11/癒しの句・その他の詩歌

2020.12.21

11/癒しの句・その他の詩歌◆T版2020年…………◎長嶋有・俳句は入門できる◎今野敏・清明 隠蔽捜査8

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11/癒しの句・その他の詩歌

長嶋有★俳句は入門できる 2019.12/朝日新聞出版

 

  今の俳句の世界に欠けているものは、「優れた俳句」でも「若手の存在」でもない。

「優れた俳句を紹介する存在」や「批評」でもない。

 欠けているのは「逸話」だ。

 面白い世界、多くの人の心を長く灯し続け、熱く語られる醍醐味のある世界には、必ず多くの「逸話」がまつわる。

 漏れ出る。

*

 ラグビーや相撲は中年をすぎたらもう出来ない。野球をするのも、けっこう大変だ。俳句はいつからでも入門できる。そして、その入門する世界は「五七五」や「季語」のもたらす醍醐味をひっくるめ、もっと大きな混沌と豊饒さをたたえて、皆さんを待っている。(「はじめに」)

 

 

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11/癒しの句・その他の詩歌

今野敏★清明 隠蔽捜査8 2020.01/新潮社

 

――竜崎は言った。

「『清明』ですか……」

呉はにこやかな表情になって言った。

「そうです。杜牧の詩です。とても美しい風景が頭に浮かびます」〔…〕

 

清明の時節、雨紛紛(ふんぷん)。

路上の行人、魂(こん)を断たんと欲す。

借問す、酒家いずれの処にかある。

牧童、遥かに指さす、杏花の村。

 

清明時節雨紛紛

路上行人欲断魂

借問酒家何処有

牧童遙指杏花村

 

 七言絶句だ。その詩を読み下そうと、竜崎が苦労していると、滝口が再び口を開いた。

「清明の時節、雨紛紛(ふんぷん)。路上の行人、魂(こん)を断たんと欲す。借問す、酒家いずれの処にかある。牧童、遥かに指さす、杏花の村。

 清明の季節、つまり春ですね。雨がしとしと降っていて、道行く私はひどく落ち込んできた……。牛飼いの牧童にちょっと尋ねる。どこか酒が飲めるところはないだろうか、と。牧童は、はるか向こうの杏の咲く村を指さす……。

いや、実に味わいのある詩ですね。私の好きな詩です」

竜崎は、滝口の意外な一画を知り、驚いた。

呉がうれしそうな顔になって言った。

「あなたは詩心がありますね。そういう人は信じられると言います」

*

竜崎伸也は神奈川県警刑事部長に異動する。着任早々、県境で死体遺棄事件が発生、

被害者は中国人と判明。公安と中国という巨大な壁が立ちはだかる。

 

 

 

 

 

 

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2020.12.06

発掘本・再会本100選★短篇歳時記│森内俊雄     …………短篇と俳句の“二物衝撃”から幸田露伴『露団々』の方へ  

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 夢の世に葱をつくりて寂しさよ 永田耕衣

 

 公園の隅は藤棚で、ベンチはその蔭にある。冬の陽光が、枯れた蔦の間からさして、ベンチを白々と照らしている。

 いったい、冬の光の色を、どんなふうに説明すればよいだろうか? とりわけそのベンチに射している冬の光となれば、きわめてむつかしい。無理を敢えてして、たとえてみる。

 単純に、一本の葱が生えている姿を想像して、土際のあわあわしい白を眼に浮かべてみよう。

それを力強いとするひともいれば、切ない、かなしいとするひともいる。

 いずれでもよい。その白さからさしてくる光に似ている、と、言うのが適切であろう。ベンチは、そんな色の光に包まれて、待っている。誰かを待っている。

 

短篇歳時記 /森内俊雄 /1999.10 /講談社


 俳句をタイトルにした短篇集。

「俳句と短篇が、たがいに呼応するように、試みてみました。小説による俳句鑑賞、と読んでくださっても結構です」と作者。

 俳人遠藤若狭男が選んだ100句をタイトルにした100篇の短篇(400字4枚)をあつめたもの。「アトランダムというわけにはいかないのです。瞬間を永遠のものとして定着せしめ、それを俳句の文体で構築した作品でなければなりません」と遠藤は句の選定理由を書いている。

 上掲の永田耕衣「夢の世に葱をつくりで寂しさよ」を見てみよう。

 街なかのどこのでもある公園。保母さんにつれられた幼い子たちが嬉々としていたり、老年夫婦が肩を寄せ合っていたり、中年のホームレスがヒゲを剃っていたりする。 

 次に、ベンチが10脚あると書き、そのうち藤棚のそばにあるベンチに焦点を当てる。上掲がそれである。

 最後に、こんな情景が描かれる。

 ――公園近くのアパートへ引越してきた若い夫婦がいる。一日中ベンチに坐っている二人を最後に見かけたひとたちは、痩せた青年が英字新聞を読み、小柄なその妻がただ坐っていただけであった、と覚えている。

