ノンフィクション100選★トップ屋戦士の記録|梶山季之
小野が、そのことに気づいたのは、たしか去年の春の園遊会がキッカケである。皇太子は、このG大学主催の園遊会に、卒業生として非公式に出席されたのだった。〔…〕 小野も一緒になって模擬店を歩き、大いに食ったり飲んだりして、この半日を楽しんだのだったが、しかし常に、視野の片隅には、皇太子を意識していた。それは皇太子が、愛用のカメラを構えて、しきりに若い女性のスナップを撮っているからだった。 〈彼が興味をもつ女性とは、いったい、どんなタイプの女性なんだろう?〉 〔…〕
皇太子がある特定の女性ばかりを狙っているような気がしてきた。小野のカンに狂いがなければ、皇太子が狙っているのは、薄いブルーのワンピースを着た、面長で色の白い女性のようであった。 〈これは面白いゾ!〉 ――「話題小説 皇太子の恋」(「週刊明星」1958年11月16日号) ★「トップ屋戦士」の記録――無署名ノン・フィクション|梶山季之|季節社・発行/祥伝社・発売|1983 |
『「トップ屋戦士」の記録――無署名ノン・フィクション』(1983)は、「週刊明星」「週刊文春」に1958~1960年の3年間に梶山季之が無署名やペンネームで書いた記事30篇を集めたもの。
そのノンフィクションの中に梶謙介名義の“話題小説”「皇太子の恋」がある。末尾に「お断り・この作品は純然たる創作でモデルはありません。(作者)」とある。じつは“小説”であること自体が、時代の証言なのである。
『正田美智子さんは皇太子妃か?』という、クエスチョンマークつきの一大特集記事を組む手筈の「週刊明星」の社長に、小泉信三博士が掲載中止の申し入れをする。雑誌には報道協定はない、かつ記事は“?マーク”つきであると反論するが、「彼女は“本命”であり、いま記事にされると良縁が立ち消えになる」と“皇太子妃の第一候補者”であることを小泉博士は認めてしまう。
のちに梶山は、「特集のトップ記事が、さし止めになったが、締切りのギリギリの日なので、どうにも穴を埋められない。それで私が、梶謙介のペンネームで、『皇太子の恋』と題する“小説”を、神田の旅館で執筆して、その穴を埋めた」(「皇太子妃スクープの記」1968)と書く。
梶山季之『昭和人物伝――ノンフィクション選集(4)』(1986)の解説で岩川隆は書いている。「いま読めば内容もたあいないもののように思われるが、当時は皇太子殿下が恋をしているなどということ自体が驚天動地のことで、この小説はまぎれもない “スクープ小説”であった。新聞社側が切歯扼腕したのはいうまでもない。新聞ジャーナリズムとはべつのジャーナリズム、マスコミが誕生し、以後の出版社系週刊誌が興隆していったことを思うと、エポックをなす“新聞協定破り”の記念碑的な小説として読んでもおもしろい」
小説の上掲場面は以下を材料としている。「皇太子殿下と美智子さんとが知り合われたのは、軽井沢のテニス場だということであった。そして32年秋の、東宮職員写真展には皇太子殿下も数枚のスナップを出品され、その中の2枚に、美智子さんの顔が写っていたという。記者は、軽井沢に支店をもつT写真館を訪ね、皇太子と美智子さんの写真を見せて貰い、ますます確信を深めてゆく」(「皇太子妃スクープの記」1968)。
なお、出版系週刊誌ブームは「週刊新潮」(1956年創刊)に始まる。「週刊明星」(1958年創刊)は当初芸能誌ではなかった。当時“トップ屋”とよばれた週刊誌ライターは、梶山季之、草柳大蔵、竹中労、五島勉、吉原公一郎など。これに続くルポライターに、岩川隆、小堺昭三、鎌田慧、猪野健治、茶本繁正などがいる。
徳間文庫版ノンフィクション選集は、1=『日本の内幕』、2=『実力経営者伝』、3=『日本事件列島』、4=『昭和人物伝』(「皇太子の恋」再録)、5=『ルポ日本縦断』(1985~86)の5巻。
梶山季之は小説家に転身し、企業小説、風俗小説でたちまち流行作家となる。また1971年、“活字にならなかったお話の雑誌”『月刊噂』(高橋吾郎編集長)を創刊する。1974年3月号まで32号続いた。梶山季之資料室編『梶山季之と月刊「噂」』(2007)によれば、赤字6,600万円。
1971年12月「オール読物」に掲載した梶山のエッセイには……。
――去年、私の所得は、印税を含めて約7,000万円であった。この金額を見ると、世間の人は、さぞポルノ小説で稼ぎまくった……と思うだろう。去年、私が書いた原稿は10,400枚だと云う。しかし、税金をとられ、私の手許に残ったのは、1,700万円で、その上、過去3カ年に遡っての調査を受け、1,200万円の追徴金をとられたから、実質に残った収入は、たった500万円にすぎない。1万枚書いて、500万円の純利益! この中から大宅文庫に250万円寄附したから、私の家族は、残りの250万円で生活していることになる。
1975年5月、ライフワークである長編小説『積乱雲』の取材のために訪れた香港のホテルで突如吐血、食道静脈瘤破裂と肝硬変で死去。45歳。「その死を、彼ほど編集者から哀悼された作家は古今にない」(山田風太郎)
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