乙川優三郎■ 露の玉垣
元禄、宝永、正徳、享保と走り続けたつけが回ってきたのか、五十路の坂を越して発病した彼は病床で寸知の言葉を思い出した。
重い脱力感と熱で朦朧としながら夕暮れの庭を眺めていたとき、急に寒気がして、そのあと地の底へ引き込まれそうな虚しさが押し寄せてきたのである。
いつか来ると予期していながら、悔恨と震えを伴う息苦しさに彼の表情は青ざめていた。そばにいた二男の半之丞が異状に気付いて、
「お休みください、すぐに医者を呼んでまいります」
と言ったが、無駄であった。突然心の奥に現われた空洞を埋められるのは彼自身であったし、蝕むものの正体を知るのもそうであった。
傍目には輝かしい成功を取るに足りないものに見ているもうひとりの自分と、無常という敵を同時に見てしまうと、小左衛門は取り返しのつかない歳月に茫然とした。
力を尽くして成してきたことにはそれなりの意味があるはずであったが、終わってみれば一人の小さな人間が栄達を求めた結果に過ぎないように思われた。
父の死後、まだ食禄ももらえず、中曾根の木戸と正春院の間に構えた自分屋敷で露命をつないでいたころ、寸知と川べりを歩いて流木を拾っていた男が、よい着物を着て、人に敬われ、長く藩政の中心にいることに疑問を抱かずにいられなかった。
――「異人の家」
■ 露の玉垣|乙川優三郎|新潮社|2007年 06月|ISBN/:9784104393039
★★★
《キャッチ・コピー》
大火や洪水、旱魃に見舞われ、藩の財政は常に逼迫していた。困難に立ち向かう者もいれば、押しつぶされる者もいた…。儚い家臣の運命と武家社会の実像を描く連作短篇集。
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