 ウィーク・エンドのニューヨーク・タイムズを読み通す、ということは、大河小説をたどるに等しい。病んでいてこそ、可能な仕事である。再生不良性貧血症。

 新聞を、わざとのようにベンチに置き忘れて二人が去り、二度と来なくなった日、読めもしない新聞を持ち帰った男がいる。彼の手もとで、新聞の日付から四カ月が過ぎている。待っているベンチ。それもまたどこにでもある。 (本書)

 

 ところでこのような小説のスタイルは、幸田露伴の『露団々(つゆだんだん)』に示唆を得たと著者が記している。

『露団々』は1889(明治22)年刊行の露伴の小説第1作である。以下引用は『幸田露伴集――新日本古典文学大系明治編22』(登尾豊・校注)による。

『露団々』は、アメリカの富豪ブンセイムが愛娘ルビナの婿を募集する新聞広告を出したところから始まる。多数の応募者の中に中国人伝亢龍の替え玉となった日本人吟蜩子がいた。だがルビナにはシンジアという恋人がいて、とストーリーが展開する。

 この第1回は「古池や蛙とび込む水の音」という小見出しがついて、「この心知り難し」と露伴自ら注を付けている。最終の第21回「あら尊青葉若葉の日の光り」は光あふれる春の到来からハッピーエンドを暗示している。すべて実際に句碑がある芭蕉の句を小見出しにしている。

 アメリカの富豪と芭蕉の俳句という“二物衝撃”の作品である。

 第14回は「葱白く洗ひ上げたる寒さ哉」である。「洗いたての葱の白さに身ぶるいするような寒さを感じた句」と注にあり、娘ルビナの気持を表わすものだという。

 永田耕衣といえば、神戸須磨に在住し大震災に遭遇した。のちの句に「枯草や住居無くんば命熱し」がある。当方は勤務地が須磨にあったとき、耕衣の句を好んだ。耕衣の死を悼んだ句「夢の世へ葱下げていく無月かな」を詠んだ。

 だんだん思い出してきたが、じつは当方も2001年に句集を上梓したおり、巻末に、俳句をタイトルに、それと響き合うことを狙った約1000字のコラムを30篇近く収録したことがある。

 敬愛する俳人が地域のFMラジオのパーソナリティをされていて、その番組で当方のこの俳句をタイトルにしたコラムを毎日1篇ずつ朗読していただいたことがある。

 当時は距離的にそのFMを聴けず(今ならインターネットやスマホでFMを聴取できる)、もっとも自作の文章をアナウンサーに朗読されるのを聴くのが恥ずかしく、後に録音テープを送っていただいたが、聴いていない。

 それはともかく、俳句と文章の“二物衝撃”のとりあわせ、相乗効果で解釈する、批評する、補完するのは難しかった記憶がある。本書『短篇歳時記』の100句も、露伴『露団々』の21句も、当方の読み方が足りないせいだろうが、なるほどと頷けるのは少なかった。

 

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2020.11.28

発掘本・再会本100選★句会で会った人│戸板康二          …………俳句は句会を通じて交遊する文芸、――そのちょっといい話

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 瀬戸内さんの文壇句会での句に、

 

嵯峨にかくる艶女のはてや春灯

 

 と祇王寺の庵主を詠んだのがあり、十年のちに、瀬戸内さん自身が、この句の通りになった。

 

★句会で会った人 /戸板康二 /1987.07 /富士見書房 


 著者が参加した折々の句会、――大森の良夜会、いとう句会、テレビの句会、文壇句会、銀座百店会忘年句会、東京やなぎ句会の場で出会った作家など著名人たちの俳句とエピソードを紹介した句会版“ちょっといい話”。

 これを読めば俳句と短歌の違いがよくわかる。俳句は句会を通じて交遊する文芸である。なんとも楽しい句会が中継されている。ちょっと時代が古く、高名な人たちばかりだが、その著書を読んだことがない。

 上掲の文壇句会は、1953(昭和28)年に再開され、10年ほど続いた。著者の師である久保田万太郎をはじめ、当方がほとんど読んだことのない永井龍男、玉川一郎、森田たま、吉屋信子、瀧井孝作、網野菊、木山捷平にまじって瀬戸内晴美がいた。

 毎日新聞の水落潔記者から聞いた“ちょっといい話”が載っている。同紙に連載していた小説で執筆が遅れたときは電話で口述送稿していたが、あるとき催促の電話を入れた。

 ――「どうしてもうまくゆかないのよ」といわれ、「だって先生、プロじゃありませんか」とついあらっぼくいってしまったら、「いいえ、私はアマです」といったというのだが、これはおそらく作り話であろう。 (本書)

