まず平仮名と読点の並外れた多さに気がつくに違いない。
―― 長部日出雄 『桜桃とキリスト――もう一つの太宰治伝』
さらに、どうしてこんなに魅力的に書けるのか、という文章の特徴に気をつけてみると、まず平仮名と読点の並外れた多さに気がつくに違いない。
ふつうは漢字で書くところを、太宰はしばしば平仮名に開き、ときには、ほとんど一語ごとに、読点を打つ。また、近代的な散文においては避けるべきだとされている体言止めを、平気で多用する。
そこから、わが国の小説一般の文語体とは遥かに懸け離れた、独特の口語的な親しみやすさと、音楽的な韻律と旋律が生まれてくる。
太宰になったつもりでいえば、ほかのだれにも似ていない自分の文体で、ここまで創作すれば、あとはもう、こっちのものなのである。
作曲家の仕事を、冒頭でなし終えたあとは、腕に覚えのある編曲者、演奏者となり、……〔略〕
★★★
いまも太宰治が読まれ続けている理由の一つは、その魅力的な文体のせいでしょうね。口述筆記による作品もあるが、女性の独白体の語り口に酔ってしまう。ところで、文体で思いだす二人の作家……。
いつだったか新幹線のホームで、西村京太郎のトラベル・ミステリを買い、車内で読み始めたが、これがとんでもないシロモノだった。句点だらけ、読点になると改行。その白っぽいページを見ると、電文を読んでいるようで、口述筆記で粗製乱造中の作家が浮かんできて、読むのを断念した。
司馬遼太郎は、歴史もののため漢字の多い文章という感じがするが、意外だが、ひらかなを多用する。また、強調する部分をカギカッコにし改行するのが、特徴である。たとえば、無作為に引用するが、
―― 布引の水は、六甲の老化した花崗岩層をくぐってきて適度のミネラルをふくんでいるためにうまいのだというし、また船が赤道をこえてもうまさに変化がない、などともいわれてきた。
そういうコウベ・ウォーターについて、明治のころは、
「水屋」
というものが活躍して、寄港する船舶に水を売っていた。
―― 「神戸散歩」『街道をゆく 21』
なお、本書は、絶頂期から玉川上水での心中までを描いた太宰治評伝の決定版。幼年期から青春時代を描いた「辻音楽師の唄」の姉妹篇。
■■■ 長部日出雄 『桜桃とキリスト――もう一つの太宰治伝』2002.3・文藝春秋/2005.3・文春文庫
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コメント
おいおい
句点と読点が逆でっせ
投稿: 通りすがり | 2016.01.03 09:05