ノンフィクション100選★風騒ぐ――かなしむ言葉|岡部伊都子
ありと見て手には取られず見ればまた 行くへも知らず消えしかげろふ と、大姫や浮舟のかげろう性をなげいた薫の歌にちなんで、蜻蛉野と名づけられているこの原。〔…〕その一軒一軒に、灯がともりはじめ、はや宇治は夕闇に包まれてきた。〔…〕 平等院の鳳凰堂は、あまりに繊細華麗の趣向をこらしていて、定朝形式の阿弥陀さまも円満すぎてすこし退屈。 野性的な私にとって、川に迫る左右の小さな山々の姿も美しすぎるようで、結局、音たてて流れる激しい川にのみ、あこがれてやってきたことになる。 その川に身を投げて、助かった女の笹舟のように軽い身体と、はてしなく重い生きの悲しさが思いやられる。 「世をうぢ山」と、宇治に住んだ古人たちは、必ず宇治を憂しにかけて詠んでいるけれど、憂き世は宇治だけではない。 ――「誰かとどめし」 ★風騒ぐ――かなしむ言葉|岡部伊都子|新潮社|1964年3月 |
わたしが岡部伊都子の本を最初の手にしたのは、『観光バスの行かない…――埋もれた古寺』(1962)だった。「芸術新潮」に2年間連載されたもので、京都の浄瑠璃寺、奈良の室生寺、兵庫の鶴林寺、滋賀の渡岸寺など、いわば観光ガイドブックとして本書を利用した。いまは多くが「観光バスの行く」寺となった。
「芸術新潮」の連載は、その後、『古都ひとり』(1963 )『風さわぐ――かなしむ言葉』(1964)『美の巡礼――京都・奈良・倉敷』(1965)『美のうらみ』(1966 )と続く。わたしが読んだのはここまでで、この4冊、函の写真は土門拳だった。連載は1978年まで21年間続いたという。
本書『風さわぐ――かなしむ言葉』(1964)をノンフィクションとするのにやや躊躇するのは、わたしが旅のガイドブックとして読んだからである。しかし著者はあとがきに書く。
「随筆のようで紀行のようで、評論のようで懺悔のようで、あるいはまたレポートのようで」とか「美学なのか、哲学なのか、宗教なのか、それとも思想の書なのか」などと、おたよりをいただくことがある。〔…〕いったいどう表現すればよいのか……とにかく、私には私の書いた原稿であるということしかわからない」
「かなし、という言葉には、いとおしむ、めでる、あわれがる、愛する、感心する、さびしむ、悲しむ、憤る、といった、さまざまのせつない心情が含まれているはず。〔…〕引用句はすべて立派な先人の作品。その美しい意味を自分勝手なものに仕立て直す不遜をあえてして、私は私の、いまをかなしむ言葉とした」(あとがき)。
雑誌連載時のタイトルは「かなしむ言葉」。40年後に岡部伊都子作品選・美と巡礼全5巻の一冊として再刊されたときタイトルは『かなしむ言葉』(2005)に戻された。
上掲の「誰かとどめし」は、「身を投げし涙の川の早き瀬を しがらみかけて誰かとどめし」(『源氏物語』宇治十帖)からとられている。「薫を失えば、一生の安心がなくなるのがさびしいし、かといって匂[宮]を失えば、気の遠くなるような陶酔を去らねばならない」という浮舟の心情を、著者は「血のざわめき。揺れうごく心。同じ女として同じ急流の水の音を、体内に感じないわけにはゆかない」と書く。
本書では、大和三山、神戸・布引の滝、須磨海岸、大阪・高師浜、京都・祇王寺、真葛原、逢坂山、奈良・飛鳥川などを、古歌をめで、現世の悩みを独白しつつ紀行する。
著者は大阪生まれ、本書執筆時は神戸在住、その後京都へ“宿替え”。しなやかで、したたかな京女のイメージを武器に、ハンセン病、戦争・沖縄、朝鮮文化など差別問題などにかかわっていく。
「1970年の夏、生まれて初めて、大阪弁の詩を書きました。『何でも売る』商都大阪のイメージに反して、『売ったらあかん』ものは、ぎょうさんありました」。
売ったらあかん
友達を 売ったらあかん
子どもらを 売ったらあかん
まごころを 売ったらあかん〔…〕
こころざしを 売ったらあかん
大自然を 売ったらあかん
いのちを 売ったらあかん
自分を 売ったらあかん
自分を 売ったらあかん
――(129冊目の著書『遺言のつもりで―― 伊都子一生語り下ろし』(2006)所収)
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