出久根達郎■ 萩のしずく
邦子は、しばし茫然とした。
これは、真実だろうか。
あの、姉が。
喀血のことを内緒にしていたのが、悔しいのではない。病気に絶望し、自暴自棄になり、軽はずみな行動をとった点が許せないのである。〔…〕
邦子は桃水の最後の書簡だけは、誰の目にも触れさせてはならぬ、とひそかに竃の火に焼べた。
奈津は奈津ではない。小説家、樋口一葉であった。借金は生活の問題であって、恥ではない。しかし、未婚の娘の私通は、これはふしだらというものであった。金を貸して下さいという手紙は世人の目に触れてもやましくないが、娘から男を誘ったと受け取られかねない文面の文は、残してはいけないのである。邦子にとって偉大な姉を、こんなにも傷つけるものはなかった。
けれども、結婚して子を持つ身になった邦子の、現在の考えは違う。
姉の生涯は薄幸だった。一家のために、一生を犠牲にした。嫁にもならず、母にもなれなかった。でも、たった一度とはいえ、女の喜びを知って、逝った。どんな形であれ、相手がどうあれ、姉が納得ずくで承知した喜びだった。非難することではない。むしろ祝福すべきことであろう。
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■ 萩のしずく│出久根達郎|文藝春秋|2007年 10月|ISBN:9784163262703
★★★
《キャッチ・コピー》
歌人・中島歌子が主宰する「萩の舎」につどった才女たち。のちの樋口一葉もその一人。一葉の友情と恋愛を活写し、文壇デビューまでの知られざる姿を描く快作。
《memo》
それは6月3日の出来事だったという。
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