水村美苗◆日本語で読むということ
昔、パリに留学した私は、セーヌ川の西に白い一軒家を構える家にあずけられた。女主人が頼まれて引き受けてくれたのである。彼女が「小母さん」であった。
二十歳の時である。〔…〕
心楽しませてくれるものが山とある。美しい家。おいしい料理。優しい人々。だが一方では、何かが違うという思いがあった。
何しろ家の中に本というものがなかったのである。〔…〕
「オー・ラ・ラー!ミナエがまた読んでる!」
小説を読んでいると、小母さんが感嘆した声をあげた。〔…〕
私は貧しさが本に結びつかないことは知っていた。だが、豊かさは自然に本と結びつくと思っていた。
無知だったのである。
その無知が、驚き、軽侮の念、失望にどこかでつながった。それで、大切にされ、多くを与えられながら、小母さんのような女の人の親切の、本当の深さを知らずにいた。倣慢な心であった。
――「街物語パリ」
*
◆日本語で読むということ|水村美苗|筑摩書房|ISBN:9784480815019|2009年04月
★★★
《キャッチ・コピー》
泣く泣く書くうちに楽しくなったものばかりを収めた一冊。読書や思い出や自分の本にまつわるエッセイ。
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