雪降れば佃は古き渡しかな
―― 出久根達郎 「雪降れば」
中学を卒業すると上京し、月島の古本屋につとめた。住み込みの、少年店員である。〔略〕
月島の店で私が店番をしていると、まっ昼間、ヒゲだらけの酔っ払いが入ってきた。〔略〕時代小説を一冊買っていった。以後、たびたび、来た。そのうち親しく言葉を交わすようになった。趣味で俳句をつくっている、と話した。いつも酔っている。
ある日、「兄ちゃん、私の句を買わないか」と突然言いだした。酒代にあてるのだ、と笑う。一句五百円でどうか、と値をつけた。からまれると恐いので、一句だけ買う、とうなずいた。
「佃島の句を売るよ」そう言って、「雪降れば佃は古き渡しかな」と三度繰り返して口ずさんだ。「さあ、これは兄ちゃんのものだ。自由に使っていいよ」軽く笑って帰っていった。それきり、現れなくなった。
★★
1960年代と思われるが、一句500円は高い気がする。でも数十年後、こうしてエッセイの材料にして十分元をとったようだ。
それにしても、父の若いころの俳句を引用したり(「蝿打つや作家志望も遠き過去」)、奥様の俳句を引用したり(「銀杏散る黄色い帽子一列に」)、作家もたいへんですね。なぜ自句を披露しないのだろう。
著者と俳句とのかかわりといえば、初期のころから登場するのが、橋本夢道である。少年店員だったころ、毎朝店の前を商家の旦那然とした着流しの男性が通った、と本書にもある。著者が好きだった夢道の句、
僕を恋うひとがいて雪に喇叭が遠くふかるる
ところで、わたしの好きな夢道の句。無類の妻5句、その他5句。
春の弁当を妻も膝にし大裾野
無礼なる妻よ毎日馬鹿げたものを食わしむ
妻よおまえはなぜこんなにかわいんだろうね
精虫四万の妻の子宮へ浮游する夜をみつめていた
或ときは母の如く姉のごと大馬鹿ものよと無類の妻
うごけば、寒い
降り積む雪赤き思想を覆いきれず
散るわ散るわ桜、貨物列車が通過する
かぼちや太らせるため北海道は眠るかな
初鰹五十年酒に背きし時あらず
■■■ 出久根達郎 『古本・貸本・気になる本』2004.8・河出書房新社
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