 上掲の嵯峨野祇王寺の庵主は高岡智照のこと。新橋の人気芸妓から尼僧になった女性。瀬戸内寂聴の小説『女徳』のモデルにもなった。祇王寺は何度か訪れたことがあるが、紅葉の季節にはとりわけ美しい寺である。

 

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2020.10.04

松岡ひでたか★小津安二郎の俳句          …………上から目線の“小津俳句”評を読んだ後は、高橋治『絢爛たる影絵 小津安二郎』でお口直し

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 小著は、映画監督小津安二郎が作った俳句について書いたものである。


 小津の俳句には、玉に相当するものもあるが、そうでないものも多い。それらを評されるのは、小津にとっては、はなはだしい迷惑であろう。〔…〕

 密かに、誰にも知られることなく記し、知られないままに消えてゆくはずのものであった。


 ところが、没後、それらを穿(ほじくり)り返された上に評される始末である。
 小津にとっては、「余計なお世話」以外のなにものでもないであろう。

 ――余計なお世話 ―序にかえて―

★小津安二郎の俳句 /松岡ひでたか /2020.03 /河出書房新社


 

 本書は、俳人である著者が、映画監督小津安二郎(1903~1963)俳号・塘眠堂の俳句、について、『全日記小津安二郎』(田中真澄 編纂・1993・フィルムアート社) の1933-35,37,39,54,59-61年に記載されている俳句を網羅し、“鑑賞”したものである。

 日記とはいえ、俳句が書かれている日のみの行動が断片的に引用されているだけなので、その背景が見えてこない。小津調のローアングルが俳句の中にあるかなど、映画との関連に言及していない。しかも俳人は当然のことながら、俳句そのものに手厳しい。

 たとえば、1934年(32歳)の句に、
  行水やほのかに白し蕎麦の花
 がある。蕎麦の花(秋)と行水(夏)と季重なり、「中七が甘い」、三句切れになっている、と指摘し「ほのかに白き」とすればいい、と添削までしている。万事がこの調子の“鑑賞”である。

 1935年は、小津にとって小田原の清風楼の芸者栄女と出会った重要な年である。3月23日、清風に行った日の句に、
  口づけをうつつに知るや春の雨
  口づけも夢のなかなり春の雨
 がある。ここでは著者は珍しく、こんな解説をしている。 

 ――小津は酒に酔って寝てしまった。彼を愛する女が、そっと、唇だけを合わせて、去って行った。〔…〕それが、現実にあったか、どうか、判定するには心許ない。折りしも、外には雨が降っている。春の雨である。しっとりとした、少し華やぎのある思いに浸っているのである。こんな解は如何であろう。
 
 だが、ここでも著者は正津勉『刹那の恋、永遠の愛』(2003)を引用し、

 ――正津は「口づけも夢のなかなり春の雨」ほか数句を採り上げて、「この上品でほのぼのとした仕上がり。どこかさきに挙げた名作の1シーンが浮かぶおもむき。小津はなるほど俳句においても小津。いたずらに情感に流れたりしない。清澄で静謐。じゆうぶんに抑制を利かせている」と評している。

 その紹介で終わればいいものを、
 ――ここで、正津は、「いたずらに情感に流れたりしない」と書いているが、「いたずらに情感に流れたりしない」句だけを採り上げているからで、当たり前である。
 と減らず口を叩いている。

 本書は2012年の私家版が某図書館で河出書房新社編集者の目にとまり、新版として刊行されたもの。附録として「文学覚書」が掲載されている。

 ――それは、「小津がシンガポールに滞在していた1943年から1946年に書かれたものと推定される」もので、「3冊の手帖」のかたちをとっている。「文学界」2005年2月号の「特集映画の悦楽」に掲載されたもの。

  秋風の白粥すゝる峡の宿
  セルを着て高目に帯をしめにけり
  葩(はなびら)や仏の膝に吹きたまる
  葉桜や湯上りの口紅濃くつける
  来しかたや萱山の芒昏れのこる

 小津の96句と連句が掲載されている。著者は驚くべきことを書いている。日記に掲載された俳句は即席で推敲されておらず未完成、という意味のこと。それでは日記の中の俳句である本書を著者みずから否定することではないか。

 ――「日記」の作者とは同じ人物のそれであるとは思えないほど充実している。やはり、「日記」は「日記」であったわけである。(本書)


