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2010.08.14

ノンフィクション100選★サンダカン八番娼館|山崎朋子

1972

うちは、晩稲(おくて)じゃったのか、そんときはまァだ月のもんも来ておらんかった。

――うちが初めて月のもんば見たとは、それから何年もたって、二十を過ぎてからでの。普通は三、四日で止まる血ィが、半月たってもひと月たっても止まらんで、うちは死んでしまうのかと思うたぞ。

せめて血ィの止まらんあいだぐらいは客ば取らんで居たかったばって、親方ちゆう者はな、そげなこつばさせてくれるもんじゃなか。

「紙ば詰めろ、大事なことはなか」と言うて、普段と同じに店に出させるとじゃもん。

そげにして初めての月のもんがあってから、十四、五年もして、三十四、五になったら、もう月のもんは上ってしもうたと。

★サンダカン八番娼館――底辺女性史序章――|山崎朋子|筑摩書房|19725

おどみゃ島原の おどみゃ島原の ナシの木育ちよ

何のナシやら 何のナシやら 色気なしばよ しょうかいな

早よ寝ろ 泣かんで おろろんばい

(おん)の池ン 久助どんの 連れんこらるばい

 「島原の子守唄」である。「まぼろしの邪馬台国」の宮崎康平が作詞作曲した。歌意は、貧しい家に育った、何の色気もない娘だが、泣かないで早く寝ないと、鬼池の久助が買いに来て連れて行かれるよ、といったところか。にぎり飯をもらって船底にとか、唐は海の果てとかの歌詞もある。いわば「からゆきさん」哀歌である。

宮崎康平にはシンガポールに渡ってたくましく生き抜いたからゆきさんからの聞き取りを基に、1960年前後に書いた800枚の未完の小説「ピナンの仏陀」があり、2008年になって『からゆきさん物語』として出版された。

からゆきさんとは、狭義には19世紀後半に女衒に売買されて東アジア・東南アジアの妓楼に出稼ぎに行った長崎県島原半島・熊本県天草諸島の女性たちをいう。からゆきは、昭和の始めごろまでは、「から」に出稼ぎに行くこと。唐天竺の唐から転じて海外の国々を指していた。海外に働き出た貧しい男女を、唐人行(からひとゆき)、唐ん国行、からゆきどんと呼んだのである。

さて、山崎朋子『サンダカン八番娼館――底辺女性史序章――』1972)は、1968年に女性史研究者の著者が、かつてからゆきさんだった老女を天草下島に訪ね、その老女サキさん宅に3週間ほど滞在し体験を綴ったもの。タイトルのサンダカンとは、イギリス領北ボルネオ(現在のマレーシア)の中心地として栄えた港町である。

彼女が高浜の女衒由中太郎造に売られたのは、数え年の10歳――満で数えれば9歳で、今なら小学校の3年生である。とすると、むすめの美々――東京でわたしの帰りを首を長くして待っているわたしの娘と、まさに同い年ではないか! 5ワットの暗い電燈の下、破れ障子を背にして細ぼそと語るおサキさんの皺深い顔に、わたしは、わが娘のあどけない顔を重ね合わせずにはいられなかった」(本書)

 おサキさんが「いちばん仲ようしとった朋輩」「3年、5年にいっぺんしか逢わんでも、気持は隅から隅までわかっとる」というおフミさんに会いに行く場面がある。

「まあ、まあ、あんたが**村のおサキさんでござすか。おフミさんが、どんなに逢いたがっておったかわからんとですよ。ばって、おフミさんな、3年前にひどか病気になって死になさっとですよ――」

おサキさんの村とおフミさんの村は、道のりにしておよそ10キロ。しかし手紙をしたためようにも文字を知らず、電話で話そうにもそれはなく、バスに乗って会いに行こうにも金もない。「わずか10キロがそれこそ無限の距離であって、60年来の友情をあたためることはおろか、生死の別れすらかわすことができないのだ」

わたしが兎にも角にもこれまでおサキさんの家に滞在し、からゆきさんについて一応の聞き取りに成功したのは、ひとえに、彼女がわたしの種姓(すじょう)をあれこれと詮策しなかったおかげである――と言ってよいかもしれないのだ。〔…〕

「そらあ、訊いてみたかったとも、村の者(もん)ば、ああじゃろ、こうじやろと評判しとったが、そういう村の者より、うちが一番おまえのことを知りたかったじゃろ」と、やはり静かな口調で言った。

そしてそのあとへ、「――けどな、おまえ、人にはその人その人の都合ちゅうもんがある。話して良かことなら、わざわざ訊かんでも自分から話しとるじゃろうし、当人が話さんのは、話せんわけがあるからじゃ。

おまえが何も話さんものを、どうして、他人のうちが訊いてよかもんかね。

長い押し問答の末、おサキさんは、「それでは、おまえの食うた分だけ貰うとく――」と言ってようやく二千円だけを取ったが、それ以上はついに受け取ってくれなかった。〔…〕「銭も貰うたが、もうひとつ、おまえから貰いたいものがあるとじゃが――」と言い出した。〔…〕「おまえのいま使うとるその手拭いば、うちにくれんか――」と言うのであった。胸のあたりが締めつけられるようになるのを辛うじておさえながら、わたしは、ボストン・バックからタオルを取り出した――天草に暮らしたこの三週間毎日使っていたタオル、昨夜おサキさんがわたしの涙をやさしく拭ってくれたあのタオルを。彼女は両手を差しのべて受け取ると、「ありがとうよ。この手拭いを使うたびに、おまえのことを思い出せるけん――」(以上、本書)

本書は、1970年に原稿は完成するが、「本当にからゆきさんの声を聞き取り得たのだろうかという自省の念」と、「原稿発表によって、わたしのお世話になった多くの天草びとに迷惑がかかってはいけない」と出版を逡巡していた、とあとがきにある。『サンダカン八番娼館』文春文庫新装版2008)には本書の続編ともいうべき『サンダカンの墓』1974)が収録されている。また本書は熊井啓監督、栗原小巻・田中絹代主演で『サンダカン八番娼館 望郷』(1974)として映画化された。

もう1冊。森崎和江『からゆきさん』1976)は、詩人らしく言葉に鋭敏である。どうしても引用しておきたいのは、以下……。

――からゆきはその当時のふるさとから生まれたものであった。いや、からゆきさんはその当時のふるさとに抱きとめられていたからこそ、からゆきどんと呼ばれた。ふるさと以外の人びとは「密航婦」「海外醜業婦」「天草女」「島原族」「日本娘子軍」「国家の恥辱」等々とよんだ。当時の新聞は、すべてそう書いている。〔…〕

からゆきどんという呼び名には、ふるさとがそれへこめてきた熱い流れがあるのだった。〔…〕

 子守りも女中も娼妓もひとしく奉公といい、それらの間にことさら差別をしなかったふるさとを思った。〔…〕村むらは貧しかったのだ。が、そのひもじく、寒いくらしの底にこの血汐はながれつづけた。おおらかで、そしてふてぶてしいエネルギーを脈々と流してきた。この気脈なしに娘たちも村びとも「からゆき」を生き抜くことはできなかった。新しい国家としての明治日本は、出稼ぎするほかはひもじさを癒せない人びとに対して、全くなんのちからにもならなかった。(同書)

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