小林信彦■ 日本橋バビロン
1940年ごろ、生徒たちが教室を出て、かけつけたのが、学校に近い〈太田牛乳〉である(〈太田ミルクホール〉と呼ぶ者もいた)。〔…〕
牛乳とカレーパン、という選び方もあった。小母さんが食パンを二枚焼いて、一枚にカレーをのせ、その上にもう一枚の食パンをのせて四つ切りにする。カツパンもカレーパンも、親が忙しい家庭の子供にのみ許された美味といえた。木村荘八の回想の中から40年後、〈太田牛乳〉は震災後の町の定点観測の役も果していたのである。〔…〕
木村荘八といえば、彼の回想の中に出てくる〈太田の牛乳屋さん〉は、不動尊の斜め前にあったはずである。
〈太田牛乳〉の看板はなく、〈リトルマーメイド〉というパンのチェーンストアがあった。一階がパン屋、二階が喫茶室になっているらしい。〔…〕
コーヒーを飲み終え、支払いをする時に、「太田牛乳さんはどこかに行かれたのですか」とレジの若い人に訊いた。
「え?」
相手はびっくりして、
「ここの一階は太田牛乳ですよ」
と階段の方を指さした。一階・太田牛乳、リトルマーメイド、と書かれた札が見えた。
私は息を呑んだ。木村荘八の定点観測は現代まで続いているのだ。
「間違いなく、太田牛乳ですが、牛乳だけじゃ商売にならないので、菓子パンを売っているんです」
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■ 日本橋バビロン|小林信彦|文藝春秋|2007年 09月|ISBN:9784163262901
★★★
《キャッチ・コピー》
かつてわが国有数の盛り場でありながら、震災と戦災により、その輝きを失った日本橋。その地の老舗和菓子店「立花屋」。街の歴史のなかに家族の営為を書きとめた、胸うつ「栄華と没落の叙事詩」。
《memo》
前段に以下の記述が……。
――明治42年に両国の土地を去った木村荘八は、震災後の大正13年に、友人たちと明治時代の両国の〈なるべく昔の一軒一軒の家々の有りようを地図にかき入れておいた……〉(「定稿 両国界隈」)。〔…〕
彼が記憶を辿って作った地図の中では、〈太田牛乳〉の名が目立つ。明治半ばは牛乳が珍しかったのだろうか、エッセイの中でも〈太田の牛乳屋さん〉と親しみを込めて呼んでいる。
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