*
*
 というわけで、上から目線の“小津俳句”評を読んだ後は、高橋治『絢爛たる影絵 小津安二郎』(1982)でお口直し。

 小津の代表作『東京物語』(1953)の助監督だった作家・高橋治は、俳句に関する著書も多い。『絢爛たる影絵 小津安二郎』のなかで、小津の俳句に触れた部分……。

  葉鶏頭に古き障子は灯りけり
 栄女と出会った頃の小津の句である。宵の遊びは間もなく一転して、にわかに艶を含む。
  明けそめし鐘かぞへつゝ二人かな
  口づけをうつつに知るや春の雨
 この年、十月の日記にこんな一節がある。
…車にて相州に向ふ。〔…〕燈火秋冷酒によし。乱さゞるも酩酊その前後を弁ぜず。
  爪斬るや畳にこぼる髪の丈

 これこそが小津のイメージだろう。「二人の恋は、凛としてしかも崩れず、旧友の誰もがある祈りをこめて見ていたという」と続く。「栄女はあくまで姿良く、眼が美しく、気性の烈しい頭の冴えた人だといわれる。小津好みなのである」。

 ――その栄女との間が、いつ、どう平行線を辿るものに変わったのだろう。こんな句がある。
  紫陽花にたつきの白き足袋をはく
 句の相が驚くほどつきはなした観察に変化している。その様変わりが痛々しくもある。恐らく、一点の汚れもない足袋をはき生計のために出かけて行く栄女に、無理をいって引きとめなかったのは小津の方なのだろう。(同書)

 

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Amazon高橋治★絢爛たる影絵 小津安二郎

 

 

 

 

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2020.09.14

村上春樹★猫を棄てる 父親について語るとき        ……メタフォーは難しいので、小学生の頃の幻住庵の方へ

 

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 兵役にとられ、厳しい初年兵教育を受け、三八式歩兵銃を与えられ、輸送船に乗せられ、熾烈な戦いの続く中国戦線に送り込まれた。

 部隊は必死に抵抗する中国兵やゲリラを相手に、休む暇もなく転戦を繰り返している。平和な京都の山奥の寺とは何から何まで正反対の世界だ。そこには精神の大きな混乱があり、動揺があり、魂の激しい葛藤があったに違いない。
 そんな中で、父はただ俳句を静かに詠むことに慰めを見出していたようだ。

 平文で手紙に書けばすぐ検閲にひっかかるようなことがらや心情も、俳句という形式――象徴的暗号と表現していいかもしれない――に託すことによって、より率直に正直に吐露することができる。


 それが彼にとっての唯一の、大切な逃げ場所になったのかもしれない

 父はその後も長いあいだ俳句を詠み続けていた。

★猫を棄てる 父親について語るとき /村上春樹 /2020.04 /文藝春秋


 当方は村上作品を愛読しているが、それは“卓抜な警句と意表を突く比喩”をコレクションし、楽しむためである。

 本書は、戦争が一人の人間の生き方や精神をどれほど変えてしまえるかということを、無名の一市民である自分の父親を通して描いたエッセイだ。そこにしゃれた警句や比喩はない。

 どんな文脈の中で語られたフレーズか記憶にないが、読みながら当方のコレクションの一つを思いだした。

 ――うちの父親は自分の人生について他人に語るということをしない人だった。〔…〕むしろ地面についた自分の足跡を、箒を使って注意深く消しながら、後ろ向きに歩いているような人だった。 (『騎士団長殺し』2017)

 本書の父親を彷彿させる。

 ちなみに『騎士団長殺し』の主人公の友人の父親は、雨田具彦という高名な日本画家。戦前は洋画家だったが、ウィーン留学中にナチス高官暗殺未遂事件に関与し日本へ送還され、戦後日本画家へと転身という人物。その父はまだ小学生だった友人に、叔父が軍刀で捕虜の首を三度も斬らされたという話を聞かせたというエピソードが添えられている。

 夙川の小学生だった頃、父といっしょに自転車で2キロメートルくらい離れた海辺に一匹の猫を棄てに行く。2人は自転車でまっすぐ帰宅したが、棄てたはずの猫が家で出迎える。父は、呆然とし、やがて少しほっとする。
「猫を棄てる」話が冒頭にあり、なぜそれがタイトルなのか、当方は理解できなかった。ネットで書評類を探して読むと、それはメタファーだという。

 20歳の父が輜重兵(しちょうへい=軍馬の世話する兵隊)として中国大陸の戦線に送り込まれていた頃、“南京大虐殺”があった。じつは「自分の属していた部隊が、捕虜にした中国兵を処刑したことがある」と父が語ったことがあり、そのわだかまりが南京攻略戦以前に父は帰還していたことが判明し、「ひとつ重しが取れたような感覚があった」と。猫の話はそのメタファーだという。

 あるいは、若い頃から父とは疎遠になっていて、作家となってからは「20年以上まったく顔を合わせなかったし、よほどの用件がなければほとんど口もきかない、連絡もとらないという状態が続いた」が、父のことを調べるうちに和解のこころが生まれる。捨てたはずの猫が戻ってくるというは、そのメタファーだともいう。

