

『話の特集』は、これらミニコミ誌に影響を与えた先駆的雑誌である。和田誠、黒田征太郎のセンスがすみずみまで行きわたり、イラストレーションが市民権を得るのに貢献した。休刊10年後の2005年に40周年記念号という同窓会的復刊号がでたが、あれは余分だった。また本書は回顧録であるが、資料としての正確性にはやや疑問がある。

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