童門冬二■ 師弟――ここに志あり
芭蕉は静かに言った。
「河合さん、わたしの心の中には小さな鏡がありましてね、その鏡は世の中の出来事をそのまま映さないのです。世の中の出来事が鏡に映る前に、いろいろな屈折をしてわたしの心の鏡に届いた時には、違った形で光り輝いているのですよ」
「………」
曾良は無言で首を横に振った。わかりませんという意思表示である。芭蕉は微笑した。そして、
「わたしが句を詠むのは、世の中の出来事そのままではなく、自分の心の底にある鏡に映ったものを詠んでいるのです。あなたは、あの雨の夜の出雲崎で天の河が見えますか〜」
「見えません」
曾良は正直に言った。〔…〕
芸術心が高まっていれば、雨の日本海にも天の河が横たわっているのがはっきり見える。そして、そんな存在のなかった市振の宿でも、同じ屋根の下に遊女が寝ているのだ。それらのすべてが芭蕉のいう〝心の奥の小さな鏡″に映ったものとして実在する。
この長い旅路で初めての師の弟子に対する厳しい教えであった。曾良は動揺した。狼狽もした。泣きたかった。
――芭蕉と曾良
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■ 師弟――ここに志あり|童門冬二|潮出版社|2006年 06月|ISBN:9784267017414
★★
《キャッチ・コピー》
「教える側でもあり教えられる側にもなる」という「師弟の関係」。17組の歴史的「一期一会」を描いた、新しい人間発見の書。
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