 当方は俳句が好きでメタファーには慣れているけど、そう読むのか。難しすぎる。

「鳥渡るあああの先に故国がある」
「兵にして僧なり月に合掌す」
これが父の戦場での句である。京都の寺の次男に生まれ、浄土宗西山派の西山専門学校在学中に徴兵されている。すなわち、兵にして僧なり、である。

「鹿寄せて唄ひてヒトラユーゲント」
「一茶忌やかなしき句をばひろひ読む」
 もっと知りたいが、残念ながらこの4句しか記載されていない。

 教師となった父は、生徒たちを集めて、俳句同好会のようなものを主宰していたという。小学生の著者も連れていかれたという、こんな一節がある。

 ――一度ハイキングがてら、滋賀の石山寺の山内にある、芭蕉がしばらく滞在していだと言われる山中の古い庵を借りて、句会を催したことがあった。どうしてかはわからないが、その昼下がりの情景を今でもくっきりとよく覚えている。 (本書)

 以下、小玉武『美酒と黄昏』(2017)からの孫引きだが、村上に「八月の庵――僕の『方丈記』体験」(1981年雑誌『太陽』に掲載。単行本未収録)というエッセイがあって、そのことをこう書いている。

 ――その時、春樹は、句会の連座には入らなかったとあるけれど、暗い庵の縁側に一人座って、蝉の声を聞き、草深い庭を眺めていた時、ふと衝動におそわれている。
《死はそれまでの僕の生活にほとんど入り込んでこなかった。(中略) しかしその庵にあっては、死は確実に存在していた》
 最晩年の芭蕉が隠棲した山の中腹の荒れ果てた「幻住庵」、そこで小学生の春樹少年が、生まれて初めて体験した決定的な「死」の予感だった。
 人は、その生涯のどこかで、確実に死を予感し意識する瞬間があるのだ。 (同書所収「風鈴――村上春樹と幻住庵」)

 ついでに同書から、村上小学5年生時の作品を紹介する。この句が本書を読んだ印象、すなわちメタフォーだといえば、いかが。

風鈴のたんざく落ちて秋ふかし 春樹

 

 

小玉武★美酒と黄昏

Amazon村上春樹★猫を棄てる

 

 

 

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2020.07.28

小林紀晴★まばゆい残像  そこに金子光晴がいた    …………久しぶりに金子の詩集を読んで旅の感傷にひたった

 

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  あれからけっして短くない時間がたった。旅は積み重なった。
 そして、いま強く思う。

 

 またいつか、あの頃のように35mmのフイルムカメラにモノクロフイルムだけを詰め、金子光晴の文庫本を持ち、


汗をかいてその雫が頬からあごを伝い乾いた大地に落ちるのをぼんやりと眺めるような旅をしてみたいと。

 

★まばゆい残像 そこに金子光晴がいた /小林紀晴 /2019.11/ 産業編集センター


 旅を撮り、旅を綴る小林紀晴(1968~)が、かつて金子光晴(1895~1975)の文庫本を手に金子の若き日の足跡を追った旅を思い、いま「記憶は常に新しい」とその残像を追う。

 ――最後に残るものは記憶だ。それもかなり偏ったそれだ。それを反芻することが新たな旅、あるいは旅の熟成といえるのではないか。 (本書)

 コロナ禍の日々、しきりに旅に出たいと思う。かつて多忙な仕事の合間に短い休暇を取り、その時々の友人たちとシンガポールへ三度、パリへも三度行ったことがある。
自伝や詩集を片手にそのひとりの人を追う旅などかつて経験がない。いや「おくのほそ道」をポケットに出羽の国を一人旅したことがあるが、これはイメージが違いすぎる。しかしたいていの一人旅は、なにかと交信しながら旅をしていたように思う。

神経をもたぬ人間になりたいな。
本の名など忘れてしまひたいな。

女たちももうたくさん。
僕はもう四十七歳で
近々と太陽にあたりたいのだ。

軍艦鳥が波にゆられてゐる。
香料列島がながし目を送る。

珊瑚礁の水が
舟の甲板を洗ふ。

人間のゐないところへゆきたいな。
もう一度二十歳になれるところへ。

かへってこないマストのうへで
日本のことを考へてみたいな。

 著者はこの「南方詩集」を引き、「あきらかに金子はかつての自分やその時代を懐かしんでいる。そのことが滲んでくる。旅は終わってしまったのだと、否応なく気づかせてくれる」と書く。懐かしむことしかできないことに愛おしさを感じている、とも。

