飯田龍太■ 俳句入門三十三講
何年か前から、私は、俳句は没になっても、一年ぐらいは保有してもらいたい、こういうことを申し上げています。
その基本的な考え方は、俳句の場合は、選者兼作者だということなんです。もっと詰めていえば、俳句の特性は、作者が同時に作者の先生である。つまり、俳句の先生というものは、自分だということ。〔…〕
したがって、一年たって自分の落選した作品をもう一度見直したとき、一年前に作ったときの自然の風物、ないしは自分の身辺の考えが、まざまざと整ってくる作品は、その人にとっては大事であり、同時にその人の作品だと思う。〔…〕
俳句というものは、本来自分が自分に教えるものだ。あるいは自分が自分に教えられるものだ。教える自分をつくるには歳月が必要。また俳句以外の要素も必要です。栄養を持った別の自分の眼、あるいは心というもの――これこそは自分を高める最大のものではないかと思う。
私は最近、そういうことを感じながら芭蕉という人を見てみると、俳人以外の人が、芭蕉という人を非常に高く評価する原因がなんとなくわかる。私流に解釈すれば、芭蕉がもう一つの芭蕉を常に用意しておった。別の自分を養うことに対する努力を常に惜しまなかった。
――「一年たってもう一度見直す」
■ 俳句入門三十三講|飯田龍太|講談社|1986年09月|文庫|ISBN:9784061587557
★★★
《キャッチ・コピー》
本書は、「雲母」の例会の実作指導のなかから選りすぐった俳論・俳話で、いずれも文学の根源に触れるおもしろさがあり、読者は居ながらにして句会の現場に立ち会うような、しかもその語り口から著者の人柄にも触れることができる、好個の入門書といえよう。
《memo》
2007年2月25日死去。
<百千鳥雌蕊雄蕊を囃すなり 龍太>
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<ただいま再読中の本>橋閒石全句集
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