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2010.02.05

佐伯一麦●からっぽを充たす――小さな本棚

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本を読まない間にも、本を読んでいた。そう思われるような経験をしたことはないだろうか。

例えば、ずっと手元に置いてはいたものの、手に取るきっかけがないままに積ん読しておいた本を、何かの拍子で読み始めると、はじめて読んだとは思えないぐらいに、自分の中ですでに馴染みとなっている。

または、以前はまるで歯が立たなかった本が、長い時間を置いて読むと、自然と意味がたどれるようになっている、というような。

私の場合は、前者なら吉田健一の評論などが当てはまるし、後者は何といっても古典文学がそうである。高校の授業では退屈だった『源氏物語』をはじめとした古典が、今では折に触れては読み返す、無くてはならない本となっている。

おそらく、口語が隆盛を極めている現代にあっても、知らず知らずのうちに、文語というものも、わずかずつながら人の言語生活の中に入り込んではいるのだろう。

その見えない積み重ねと過去とつながる経験とが、文法抜きでの古典の理解につながったにちがいない

――「読まない本も読んでいる」

●からっぽを充たす――小さな本棚|佐伯一麦|日本経済新聞出版社|ISBN9784532167134200911月|評=○

<キャッチコピー>

本とは単に文章を読むものではない。装幀、肌触り、活字の風合いまで、本が置かれている場所の空気すべてを織り合わせたタペストリーである――そんなことを立ち止まって考えさせる滋味豊かな百篇の読書エッセイ集。

<memo>

1冊の本にまつわる話。わずか1000字に満たない短文でしっとりとさせる。書評、読書感想文でないところがいい。愛用している辞書に関する一文に「パソコンで辞書を引くときには「大辞泉」も利用している。俳句の用例が多いので、風物を説明するよりも、俳句が上手く一首、用例の中に入っていることで深く納得させられる」とある。この「大辞泉」はyahoo!の辞書検索である。

佐伯一麦■ 散歩歳時記

 

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