 金子は、1918年から2年余りヨーロッパへ。1928年から上海、シンガポール、のちパリへ。放浪の旅は数年にわたり、のちに『どくろ杯』『ねむれ巴里』『西ひがし』の自伝3部作となる。

 当方も著者にならって金子の『女たちへのエレジー』(1998)から1篇を引いてみよう。

水のながれが
僕を誘ひ入れる。
岸辺に立つて
ながめてゐる僕を。(以下、3行/4行、略)

色のない水は重つて
底青く
結ばれ、とけ、泡立ち
淡水のしめつぽい
味のない、いがらっぽい
はかないにほひを立ちのぼらせる。

にぎやかで、ひそひそした水の声よ。
老もつかれもしらぬ水のゆくへよ。
委ねるため、
すてるため
ながした考を
はるかに追ふために、
僕のおもひはながれ
からだはとどまる。

僕はのこる。草の葉や、根瘤や、
きのふのくらしや、家や、
うごきのとれない環境や、
がらくたどもといつしょに。
僕はながれる。わらしべや、
すてた摘花や、おもひでとともに。

――「水」

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2020.07.22

村田喜代子ほか★掌篇歳時記 春夏       …………季節の名前をタイトルに12人の作家が競作する12の掌篇

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  店を出ると西の方の空が暗くなって遠い雷の音がした。
「春分の雷ね」
 と姉が空を見上げた。


「春の雷をとこ懈怠(けたい)に妻かせぐ……、って俳句があるわ」
「意味わからない」
「この国にはね、健気な働き者の女たちがいたっていうこと」


「それで、雷はどうなるの」
「男の上に落ちるのよ」


 姉は歩きながら両手を広げた。
 道は少しずつ薄暗くなった。

 ――村田喜代子「雷乃発声(かみなりすなわちこえをはっす)」

★掌篇歳時記 春夏 /村田喜代子ほか /2019.04 /講談社


 古来伝わる七十二候(しちじゅうにこう)は、約5日おきに分けて、気象の動きや動植物の変化を知らせる。
 このうち「雷乃発声」は、春の訪れを告げる雷が鳴り始める候。3月31日から4月4日頃。
 これら季節の名前をタイトルに12人の作家が競作した掌篇を集めたもの。

「雷乃発声」という短篇は、姉に誘われて春の院展を観に行ったとき、別館で「いのちの布・襤褸(らんる)展」がおこなわれており、その“ぼろぎれの展覧会”を観るところから始まる。

 ある一枚の着物の解説に、「背中と腰の継ぎは赤ん坊を負ぶった跡で、裾の上の継ぎは赤ん坊が両足で蹴りつけたものか」とある。

 ――今しがた観た院展の春景色の絵など襤褸の迫力に吹き飛んで、姉とわたしがまぎれ込んだのは昭和初年から戦後にかけてのこの国の貧しさだった。(本書)

 姉は「昔うちにいたネズミたち」を思いだす。ニンゲンの子ネズミ、山から父親に連れられて風呂敷包みをもった女の子。包みには服や肌着ではなくぼろぎれがどっさり入っていた。

 ――「あの頃、女性はみんな寒かったわね」
と姉は歩きながら遠い眼をする。
「寝ても起きても女はみんな痺れるほど寒かったわ。男も寒かったたろうけど、あの人たちはお酒で体を温める術を持っていたんだから」 (同上)

 喫茶店で紅茶を飲みながら、姉妹の昔の“大事なボロ”の話は続く。

 ――わたしはさっき見た襤褸展の、綿の代わりにぼろや藁、茅花の穂や古新聞紙まで詰めた凄まじい掛布団を思い出した。
「みんなうちへ来て、初めて布団らしい布団にくるまって寝たのね」 (同上)

終わりは上掲のような春の雷のシーン。ほとんど小説を読まないが、ときどき気になる作家を図書館で検索する。その一人が村田喜代子。こんな見事な掌篇に出合えた。

 

村田喜代子◎飛族

 

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2017.01.14

北村皆雄★俳人井月――幕末維新風狂に死す

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 すっかり乞食に身をやつした井月である。

 晩年は、今まで親切にしていた家でも露骨にいやな顔をされ、戸を閉められるようになった。居留守も使われた。犬にも吠えられる。井月は、酒を友とした。酒を求め、腰の瓢箪に酒を満たす行脚となったが、酒豪ではない井月は、すぐに泥酔、前後不覚、寝小便もする。あまりに汚いので婦女子に嫌われた。

 井月は伊那を放浪する。しかし、伊那は井月を抱えるほどの余裕をますますなくしていた。

それでも井月は歩かねばならない。

 いたずら小僧は小石を投げ腰の瓢箪に当てっこをした。石が頭に当たり血が流れ出したが振り向きもしない。酪乱して小滝の中へ横さまに落ち込んで、一向に身動きもしない状態で発見されたこともあった。

