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2010.02.08

ノンフィクション100選★神楽坂ホン書き旅館|黒川鍾信

Nonfiction100

2002

和可菜の看板を下ろしてしまえば、神楽坂の小さな横丁にある建物のひとつに過ぎなくなる。

私は、再度あせった。そうなる前に、小さな旅館の小さな歴史を書きたかったからだ。「勉強中」のホン書きにプロデューサーや編集者から電話やファックスが入ってくる営業中の和可菜の帳場で、私は敏子から話を聞き、それを軸に物語をまとめたかった。〔…〕

「物ごとには、初めがあるように終わりがあります。自分からいつやめるなど決めてはいけません。

そのときは自然とやってくるものです。それまでお互いに頑張りましよう」

閉館を相談した敏子に、山田洋次はこう言った。

この言葉に勇気づけられ、敏子は「そのとき」がくるまで営業を続ける決心をした。

★神楽坂ホン書き旅館|黒川鍾信|日本放送出版協会 |ISBN9784140806944 200205

黒川鍾信(くろかわあつのぶ)『神楽坂ホン書き旅館』(2002)は、新宿区神楽坂4丁目の露地の奥にたたずむ旅館「和可菜」の半世紀のわたる物語である。この小さな旅館で映画やテレビの脚本=ホンの名作がいくつも生まれた。

「和可菜」の女将は和田敏子、オーナーは姉・和田つま(女優・小暮実千代)、著者はその甥にあたる。

一般に旅館の客は、夕方に着き翌朝出る。しかしホン書き旅館は、「寝たいときに寝て、食いたいときに食い、飲みたいときに飲むという、動物にたとえるならば自分勝手で孤独を好むネコ型である。間違っても集団の中でそこの掟を忠実に守って生きてゆくイヌ型はいない。そういうネコ型人間を泊めたり食わせたりするとなると、旅館全体をネコ用にしなければならない」(本書)

今井正、内田吐夢、浦山桐郎、山田洋次、渡辺祐介、鈴木尚之、村松道平、野坂昭如、石堂淑朗、早坂暁、市川森一、竹山洋などのエピソードとともに、あっけらかんとしたオーナー小暮実千代、きりりとした女将、猫好きの女中頭カズさんなど多彩な人物が登場する。山田洋次一行を定宿として迎える際の動きに旅館経営の真髄をみることができる。日本映画の一断面を伝えるとともに、「和可菜」へのあたたかさあふれる一書で、気持ちいい読後感がある。

なお、本書には結城昌治のくちなし句会が「和可菜」を常時利用していた記述もある。結城昌治『俳句は下手でかまわない』(1989)の文庫版解説で編集者・小田島雅和は、「結城さんは句会を休まなかった。酸素吸入器を車に積んで神楽坂にやってきた」と晩年の模様を書いている。

「和可菜」と同じ1954(昭和29)年に開業したのが、千代田区神田駿河台1丁目の山の上ホテル。「山の上です/明日のために/今日をすごす/ところです」など、「文藝春秋」誌上の広告、オーナーがつくったキャッチコピーで知られているホテルである。常盤新平『山の上ホテル物語』(2002)は、ホテルのスタッフへの取材から、多くの作家に愛されたホテルの魅力を描くが、まぁ、率直にいって宣伝本。著者の畏敬する池波正太郎、山口瞳の記述はやや詳しい。

 多くの文人に愛された旅館に、1892(明治25)年、藤沢市鵠沼(くげぬま)海岸に創業した割烹旅館「東屋(あづまや)」がある。元新聞記者・高三啓輔『鵠沼・東屋旅館物語』(1997)は、現存する日記を掘り起こし斎藤緑雨と女中・金澤タケの恋、武林夢想庵と中平文子の結婚、和辻哲郎と妻の照、友人阿部次郎の三角関係など“鵠沼の恋”の挿話をまじえ、1939(昭和14)年東屋廃業までを詳細に描く。「何といっても“文士宿”とまで呼ばれてゐただけに現文壇の大御所菊池寛、久米正雄氏をはじめ武者小路実篤、川端康成、吉屋信子諸氏や故人となった芥川龍之介氏が御常連で特に武者小路実篤氏は大の同館贔屓で〔…〕、この名物あづまやの廃業は各方面から非常に惜しまれてゐる」(「東京日日新聞」湘南版)

 菊富士ホテルは、文京区本郷菊坂に大正3年に開業し昭和19年まで続いた。場所柄、学生のための下宿としてスタートし、一時は帝国ホテル、東京ホテルとともに外人客に通用するホテルであったが、のちに文人たちの“高等下宿”となった。近藤富枝『本郷菊富士ホテル』(1974)は、大杉栄、谷崎潤一郎、竹久夢二、宇野浩二、広津和郎などが登場。「菊富士ホテルは妻を愛せない夫の逃避場所、また妻の目をかすめて新しい恋を忍んで楽しむ夫たちの隠れ場所に、この後も度々文壇の人たちに利用された」。「暗い玄関には大きな下駄箱がならび、応接間には不釣合いなほど大きな油彩の女人像があったが、大正の中ごろ竹久夢二という画描きが、宿料の代りに置いていったもの」と著者は書く。

なお黒川鍾信には『木暮実千代――知られざるその素顔』(2007)があり、日本映画側面史としておもしろい。

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