北杜夫■ どくとるマンボウ回想記
たいていの夏を中軽井沢の山小屋で過す。そこは人家の少ない場所である。郵便屋さんはオートバイで来るが、長い距離で大変であろう。
そこで不要の週刊誌とかマンガ本をあげることにしていた。或る夏は躁病で、エネルギーもありオセッカイもやくから、郵便屋さんをねぎらうため、冷い飲物をすすめた。
それも、わざわざ、
「コーラとキリンレモンとどちらがよいですか?」
などと尋ねるのである。〔…〕
妻は食堂の雨戸をあけようとして、そこに散らばっている雑誌にすべり、うつぶせに倒れて顔面を強く打ち、凄い悲鳴をあげた。〔…〕
娘は私が当てにならぬので、とにかく一人で救急車を呼んだ。
やがて救急車がやってきた。その頃には私も目を覚ましていて、妻の出血がかなりのものであることも分かっていたが、やはり半分はモウロウとしていたらしい。
救急車なんて呼んだこともなかった。そんなものがやってきたことが実に申訳ないように思われた。
そこでみんなが妻を運びだそうとしているうち、妻をほったらかしておいて、一人で門の前に止っている救急車のところへ行った。運転手さんが一人だけ、坐席についていた。
そこで私は言った。
「あの、何かお飲みになりませんか。コーラとペプシコーラとどっちがいいですか?」
――妻より強かった頃
*
*
■ どくとるマンボウ回想記|北杜夫|日本経済新聞出版社|2007年 01月|ISBN:9784532165758
★★
《キャッチ・コピー》
世界の海山を駆けめぐり膨大な作品を吐き出したマンボウは、いまは世を捨て何も望むことはない。生と死、時間と空間の輪郭が溶けてしまった、洒脱でちょっととぼけた半生記が写す、もうひとつの戦後文学の豊かさ。
《memo》
わが愛読の3大旅行記。
北 杜夫「どくとるマンボウ航海記」(1960)
小田 実「なんでも見てやろう」(1961)
沢木耕太郎「深夜特急」(1986,1992)
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