 

 俳人井月――幕末維新風狂に死す|北村皆雄岩波書店20153月|ISBN: 9784000291590|○

  井月(せいげつ)といえば、下島勲・高津才次郎編『漂泊俳人井月全集』という基本資料があり、 石川淳『諸国畸人伝』(1957)、つげ義春『無能の人』(1985)で知られていたが、最近では岩波文庫『井月句集』 (2012)、本書の著者による映画『ほかいびと――伊那の井月』(2011)でさらに知名度が上がった。

 井月は、あるときは侍姿、あるときは入道の姿で、飄然と信州伊那谷に現れた。本書は幕末から明治への歴史の転換期と伊那谷という風土性から井月をとらえた一書である。重複が多いのが気になるが、風狂に生きた生涯を丹念にたどった労作である。

 伊那の民俗学者向山雅重によると、「見知らぬ旅人が壊れている危ない橋を渡ろうとしている。それを見ても諏訪の人は何も声をかけなかった。下伊那の人は『危ねぇぜ』と一言声をかけた。上伊那の人は『危ねぇ』と言いながら、橋まで飛び出して行って連れ戻そうとする。ややもすれば一緒に落ちてしまう」という。

  この上伊那のおおらかさが、30年間放浪の拠点をおいた理由の一つであろう、と著者は書く。同時に、幕末の戊辰戦争では井月の第一のふるさと長岡藩が井月の第二のふるさととなる伊那と敵対関係になり、さらに明治に入り戸籍、徴兵令など近代国家として制度が整い始めると、放浪者としては生き苦しい時代となり、井月は時代から弾き出される。

 ――終焉の地となる一軒のあばらやに担ぎ込まれた。腰も立たず口もきけぬ病躯を横たえていたが、翌1887(明治20)年310日、旧暦216日、66歳で息を引き取るのである。死の2時間前に次の句を残した。

  何処やらに寉(たづ)の声きく霞かな

 寉とは鶴のこと、霞のなかどこやらから鶴の鳴声が聞こえてくるなあ、というのである。手にした筆はふるえていた。墨字にそれがわかる。それでも「霞かな」の字を、薄く消え入るように書いているのは、あたりの輪郭をぼやかす霞を思っているのだろう。この俳人のせめてもの心配りであろう。(本書)

 晩年、井月は酒を求め、酒ゆえに嫌われた。その酒の句、10句……。

山笑う日や放れ家の小酒盛

翌日しらぬ身の楽しみや花に酒

寝て起きて又のむ酒や花心

酒の味かはらぬ老いの機嫌かな

酒を売る家に灯はなし遠砧

 

鴫(しぎ)鳴くや酒も油もなき庵

酒となる間の手もちなき寒さ哉

よき酒のある噂なり冬の梅

酒蔵に径(ちかみち)もなし年の暮

初空を心に酒をくむ日かな 

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2016.12.30

正津勉■乞食路通――風狂の俳諧師

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はづかし散際見せん遅くら

  それにつけ素晴らしい、さすが路通なるなり。ここにいたって「はづかし散際」との自嘲はどうであろう。いやほんとなんとも見事な挨拶というものでないか。〔…〕

 もうその刻が迫っている。路通は、このときぼそぼそと呟くようにしていた。それはなにかと陀羅尼経だったろうか。そのさき翁の塚にひれ伏して唱えた経である。そうしてやや、ひとりひっそりと息を引きとっていたのでは、ないだろうか。

 

 乞食路通――風狂の俳諧|正津勉|作品社|20168月|ISBN: 9784861825880|○

  路通は、芭蕉が生涯かばい続けた不肖の弟子である。奥の細道むすびの地大垣で登場し、芭蕉を出迎える。じつはこの奥の細道の旅に随行するはずだった弟子である。

  その大垣で芭蕉が路通を連れて大垣藩次席家老の戸田如水を訪ねる(「如水日記抄」)。これはその日記に芭蕉のことを「心底計り難けれども、浮世を安く見なし、諂(へつら)わず奢らざる有様也」と書いてあることで有名。

  いまでいえば文化人顔した大垣市役所の戸田副市長が、多くの幹部職員を門弟にしている著名人を招いた図である。芭蕉はやむなく訪問。井本農一「芭蕉入門」によれば、「如水の『浮世を安くみなし』云々という口調には、芭蕉に対する多少の軽蔑と、また多少の羨望の気持がまじり合っている」という。

 この日記に「路通と申す法師、〔…〕是は西国の生れ、近年は伊豆蛭島に遁世の躰にて住める由、且又文字の才等これ有りと云々。白き木綿の小袖。数珠を手に掛くる」と記されている。

