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2010.05.25

ノンフィクション100選★漫画に愛を叫んだ男たち|長谷邦夫

2004_2

平成4924日、寺田ヒロオの死が報じられた。

酒を飲み続け、食事をろくに摂らぬ生活を続けた末の衰弱死だ、と赤塚は言った。

「手塚先生の本葬のとき、奥さんが彼の代理で来てたんだよ」〔…〕

「うちの人の生活、どうしたらやめてくれるんでしょう。赤塚さん助けてくださいって言われたんだ。でも、おれに助けろと言われても、おれ自身が依存症だものなあ…」〔…〕

依存症か……。

ぼくも、こうやってのこのことスタジオへやって来てしまうのは〈赤塚不二夫依存症〉なのかも知れない。

赤塚が事務所の奥のキッチンに置いてある大型の製氷機を掻きまわし、ダイヤアイスをグラスに入れ、焼酎とサワーをつぐ音が聞こえてくる。まだ昼の2時だ。ぼくはいたたまれなくなってスタジオを出て、新宿へ向かった。

それっきり、ぼくは二度と下落合のフジオ・プロダクションへ行っていない。

★漫画に愛を叫んだ男たち|長谷邦夫|清流出版|ISBN9784860290757200405

手塚治虫担当として、また初期のトキワ荘に住む漫画家を発掘、育てた講談社の編集者、丸山昭『トキワ荘実録』(1999=「まんがのカンヅメ」1993を改題)に、「リボンの騎士」執筆中の手塚治虫を三人の少年が訪ねてくる場面がある。

――訪ねて来た三少年は、外でじっと立ったまま、何としても帰る気配を見せません。やがて、勇を鼓したようにドアの外から、

「先生、ぼくたち石森章太郎と赤塚不二夫と長谷(ながたに)邦夫です」〔…〕

石森と名乗った少年はイガグリ頭の丸顔でニキどの花盛り、白の開襟シャツに腰手ぬぐい。赤塚少年は色白のほっそりやさ男風でひかえめ。長谷少年は一番おとなっぽくめがねをかけて、顎の張ったとっつぁんボーイ。

1955年のことである。その4年後に、週刊少年漫画誌「少年マガジン」(講談社)「少年サンデー」(小学館)1959年同時に創刊され、ライバルとして熾烈な戦いを繰り広げることになる。1950年代後半が、“漫画家の梁山泊”トキワ荘の最盛期である。

長谷邦夫『漫画に愛を叫んだ男たち』(2004)は、その三少年のひとり長谷の半自伝であり、赤塚不二夫の伝記でもある。トキワ荘、漫画誌、漫画家についての著作は、漫画家自身や編集者によって無数に書かれている。長谷は自ら漫画を描くが、同時に赤塚のアイデアスタッフであり、マネージャーであり、ゴーストライターである。この立ち位置が興味深い。

 1969年、事件は起こる。「彼は突如として「週刊少年マガジン」で人気急上昇中の『天才バカボン』を、こともあろうに最大の対抗誌「少年サンデー」に移籍連載すると言い出したのである」(同書)。

以下、赤塚不二夫に焦点をあて、「天才バカボン」引き抜き事件を記述する。

大野茂『サンデーとマガジン――創刊と死闘の15年』(2009)に、引き抜いた側、「少年サンデー」当時の編集長、高柳義也の話がでている。

「夢にも思いませんでしたよ。いやいや、引っ張ったわけじゃないですよ。〔…〕本当に赤塚ギャグのことを分かってあげているのは、サンデーだという自負もあった。〔…〕だから赤塚さんはね、帰ってきてくれたんじゃないかと思いますよ」

 当時、「少年サンデー」はメジャー漫画家やトキワ荘出身正統ギャグ漫画路線、「少年マガジン」は原作と画の分離、劇画路線であった。

「少年サンデー」赤塚番の武居俊樹は、『赤塚不二夫のことを書いたのだ!!(2005)でこう書いている。

――講談社に談判に乗り込む時、赤塚は長谷を連れて行った。とても一人で、獅子の檻に飛び込む勇気はなかった。講談社の一室で、内田と宮原を前に、赤塚は頭を下げ、『バカボン』の移籍を告げた。

赤塚は、内田の一言を聞いて、我が耳を疑う。

「結構です。どうぞ」

内田は、そう言っただけだった。いくらヒットしている作品でも、なくてはならない作品でも、描きたくない作家に描いて貰わなくてもいい。内田の編集者としての意地だったと思う。

宮原の対応は違った。

「そんなことすると、この世界で住めなくなりますよ」

いかにも宮原らしい脅しの言葉だ。

 引き抜かれた側の編集長、内田勝は『「奇」の発想――みんな「少年マガジン」が教えてくれた』(1998)でこう書く。

――「じつは『サンデー』が毎号80頁を、“赤塚不二夫の編集する頁”として提供してくれることになり、ついては『天才バカボン』も『マガジン』から『サンデー』に持っていきたいのだが……」と、強ばった面持ちで告げた。

ぼくは寸秒も置かず、「結構です。どうぞ」と答えた。〔…〕

赤塚さんが『マガジン』に勝てるか、『マガジン』編集部が赤塚ギャグに勝てるか、それは“男の勝負”というものだ。

同じくマガジンの副編集長、宮原照夫は『実録!少年マガジン名作漫画編集奮闘記』(2005)で、この事件に直接触れず、「天才バカボン」について、こう書いている。

――家庭生活をベースにおいて、あれだけのナンセンス・ギャグを、よくぞ連発できたものだ。赤塚不二夫、絶頂期の作品ではあった。ただ、『マガジン』から『サンデー』に移って作品価値を貶めてしまったことは、返す返すも残念と言うしかない。

 「天才バカボン」はその後も数奇な運命をたどることになる。

さて、「赤塚不二夫」というのは一つのブランド(商標)である。本家本元の漫画にしても、赤塚と長谷邦夫、古谷三敏、担当編集者が「アイディア会議」でストーリーやギャグを決め、そのあと赤塚がネーム(コマ割りとセリフ)とアタリ(ラフな下描き)を作成し、高井研一郎と古谷(のちにあだち勉など)が下絵を完成させるという分業制である。そのメンバーはつぎつぎ去っていく。

 紆余曲折を経て、上掲の長谷邦夫も〈赤塚不二夫依存症〉からの訣別のときがくる。武居俊樹『赤塚不二夫のことを書いたのだ!!は書いている。

――赤塚は、早い時期から、長谷が好きではなかったと思う。作品のために、我慢してつきあってきた。しかし、この頃から赤塚は、こらえ性がなくなり、一緒にアイデアをやることさえ苦痛に思うようになっていた。

平成4(1992)年、長谷は、赤塚と袂を分つ。40年のつきあいだった。〔…〕しかし、長谷のスペアはいない。何も言わなくても赤塚のことを判ってくれ、苦言を呈する人が、フジオ・プロから一人もいなくなってしまったのだ。

赤塚不二夫は、2002年に倒れ、意識が回復することなく、2008年に死去するまで眠り続けた。

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