司馬遼太郎●坂の上の雲(七)
日本においては新聞は必ずしも叡智と良心を代表しない。 むしろ流行を代表するものであり、新聞は満州における戦勝を野放図に報道しつづけて国民を煽っているうちに、煽られた国民から、逆に煽られるはめになり、日本が無敵であるという悲惨な錯覚をいだくようになった。 日本をめぐる国際環境や日本の国力などについて論ずることがまれにあっても、いちじるしく内省力を欠く論調になっていた。 新聞がつくりあげたこのときのこの気分がのちには太平洋戦争にまで日本を持ちこんでゆくことになり、さらには持ちこんでゆくための原体体質を、この戦勝報道のなかでで新聞自身がつくりあげ、しかも新聞は自体の体質変化にすこしも気づかなかった。〔…〕 日本の新聞はいつの時代にも外交問題には冷静を欠く刊行物であり、そのことは日本の国民性の濃厚な反射もあるが、 つねに一方に片寄ることのすきな日本の新聞とその国民性が、その後も日本をつねに危機に追い込んだ。 ――「退却」 |
●坂の上の雲(七)|司馬遼太郎|文藝春秋|1978|文庫|評価=○
<キャッチコピー>
各地の会戦できわどい勝利を得はしたものの、日本の戦闘能力は目にみえて衰えていった。ロシア軍が腰をすえる奉天を包囲撃滅しようと、日本軍は捨て身の大攻勢に転じた。だが、果然、逆襲されて日本軍は処々で寸断され、時には敗走するという苦況に陥った。
<memo>
「シナは、日露戦争におけるどちらの敵でも味方でもない。むしろ戦争の場所を提供したという点では被害者側であった。日露双方は開戦にあたって北京の清国政府に対し、戦場として貴国の領土を借りるという申し入れはした。〔…〕あいさつ程度であった」(「退却」)
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