淀川長治◎私の映画遺言――淀川長治自伝補
その映画館の裏の板べいには、大きなペンキ文字で「松本座」と書き込まれた松のマークがあって、それが目に入ると、さあここからがいよいよ新開地だという嬉しさがこみあがってくるのであった。 この松本座は、申し訳ないことに「ええとこ、ええとこシューラッカン、わるいとこわるいとこマツモトザ」などという流行語まであったように、 かみての聚楽館の豪華さに比べ松本座のきたなさというわけだった。〔…〕 ところが松本座が、こともあろうに当時ハイクラスの注目のユナイトの専門館になったので、私はびっくりした。そしてナジモヴァの『サロメ』を封切った。大正12年(1923)11月ごろであったと思う。〔…〕 とにかく“パンとラムネ”“おかきにヤツハシ”“スルメにミカンスイ”と呼び上げて売り歩く松本座のスクリーンに『サロメ』が映写されるや、私は胸を熱くした。 このナジモヴァの『サロメ』を、この赤ん坊が泣いたりする松本座で、下駄の音を立てて入ってくる男たちと一緒に見る嬉しさで、胸が熱くなった。映画こそはみんなと一緒に……これが私にとっての映画の魅力。 |
◎私の映画遺言――淀川長治自伝補|淀川長治|中央公論新社|ISBN:9784120021992|1993年03月|評=○|≪KOBE百景≫
<キャッチコピー>
町じゅうが映画ファンだったあの頃―木札の入場券、上映を知らせる弁士の笛の音、履物を預けドーナツ片手に見入った東西の活動写真の数々。サイレントからトーキーへ、大正・昭和初期の映画黄金時代を、記憶も鮮やかに生き生きと語りつくす。
<memo>
神戸っ子なら誰でも「ええとこええとこ聚楽館」は知っているが、「わるいとこわるいとこ松本座」と続くとは知らなかった。上掲は「大正13(1924)年……大正12年9月の東京大震災のため、東京の外国映画日本支社はすべて神戸に移ってきた」頃の話。この恐るべき記憶力。しかしチェックする編集者はたいへんだろうな。
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