ノンフィクション100選★誘拐|本田靖春
あせる平塚の目に、保は、ただふてぶてしく映った。自供に追込めなかったら、彼は引責辞職する覚悟でいる。つまり、職を賭しているということになる。 しかし、保はもっと重いものを、調べに賭けていた。それは、自身の生命である。 保には、戦うべき相手が、最低、二人いた。一人は目の前にする平塚であり、残るのは、自殺の誘惑を囁やかけてくる、もう一人の自分である。 装われた無表情の下に、そうした心の動きが揺れているのを、平塚は見抜いていない。 ★誘拐|本田靖春|文藝春秋ISBN:9784163343006|1977年09月 |
ミステリが好きだった。1960年代の松本清張の登場以来の社会派ミステリも、チャンドラーもマクベインもマッギヴァーンも。日本のミステリも欧米並みの分厚いのを読みたいと願っていたが、本当に日本のミステリが分厚くなってしまい、読むのがしんどくなったのはいつ頃からだろう。
東野圭吾『超・殺人事件―推理作家の苦悩』(2001)所収の「超長編小説殺人事件」は、長編ブームで作家は1冊にどれだけの情報を詰め込み水増しするか、出版社も紙・装丁・段組と分厚くするため手段を講じ、エスカレートしていく様が描かれる。
読むミステリは、厚さ制限するわけにいかず、とりわけ好きな“誘拐もの”に限って読むことにした。国内・海外あわせてノンフィクションを含め100冊ほど収集した。わが自慢のコレクションである。ところがあすな峡『誘拐トリックス』(1994)という誘拐小説のガイドブックが現れた。コレクションは全体像が分からないから楽しいのであって、これで興ざめし、“誘拐もの”から遠ざかった。……と、ここまでは長いマクラ。
さて、本田靖春『誘拐』(1977)はノンフィクションの傑作であり、小説を含め誘拐をテーマにした作品のなかでも重要な位置をしめる。1963年の吉展ちゃん誘拐殺人事件をあつかっている。捜査そのものが特異な展開をみせ、犯人小原保と刑事平塚八兵衛という二人の主人公は事件終結後もメディアにさまざまなかたちで取り上げられたが、その原型のキャラクターは本書によるところが大きい。書かれてから30年たつがいささかも古びていない。
あるとき、『疵』(1983)『不当逮捕』(1983)『警察回り』(1986)『戦後』(1987)など約10冊の本田靖春の本をネット・オークションで売ったことがある。落札者の住所を見ると某全国紙の大阪本社だった。若い記者(?)に読み継がれることになり、嬉しかった記憶がある。
しかし本田靖春といえば『我、拗ね者として生涯を閉ず』(2005)である。「かつて、社会部では噛みつくことがよしとされた。噛みつくというのは、弱者である若手が、自分よりも強い上位者に向かって、非を鳴らすことである」と書き、「組織が大きくなればなるほど、個が強くならなければならない」という名言を残した。
「できないなら、せめて、野糞のようになれ――というのが私の主張であった。〔…〕、踏みつけられたら確実に、その相手に不快感を与えられる。お前たち、せめてそのくらいの存在になれよ、――と訴えたのであった」。
1984年に生島治郎との対談で、こんな発言。「他人のことばつかり書いててさ、いわばアバいて、自分が無傷でいるわけにいかんじゃないかっていう気持ちもあるんだよな。〔…〕この商売やってて最終的に書くことは何だっていったら、やっぱり自分のことだと思う。〔…〕オレにとっては差し迫った大きな宿題だな、これは」。(『戦後の巨星二十四の物語』2006)
その宿題が「これを書き終えるまでは死なない、死ねない」と語っていた体験的ジャーナリズム論『我、拗ね者として生涯を閉ず』であろう。糖尿病のため両足切断、右眼失明、肝がん、大腸がんという大病と闘いながら、この遺書ともいうべき“自伝”を書き続けた。最終回を残し、2004年12月死去。
なお、選集に『本田靖春集』全5巻(2001~2002)がある。
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