司馬遼太郎●坂の上の雲(六)
立見尚文が弘前では永く「軍神」として慕われていたということを、筆者はこのくだりを調べているときに知った。 が、歴史というものは、歴史そのものが一個のジャーナリズムである面をもっている。 立見尚文は東北のいろり端でこそ「軍神」であったが、他の地方ではほとんど知られていない。 突如妙なことをいうようだが、林屋辰三郎氏の表現を拝借すると、歴史上の人物で宣伝機関をもっていたひとが高名になる。 義経は「義経記」をもち、楠木正成は「太平記」をもち、豊臣秀吉は「太閤記」をもつことによって、後世のひとびとの口に膾炙した。〔…〕 乃木希典はそういう点でめぐまれていたが、立見尚文は乃木の場合のように長州閥の恩恵を過分に浴するということがまったくなく、何度かふれたように旧幕系の人であり、明治陸軍のなかでは孤独な存在であった。 ――「黒溝台」 |
●坂の上の雲(六)|司馬遼太郎|文藝春秋|1978|文庫|評価=○
<キャッチコピー>
作戦の転換が効を奏して、旅順は陥落した。だが兵力の消耗は日々深刻であった。北で警鐘が鳴る。満州の野でかろうじて持ちこたえ冬ごもりしている日本軍に対し、凍てつく大地を轟かせ、ロシアの攻勢が始まった。左翼を守備する秋山好古支隊に巨大な圧力がのしかかった。
<memo>
陸軍の戦闘話にだれ気味な(六)巻に、明石の諜報挿話が入る。「明石[元二郎]は晩年、『往時をおもえば、胸がいたむ』と、しばしば述懐した。かれとともに欧州を舞台に反露運動をやった多くの志士たちはあるいは非業に斃れ、あるいは捕縛されてシベリアに送られ、生死の消息もわからなくなった。〔…〕かれにとって戦友というのは日本軍人ではなく、ロシア人であり、フィンランド人であり、ポーランド人であった」(「大諜報」)
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