  ――路通。八十村氏。湖南を乞食中に芭蕉に対面。初め同伴者に予定されていた。一時勘気を蒙り臨終の際許される。(萩原恭男校注「芭蕉おくのほそ道」岩波文庫)

 いねいねと人にいはれつ年の暮 

 乞食坊主路通は、「帰れ帰れ」と嫌われ続け、それを逆手に取ったこの句が有名(猿蓑に収録されている)。慢心、放縦、金銭にだらしない、後年は芭蕉の偽筆を書いて売ったともいわれている。

  路通37歳、芭蕉41歳のときふたりは出会った。芭蕉は50歳で亡くなったが路通は90歳まで生きたという。路通の13回忌に出された文集に、松助という門弟の一文が残されている。

 ――師翁路通、齢九十の春も過て、初秋の十四日、浪花江の芦間に見失ひ侍けるも、十とせ余り三とせなるらん。……。そのかみ翁の

 はづかし散際見せん遅くら

 と八十余歳の筆をふるはれしも、なつかしきまゝ、門人渓渉が写しおける一軸の像にむかひて、

文月某日をうるす。松助「路通十三回忌序」

  ほとんど資料がなく、不分明な路通の生涯を、水上勉の談話や多田裕計の小説などを引用しながら、とまどい、行きつ戻りつ、その生涯をたどったのが本書である。著者は最後にこう書く。 

  ――路通。最底辺たる宿命にいささかなりも屈することがなかった天晴れな俳諧師。いつどこで野垂れ死にしていても、おかしくない薦被り者なのである。〔…〕

 路通の句作は、心底の発露だ。そこにはいまこそ聴くべき、い、沈黙、号泣、憤り、呟きや、ひめた声がいきづいている。(本書)

  火桶抱いておとがひ臍をかくしける  路通

井本農一■ 芭蕉入門

 

正津勉■脱力の人

 

正津勉□詩人の愛――百年の恋、五〇人の詩

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2015.10.29

◎11癒しの句・その他の詩歌│T版 2015年8月~10月

11_4

★石牟礼道子『石牟礼道子全句集 泣きなが原』

〈神々などというものは――ついいましがたまで在った――〉という石牟礼道子さんの想いの果てが、やがて断念という万斛の想いを秘めながら、

祈るべき天と思えど天の病む

へ結晶していった。(穴井太)

★『石牟礼道子全句集 泣きなが原』△2015

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『石牟礼道子全句集 泣きなが原』。「若い頃は短歌を作っていたけれど、俳句の方が性に合っていたようだ。というのはふっと湧くイメージを書きとどめるとすむからだと思う」とあとがき。70年代からの全213句。

一読したが、俳句というより、七七の欠けた短歌のような気がした。「死におくれ死におくれして彼岸花」「まだ来ぬ雪やひとり情死行」

 

★矢崎泰久『句々快々―「話の特集句会」交遊録』

 

この45年というもの、句会以外の場で俳句を詠んだ記憶がない。それどころか、句を作るのが何より辛い。

楽しいと思って作ったことなど一度たりともなかった。

端的に言えば、難行苦行である。俳句を作らないで済むなら、これほど楽なことはないと、句会の席で幾度思ったか知れない。

★矢崎泰久『句々快々―「話の特集句会」交遊録』△2014

東京やなぎ句会と並ぶ著名人句会「話の特集句会」は45年の歴史をもつという。和田誠『五・七・五交遊録』に詳しい。

 

会則に「常にバレ句を詠むよう心がける」とあり、あるとき鬼百合(きゆり)の「松茸を喰らひつしゃぶりつまた喰らひ」を週刊誌がスッパ抜いた。それが話題になって、とうとう去ってしまったのだ。週刊誌に大きく取り上げられ、それっきり彼女は来なくなったという。名句・迷句を多数収録。

 

 

 

★金原瑞人『サリンジャーに、マティーニを教わった』

 

詩や短歌はいったん覚えてしまえば、死ぬまで心にしまっておける。いつでも好きなときにのぞいてみることができる。

好きな詩や短歌の詰まった心はそのまま、小さな自分だけの宇宙だ。(「僕がそのうち訳したい詩」)

★金原瑞人『サリンジャーに、マティーニを教わった』〇2015

ブックカバーに本文の書き出しだけ、題名も作者名もわからないラッピングされている文庫本フェア、作品にはタイトルとプライスだけで買った人だけにプロフィールを示す美術展を紹介した「心惹かれる1行、心揺さぶる1シーン」などエッセイ37篇。

 

役者も、詩人も歌人も、画商も骨董屋にもなりたかった翻訳家。前へ前へ突き進むストイックさが欠けているのだと。

 

児童文学、ヤングアダルト向け本を訳してきたせいか、1954年生まれなのにこの若々しい文体。

 

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