« 乙川優三郎●麗しき花実 | トップページ | 蓮池薫●半島へ、ふたたび »

2010.07.09

ノンフィクション100選★藤田嗣治「異邦人」の生涯|近藤史人

201007

パリ画壇で脚光を浴びながらも、日本では絵を正当に評価されず「宣伝屋」のレッテルを貼られたエコール・ド・パリの時代。

誰もが戦争画を描いたにもかかわらず、藤田の責任だけが追及された終戦直後。

離日後も「藤田の絵は荒れた」と陰口をたたかれた戦後――読みにくい藤田の字で綴られた文章をたどるうちに、私には、藤田はフランス人になろうとしたのではないと感じられてならなかった。

「帰化」という行為の目的はフランス国籍を取得することではなく、むしろ、日本国籍を捨てることにあったのではないか。〔…〕

そして、日本でもフランスでもない、いわば「美の国」に帰化したのである。

それは、日本でもフランスでも、ついには異邦人でしかあり得なかった男が出した

最後の結論であった。

藤田にとっての帰化とは、現実には祖国を捨ててデラシネとなることを意味した。

帰るべき場所は、現実には存在しない「美の国」にしかなくなったのである。

★藤田嗣治「異邦人」の生涯|近藤史人|講談社|ISBN9784062101431200211

わたしは“猫嫌い”なので藤田嗣治の絵に関心はなかったが、本書を読んで生の作品を見たくなり、20067月京都国立近代美術館へ出かけた。

藤田嗣治(レオナール・フジタ 18861968)は、独自の「乳白色の肌」とよばれた裸婦像で知られたエコール・ド・パリの代表的画家。第2次世界大戦時に帰国し「戦争画」を描くが、戦争協力者として批判され、のちフランスに帰化する。

予想をはるかにこえた乳白色の魅力もさることながら、油彩画に日本画の手法を取り入れた一筆書きのような黒い線は自動筆記のように軽やかに女体を描く。さらに衝撃は「アッツ島玉砕」などの戦争画であった。戦場で戦う兵士の群像はどう見ても“反戦画”だった。

1920年代のパリは、実験的な文学・芸術の“狂乱の時代”であった。「パリには、10万人の画家がいる。35千がフランス人で、残りが外国人だ。〔…〕日本からも3百人は来ているのだから、普通一般のことをしていたのでは、うだつがあがるはずがない」(田中穣『評伝藤田嗣治』)。金子光晴は二度目の渡仏のときパリ在住日本人名簿作成のバイトをしたが、「300人余の日本人画学生」と書いている(『ねむれ巴里』)。そのなかで藤田嗣治はエコール・ド・パリの寵児であった。

「パリでがっちり生きてゆくには、あくまで日本人であることであり、フランスかぶれのした日本人などフランス人には何の興味もないという所説も拝聴した」と、パリで交遊のあった藤田嗣治のことを、金子光晴は自伝の一つ上記『ねむれ巴里』に書いている。

 田中穣『評伝藤田嗣治』(1988)は、直木賞候補になった前著『藤田嗣治』(1969)を前面改稿し、「星はまたたいていた――ピエロ愛し レオナルド・フジタの立像」のタイトルでの雑誌連載をまとめたもの。ゴシップ、エピソード満載のおもしろい読み物。

ポンピドゥー・センターの一員だった岡部あおみは『ポンピドゥー・センター物語』(1997)に、東京国立近代美術館と共同で大規模の藤田嗣治回顧展の準備を進めていたが、「未亡人がパリ展は協力しても東京展には合意できない」が理由の一つで頓挫したと書いている。藤田は死後その遺志から長らく“扱いにくい”画家であった。

 本書、近藤史人『藤田嗣治「異邦人」の生涯』(2002)は、NHKスペシャル「空白の自伝 藤田嗣治」(1999)のディレクターによる評伝。藤田の五番目の妻・君代夫人のバリアによって、著作権を理由に新たな個展、図録、画集などを拒まれていたものを、交渉開始から9年後に映像化にこぎつけた。このとき君代夫人談話や未公開のまま保存されていた段ボール2個分の日記・手紙類、あわせて美術評論家・夏堀全弘による1960年代に書かれた未刊の藤田論の原稿とそれに付された藤田自身による書込み手記をもとに、新たな藤田嗣治像に追ったものである。

 また、テレビ・ドキュメンタリーと本書の刊行を契機に、夫人監修による『藤田嗣治画集 素晴らしき乳白色』(2002)、「私の生い立ち」など未公開ノートから抄録した『腕一本/巴里の横顔 藤田嗣治エッセイ選』(2005)が刊行された。そして極めつけ、「生誕120年 藤田嗣治展」(2006、東京国立近代美術館・NHKなど主催)の開催に結びつくのである。藤田を復活させた著者の功績は大きい。

 

そして「夏堀用手記」として『藤田嗣治「異邦人」の生涯』に引用された夏堀全弘の幻の原稿が『藤田嗣治芸術試論 』(2004)として刊行された。記録画巡回展が青森で開催されたとき、「そのアッツ玉砕の前に膝をついて祈り拝んで居る老男女の姿、〔…〕しかも老人たちは御賽銭を画前になげてその画中の人に供養を捧げて瞑目して居た有様を見て一人唖然として打たれた」と“藤田直話”が書かれている。

また「戦争画に就ても何度も繰り返へし、いろいろ私の為に弁護の御説もありますが、〔…〕戦争画をかいた事から「藤田の悲劇」が始まった等、私は別に私の悲劇とは思いません。日本人として祖国を思う日本人がした丈のことです。した事に後悔もしてません」という1966年の夏堀あての手紙も載っている。

湯原かの子『藤田嗣治 パリからの恋文』(2006)は、最初の妻・鴇田とみ宛ての手紙170通余(「パリ留学初期の藤田嗣治」研究会編『藤田嗣治書簡14200304)を使った評伝。

林洋子『藤田嗣治作品をひらく――旅・手仕事・日本』(2008) 、“作家から作品に向かうのではなく、作品から作家を「ひらく」こと”にアプローチした500ページをこえる大著。藤田嗣治インデックスとして貴重である。

 20101月大丸ミュージアムKOBEで「レオナール・フジタ展――よみがえる幻の壁画たち」を見た。1992年に制作され、1992年に発見され、修復に6年をかけた縦横3メートルの壁画「争闘」の4点、「平和の聖母礼拝堂」の資料、晩年のアトリエの再現、陶器、絵タイルなど、フジタ・ワールド総ざらえの感があった。

|

« 乙川優三郎●麗しき花実 | トップページ | 蓮池薫●半島へ、ふたたび »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ノンフィクション100選★藤田嗣治「異邦人」の生涯|近藤史人:

« 乙川優三郎●麗しき花実 | トップページ | 蓮池薫●半島へ、ふたたび »