乙川優三郎■ むこうだんばら亭
「時化ると一日中ここから海見てっだ、晴れても漁から帰ると見てんな、沖のほう見てっと何だか冥土へ引きずりこまれそうな気ィして、おっかなくていらんねえだよ、そっでも見てんな」
「あたしは川ばっかり見てきました、松岸から見える海は川よりちっちゃくて気持ちが届かないし、見にゆくこともできませんでしたから」
「海は毎日ちがァだよ、波がちがァ、色がちがァ、風がちがァ、潮目も空もみんなちがァだ、だからおもしれえし、おっかねえ、
けどもいっとうおっかねえのは陸にいる自分だな、子供んときから海で渡世してきて、気ィついたら何もねえんだわ、サカナ獲って帰ってきても、だあれもいねえ、倅も嬶も仲間も死んでしまって話もできねえ、このさむしい気持ち、陸で生きてきた人には分がんね、いや誰にも分がんね」
――「磯笛」
■ むこうだんばら亭|乙川優三郎|新潮社|2005年 03月|ISBN:9784104393022
★★★★
《キャッチ・コピー》
灯が静かに落ちる頃、行き場をなくした男と女が今日もその裏木戸をたたく。港町銚子を舞台に生の厳しさとぬくもりをしっとり描く。
《memo》
・しっとり、いとおしく、せつない、連作短編集。「磯笛」は傑作。
・ダンバラ波=利根川の流れが銚子口で太平洋とぶつかり、逆巻く大波のこと。
・「いなさ屋」孝助・おたかの前身は、短編「ゆすらうめ」(『椿山』所収)に。
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