■ 迷子の自由|星野博美
私の理解の中では、写真を撮るとは一瞬を切り取ることである。フィルムで写真を撮る私にとって、シャッターを切った瞬間、写真はすでに存在している。現像していなくても、写真はすでにフィルムの上に存在している。〔…〕「撮ったら残す」とか「撮ったが残さない」という選択はありえない。
たとえどんなにあがりが気に入らなくても、撮ったことをなかったことにだけはできない。それが私にとっての「写真を撮る」という行為の大前提だったし、いまでもそうだ。
撮れた写真の背後には、膨大な量の、思うように撮れなかった写真や、シャッターを切る勇気がなく、存在すらできなかった写真がある。写真は偶然に撮れるが、撮れなかった写真に偶然はない。逆に、撮れなかった写真にこそ、撮る人間の本質が隠されている。
デジタルの世界は私たちの目の前に、「消しますか? あなたが望むなら、なかったことにできますよ」という禁断の選択を提示する。消せるものなら、私だって消したい。しかし一度消してしまったら、もう二度とあと戻りできなくなるような気がする。
忘れたくないから撮り、忘れるために消す。人間はずいぶん手のこんだ道具を手にしてしまったものだ。
――「写真」
■ 迷子の自由|星野博美|朝日新聞社|2007年 02月|ISBN:9784022502537
《キャッチ・コピー》
その日は、朝からなんとなくいい感じだった。迷子になるには最適の日だった…。東京・インド・重慶を迷い歩いた写真×エッセー集。
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