言葉は快楽の源泉であった。
修治にとって、日常の会話とは別の次元で語られる言葉は、まず旋律と韻律を帯びた詩か音楽として、あるいは呪力を籠められた言霊として、耳元の繰り返し囁かれ、風のない夜の雪のように、しんしんと夢の世界の底に降り積もって行った。
また、からすあ、があて啼けば、橡の実あ、一つぼたんて落づるずおん。
また、からすあ、があて啼けば、橡の実あ、一つぼたんて落づるずおん。
……ずおん。……ずおん。……ずおん。
無限に反復される音の快い響きを、修治はきゑの胸をまさぐり、乳の出ない乳首を咥えて吸いながら聞く。
耳から流れ込む言葉の音楽は、母の懐に抱かれ、肌に唇を捺しつけてはむさぼる官能の喜びと一体となっている。物心がつくのと同時に、修治にとって、言葉は快楽の源泉であった。
―― 長部日出雄 『辻音楽師の唄――もう一つの太宰治伝』
★★★
手元に『新潮文庫全作品目録1914~2000』がある。まえがき(平成14年5月)に、創刊88年を迎え、総刊行冊数は7,500冊を超えようとしている、とある。
「累計部数ベスト30」というロングセラーの表紙写真が載っている。太宰治の『人間失格』が第1位、同じく『斜陽』が第10位である。あわせて1,000万部を超えるらしい。読まれているのですねえ。
半世紀近く前の高校生のころ、太宰の全集を読破したことがある。当時、太宰は禁書のたぐいだった。隠れて読んだ。デカダンス(頽廃派)、「生まれてすみません」、入水心中、といったイメージだった。
いまはまったく違うイメージで読まれているのでしょう。あんがいキャッチコピーの名手としても読まれているのかもしれない。「富士には月見草がよく似合ふ」(『富嶽百景』)
本書は、同郷の後輩による太宰治の幼年期から青春時代までをたどった評伝。
■ 長部日出雄 『辻音楽師の唄――もう一つの太宰治伝』1997.4文藝春秋/2003.5・文春文庫
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