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2010.05.04

ノンフィクション100選★転がる香港に苔は生えない|星野博美

2000

香港のことを考える時、いつも思い出す言葉がある。それはもうすぐ閉鎖される調景嶺で出会った、元密航者の男がいった言葉だった。香港のどんなところが好きなのかと尋ねた時、彼はこういった。

「ここは最低だ。でも俺にはここが似合ってる」

そのセリフを聞いた時、自分にはそんな愛に満ちたセリフをいえるだろうかと思った。

日本は「いい」国で、自分には合っている。それならもっと幸せそうにしていてもいいはずなのに、この憂鬱な感じは一体何なのだろう?〔…〕

香港という街の生い立ちは不幸だ。

しかし東と西、左と右、資本主義と共産主義、個人主義と家族制度、合理性と伝統、考えつく限りのありとあらゆる矛盾を彼らは呑み込み、黙って受け入れるふりをして、まんまと他に類を見ない美味しいスープに仕立ててしまったのである。

鍋の底にどんな材料が沈んでいるかなど、いちいち誰も気にはしない。スープは美味しければそれでいいのだ。

★転がる香港に苔は生えない|星野博美|情報センター出版局|ISBN9784795832220200004

星野博美には、中国・香港を扱った三つのノンフィクションがある。どれも好ましい作品だ。

1作は、『謝々!チャイニーズ―中国・華南、真夏のトラベリング・バス』(1996) で、改革解放に沸く鄧小平クロネコ・シロネコ時代の199294年の中国、ベトナム国境東興から北上し寧波(ニンポー)までの海岸線をバス旅行したもの。「私はどの街へ行っても、最初の一日はとにかく街じゅうを歩き回り、気に入った場所を探すことにしている。〔…〕何日も見つからないと、私はその街に入ることができない。物理的には入っていても精神状態が宙ぶらりんになる。気に入った場所が見つかり、そこへ通うようになると、その周辺で暮らす人々は私の存在を無視できなくなる。もともと他者への好奇心が強い人たちだ、気になって仕方がない。あんた、そこで何してる。そうして出会いは生れた」(本書)。第8章寧波(ニンポー)は、圧巻。

 第2作は、本書『転がる香港に苔は生えない』(2000)で、199771日、香港返還を中心に2年間の香港での生活が描かれる。返還日当日のレポートもさりながら、わたしは生活の拠点である鴨寮街198号唐三楼(B房)の古アパートの生活が興味深かかった。この鴨寮街は、家電製品を売る電器屋の固定店舗と電池など付属品を売る固定式屋台が並ぶ。さらにパラソル式露店がキッチン用品などを売る。これらが店仕舞いすると、道路に古本、骨董などの夜の古物市が12時まで店を開く。そして朝の5時からビニールシートを敷いてゴミの市ともいうべき朝市が始まる。この一本の道路は120時間近く稼動するという。

著者は書く。「時々思う、よくあの街で2年間正気を保っていられたな、と。しかし私は正気を保っていられたどころか、案外ハッピーだった。あの街には、物理的な閉塞感や街の成り立ちのシビさを帳消しにしてしまう、何か救いのようなものがあった。それは人の体温、風通しのよさだった」。

 なおタイトルの『転がる香港に苔は生えない』の意味は、「日本人は、やはり千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで変わらない安定を望む人々」であり、しかし「苔など生やしている場合ではない」というところからきている。

 第3『愚か者、中国をゆく』(2008)は、さかのぼって天安門事件の2年前、19875月からの1ヶ月、香港・中文大学留学時代に、級友で21歳、同年齢のマイケルというアメリカ人と列車でシルクロードのウイグルまでの二人旅の記録である。「硬座(二等座席)に乗ると、心が壊れる」とアレックスという学生に忠告を受けていたのに、バックパッカーとして「金をかけなければかけないほど、旅は刺激に満ちたものになる」と。本書は、“鉄道切符”を通じて中国という社会システムを考察するとともに、マイケルという青年との私小説的やりとりのロードノベルともいえるもの。

 

なお、星野博美は橋口譲二に師事したカメラマンであり、写真集に『華南体感』1996)、『ホンコンフラワー』(2000)がある。

またエッセイ集『銭湯の女神』(2001)では、こう書く。「日本人が下品になった、と感じられるのは、その空間の空気を感じとる能力がなくなった、つまり鈍感になったことが原因だと私は考えている。日本人は下品になったというより、鈍感になったのだと思う」 

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