村田喜代子●蕨野行(わらびのこう)
ヌイよ、おめの姿が入ってきた。 ミノ、カサもつけず、この雪の中を参りたるにも普段着のままなり。結うた髪は艶々と黒く、頬は桃の花のよにぼうと染み、外の雪の照りであやしく薄明るい小屋の中がたちまち若え嫁の華やぎに明るめる。 「お姑(ババ)よい。迎えにきたなれば、今からおれが背負うて帰ろう」 と言う。〔…〕 「おお、このババはおめを騙しつるよ」 とおれは涙を流しながら言うた。 「野入りの別れに、おめが子だちのごとく泣くなれば、二度と帰らぬことを教えるのもむごきなり。〔…〕まことはワラビ野に帰途の道は無えなりよ」〔…〕 「早去ねよやち。おめは人の世に棲む者にして、ババはこの野に在る者なり。おめがいとしさに言うなるよい。ヌイよ。去(い)んで馬庭のかかの務めを果たせやち。子を生めやち。モミ種を播けやち」 と、おれはよくよく言うた。 「そして、おれに逢いたくばワラビ野の丘を眺めよ。 やがて来年の春となれば、雪解けの内より吹いたるワラビこの、綿毛の渦巻きン中におれの白髪が覗きつろう。めぐりくる春にさきがけて、魂魄となりておめ等を守りて有りつる」 |
●蕨野行(わらびのこう)|村田喜代子|文藝春秋|ISBN:9784167318031|1998年11月|文庫|評=◎ぜったいおすすめ
<キャッチコピー>
蕨野―。そこは60歳を越えるとだれもが赴くところ。あの世とこの世の間に宙吊りにされたジジババたちの、悲惨で滑稽、なおかつ高貴な集団生活。死してなお魂の生き永らえる道はあるか? 平成日本によみがえる衝撃の棄老伝説。
<memo>
映画「蕨野行」(2003、監督恩地日出夫)をBSで見て、あわてて原作本を探した。村田喜代子「蕨野行(わらびのこう)」は、深沢七郎『楢山節考』(1957)から37年後の1994年に発表された“姥捨て”をテーマとした小説である。
山里にある村には“野入り”という掟があり、60の歳を迎えた老人は村を出て、半里ほど離れた蕨野(わらびの)に住む。ワラビ衆は日々の糧を得るために里へ農家の手伝いにでる。その年、8人のジジババがワラビ衆となるが、村を凶作が襲う。
主人公の姑のレンと嫁のヌイとの“相聞歌”のようなやりとりで進行する。長編詩、韻文劇のようだとの評もあり、声を出してゆっくり読むか、朗読で聴くのがいいかもしれない。
文庫版解説で辺見庸は「いったん読んだら、人も光景も胸底深くに着床してしまい、語りの残響から容易なことでは逃れることができない。『蕨野行』は、その誕生時から、永く読み継がれるべき「古典」の座を約束されていたのかもしれない」と最大級の賛辞をおくっている。オーバーではない。こんな名作があったとは……。
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