■ 八十二歳のガールフレンド|山田稔
彼はくるりと背を向けると、ふり返りもせずに病院の方へ去って行った。あっさりとした別れだった。おたがい別れるのに苦労した二十代のころをかえりみながら、わたしは彼が病院の小さな入口からなかに消えるのを見守っていた。
彼の言うとおり車はなかなか拾えなかった。わたしはあきらめ、御地通りを東へ歩きはじめた。あと十年は生きてみせる、と言った彼の言葉がよみがえってきた。十年はむりとしても三年、いやそれもむりだろう。だが一年くらいは……。もういちど会えるだろうか。
いやもう会えなくてもいい。何年分も会ったような満ち足りた気分が全身にひろがっているのを感じた。ビールが飲めてよかった。無理に止めていたら、きっと後で後悔しただろう。
いまの満ち足りた懐しい気持のままでいたかった。別れよりも再会の記憶をもちつづけたかった。あいつは何だか今日は特別やさしかったな、と思った。
いろいろと気をつかってくれた。あのてっちりだって……。会っている間じゅう、労わられていたのは自分の方だったような気がした。彼の言葉のあれこれを思い返しているうちに涙が出てきた。
――「神泉苑」
■ 八十二歳のガールフレンド|山田稔|編集工房ノア|2005年06月|ISBN:4892711373
★★★★
《キャッチ・コピー》
想像のたそがれのなかに、ひっそりと生きはじめる。すぎ去った人々の時の贈物、渚の波のようにこころをひたす散文集。
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