ノンフィクション100選★追われゆく坑夫たち|上野英信
しかし、昭和34年6月、ついにこのS炭鉱もつぶれた。〔…〕もはや凶器をかまえて外来者をおしはばむ者の影はみあたらない。〔…〕 株式会社という帽子をかぶった暴力団であり、事業所という壁をめぐらした監獄であり、従業員として登録された囚人であり奴隷であるという点で、 なんといっさいの中小炭鉱は似ていることか。〔…〕 坑内の保安検査にやってくる鉱山保安監督官の眼をごまかすために、保安状態のわるい現場や鉱区外の盗掘箇所に通じる坑道を崩壊させて密閉し、たびたび作業中の坑夫たちを生き埋めにしてきたという事実である。 後でふたたび掘りあけて救出しているのだから文句はあるまいと会社側は主張するだろうが、もし密閉されているあいだに事故が起ったとすれば一体どうなるのか。 ★追われゆく坑夫たち|上野英信|岩波書店|ISBN:9784004150244|1960年8月 |
上野英信は、かつて九州の中小の炭鉱で坑夫として働き、のちに廃坑長屋に居を構え「筑豊文庫」を開設し、炭鉱の語り部として、記録文学の書き手として、活躍する。『追われゆく坑夫たち』(1960)は、石炭から石油へとエネルギー転換の時代に、炭鉱の底辺で働く坑夫とその家族の生活実態を描いたノンフィクションである。今や忘れられた“つい昨日”の日本である。1960年代をなつかしく回顧する世代の背筋を凍らせる一書である。
上野の息子である上野朱(あかし)『蕨の家――上野英信と晴子』(2000)は、父と母について書かれた短いエッセイを集めたもの。そこに「『追われゆく坑夫たち』が同時代ライブラリーの一冊として新装なったとき(=1994)、その本の帯に印刷された「昔、日本には貧乏があった」というコピーを見て「こんなことを言わないとわからない時代になったのね」と母は溜息をついた」とある。
上野英信『地の底の笑い話』(1967)のなかで著者は、筑豊の炭鉱労働者から『追われゆく坑夫たち』はなぜ真実を書かなかったと批判されたと記述をしている。
――圧制ヤマの労務係が食物もなくて寝ている坑夫の家を訪れ、袋に入れた米をみせて「入坑する者にはこの米を与える」とそそのかし、せめて一食でも我が子に米を食わせようという親心から、坑夫たちはよろめく足をふみしめて入坑してゆくと書いた。〔…〕
そのような卑劣な手段で労働者を坑内に追いこんだ後、労務係はふたたび米袋をさげて家を訪れ、米と交換に彼の妻の肉体を奪うのだという。「なぜそれを書かなかったのか。それを書かなければ、ほんとうのことを書いたことにならないではないか」 (同書)
『地の底の笑い話』の扉には、
歌は唖(むご)にききやい
道ゃめくらにききやい
理屈ゃつんぼにききやい
丈夫なやちゃいいごつばっかい
という鹿児島の俚諺がかかげてある。
これは、「真実の歌がうたえるのは口のきけない人間だけである。真実の道が見えるのは眼の見えない人間だけである。真実の理論を知っているのは耳の聞こえない人間だけである。五体五感の健全なやつの言葉など、口さきのたわごとに過ぎない。ゆめゆめ信用してはならないぞ、と厳しく戒めたもの」(「闇のみち火」)だそうだ。
そして『追われゆく坑夫たち』から14年後、炭鉱を離職して南米に移住した坑夫を訪ねて、メキシコ、ブラジル、パラグアイ、ボリビア、アルゼンチンを訪れる。「われら棄国の民」というタイトルで雑誌連載後、『出ニッポン記』(1977)という大冊のノンフィクションが出版される
――その間にもヤマを追われた労働者の流浪はとどまるところを知らず、なかには最後の希望を中南米に托して、はるばる万里の潮路を渡った者も少なくない。その数はおよそ2千家族といわれているが、じっさいには大きくこれを上回る数であろう。
死にかわり生きかわり、えいえいと暗黒の地底でこの国のエネルギーをささえた“火の民”に対する、これが日本資本主義の最大の報償であったとすれば、世界に冠たる棄民の論理もまたここにきわまれりというほかはない」(同書あとがき)。
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