1970年代の初め頃は、さびしさというのが死ぬ価値のあったような時代である。
お気に入りフレーズ(38)
1970年代の初め頃は、
さびしさというのが死ぬ価値のあったような時代である。
ぼくの詞にも、理由なき厭世的な気分の詞が、かなりある。
さびしさや孤独はいつの世にもあり、
2002年の今も当然のことにあるが、
70年代と違っているのは、
「さびしい」が一つの世界なっているかどうかである。
あの頃、誰を恨むでも責めるでもなく、
さびしさを時代の証明のように、
少年たちや少女たちは胸に抱え込んでいた。
豊かになりそうな時代が目の前にあって、
しかし、豊かになったあとの空虚さも予感としてあったので、
少年も少女もさびしくなっていたのだと思う。
いっそ貧しく、いっそなまじの豊かさの匂いがなかったら、虚無にはならない。
――阿久悠 『なぜか売れなかったが愛しい歌』
*読前:歌たちよ、時代を超えて永遠に…。
作詞家として手掛けた歌五千曲。数ある著者の歌の中で、大ヒットはしなかったものの、なぜか忘れがたい「愛しい歌」。そんな歌が誕生した時代背景や創作のエピソードを、慈愛に満ちたまなざしで綴る感動の五十篇。
**読後:★★★ 売れなかった歌、ほとんどの読者が聴いたことのない歌、だから口ずさむことのできない歌の数々である。聴いてみたい。たとえば、小林旭「それから」。
心が純で 真直ぐで
キラキラ光る瞳をしてた
はにかみながら 語る
夢 大きい
きみも おれも
昔はそんな子だった
遠いころの おたがいに乾杯
***阿久悠 『なぜか売れなかったが愛しい歌』河出書房新社・2003.7.30初版発行
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント