坪内稔典■ 上島鬼貫
もっとも、詩歌というものは基本的に言葉遊びである。その意味では、言葉遊びを読者に意識させない言葉遊びが、今、鬼貫の句に現れた、と言ってもよい。繰り返すが、この時、彼は宗邇(むねちか)として仕官の望みをともかく果たしていた。そして、年齢も三十であり、もはや若者ではなかった。〔…〕
春の水所々に見ゆるかな
あけぼのや麦の葉末の春の霜
水入れて鉢にうけたる椿かな
さくら咲くころ烏足二本馬四本
桃の木へ雀吐き出す鬼瓦 〔…〕
私はことに「さくら咲くころ鳥足二本馬四本」という句に注目する。
これはまさに目前の現実を詠んでいる。桜の咲くころは人々の心がもっぱら花に向かい、そわそわして現実を遊離しがちになる。それが今でも花時の気分というものだろう。
ところが、そんな時だから逆に、「鳥足二本馬四本」という現実に目をむける鬼貫。ここに俳人・鬼貫の真骨頂があるのではないだろうか。
そして、この現実に注ぐまなざしは、武士にあこがれながらも、結局は武士でなく俳人を選ぶ、という選択を晩年の鬼貫にさせる。
――『大悟物狂』
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■ 上島鬼貫|坪内稔典|神戸新聞総合出版センター|2001年 05月|ISBN:9784343001184
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《キャッチ・コピー》
元禄文化華やかな時代を舞台に、常に自らの殻を破って前向きに生きた「おにつら」という人間の魅力を、俳句を仲立ちとした交遊を通して描く。
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