重松清■ オヤジの細道
だが、ちょっと不思議に思わないか? いまのように飲み物が気軽に買える時代ではなかった「昭和」の頃、オレたち、こんなにたくさん水やお茶を飲んでいたっけ?〔…〕
なぜ、こんなに飲み物なしではいられなくなってしまったのか。一つ考えられるのは、建物の気密性が良くなったために室内が常に乾燥気味になってしまった、ということ。ドライ・アイならぬ、ドライ・喉である。ここで「喉」をとっさに英訳できないところがシゲマツの情けなさである。
だが、それだけでは外出中にも歩き飲みすることの説明がつかない。で、思ったのだ。オレたち、口寂しいから飲み物をだらだら飲みつづけているのかもしれない。〔…〕
あらためて考えてみると、ペットボトルというのは飲み口をガバッと口に含んで飲むことが多い。これって、赤ん坊が哺乳瓶でミルクを飲むのにも似た幼稚な飲み方である。実際、ペットボトルに慣れてしまうと、缶ジュースを飲むのはけっこう難しいんだと思い知らされる。口の端からジュースが垂れて「ヤバッ」とあわてたこと、あなたにだってあるはずだ。
要するに、ペットボトルのだらだら飲みは、日本人の幼稚化の証ではないか、というのがシゲマツ仮説なのである。
――「ペットボトル仮説」
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■ オヤジの細道|重松清|講談社|2008年 01月|文庫|ISBN:9784062759410
★★
《キャッチ・コピー》
ある日、ふと気がつくと中年になっていたシゲマツが、その未体験ゾーンの驚きを語りつつ、同世代にエールを送った「夕刊フジ」の大好評エッセイ。オヤジの歓びと哀しみ、ココロの秘密や如何に?
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