■ 41歳からの哲学|池田晶子
私から見れば、人生の終盤になって痴呆の人が、自分が誰かわからなくなるというのは、したがって、正しい。もともとそうであったところへ戻ったということだからである。思い込みから解放されたということだからである。〔…〕
過去の縛りや未来の憂いがないということは、現在しかないということだ。現在しかないということは、人間にとって、最も幸福なことではないのだろうか。
そうだろう。過去も未来も名も肉体も、死ぬ時にはすべて自分からなくなるのである。自分は誰でもない、ただの自分になるのである。人はそれを思って恐怖するが、しかしそれは生まれる前の状態に同じである。けれど人は、それを思って恐怖することはない。
「失う」と思うから恐怖なのだ。「手放す」と思えばいい。握り締めていたものどもを手放すのだと。しょせんこの世のことではないか。
したがって、問題は実は、ボケる側ではなくて、ボケられる側にある。これは、死が死ぬ側の問題ではなくて、死なれる側の問題であるのに同じである。ゆえに、死んだ者勝ち、ボケた者勝ちという言い方もある。そうかもしれない。
いずれにせよ順番である。この超高齢化社会においては、誰もが死ぬ前に赤ん坊に戻る順番なのだと、皆で腹を括れば、問題は問題でなくなるであろう。
――「ボケた者勝ち―痴呆」
■ 41歳からの哲学|池田晶子|新潮社|2004年 07月|ISBN:9784104001064
★★★
《キャッチ・コピー》
この世の身近な出来事を深くやさしく考えた、大人のための哲学エッセイ。
「週刊新潮」での連載「死に方上手」を収録した1冊。
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