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2010.08.06

ノンフィクション100選★アンダーグラウンド|村上春樹

1997

いや、その前に、まず想像していただきたい。

ときは1995320日、月曜日。気持ちよく晴れあがった初春の朝だ。まだ風は冷たく、道を行く人々はみんなコートを着ている。

昨日は日曜日、明日は春分の日でおやすみ――つまり連休の谷間だ。あるいはあなたは「できたら今日くらいは休みたかったな」と考えているかもしれない。でも残念ながらいろんな事情で、あなたは休みをとることはできなかった。

だからあなたはいつもの時間に目を覚まし、顔を洗い、朝食をとり、洋服を着て駅に向かう。そしていつものように混んだ電車に乗って会社に行く。それは何の変哲もない、いつもどおりの朝だった。見分けのつかない、人生の中のただの一日だった。

変装した5人の男たちが、グラインダーで尖らせた傘の先を、奇妙な液体の入ったビニールパックに突き立てるまでは……。

アンダーグラウンド|村上春樹|講談社|ISBN9784062085755199703

1995年は、世紀末を予兆させる年だった。

117日、マグニチュード7.3の大地震が兵庫県南部を襲った。わが家の西壁を突き破った野牛の一群が、眠っているわたしの上を駆け、東壁を突き抜けていった。その一瞬の“夢”から目覚めたのは午前546分。死者6400余名の阪神淡路大震災という悪夢の始まりだった。

 その10週後の320日、東京都の地下鉄で神経ガスのサリンが散布されて死者12名を含む多数の被害者を出す無差別テロ事件が起こる。オウムによる地下鉄サリン事件である。震災の復旧・復興に追われる日々のわたしは、これで首都圏では震災報道は片隅に追いやられると思った記憶がある。

 

 村上春樹には、阪神淡路大震災をきっかけとした連作短編集『神の子どもたちはみな踊る』2000)と地下鉄サリン事件を扱ったノンフィクション『アンダーグラウンド』1997)、『約束された場所で』1998)がある。

 『アンダーグラウンド』において、地下鉄サリン事件の情報がマスコミに氾濫しているが、それは〈被害者=無垢なるもの=正義〉という「こちら側」と、〈加害者=汚されたもの=悪〉という「あちら側」を対立させることだった、と村上は言い、「そのときに地下鉄の列車の中に居合わせた人々は、そこで何を見て、どのような行動をとり、何を感じ、考えたのか?」を知りたかった、と書く。

「その朝、地下鉄に乗っていた一人ひとりの乗客にはちゃんと顔があり、生活があり、人生があり、家族があり、喜びがあり、トラブルがあり、ドラマがあり、矛盾やジレンマがあり、それらを総合したかたちでの物語があったはずなのだから。ないわけがないのだ。それはつまりあなたであり、また私でもあるのだから」

インタビューに際し、被害者3800名(一説には5500名)のうち、名前だけが判明している700人のリストを作成したが、「身元」が判明したのは140人余。対面は62名(うち2名はのちに掲載拒否)。19961月から1年間にわたってインタビューはおこなわれた。著者が直接面談し、平均1時間半から2時間をかけたという。

 たとえば当時31歳のある女性……。寝たきり状態で、記憶はほぼ失われている。

――「どこに行きたいですか?」と私が質問する。

「いぃうにぃあん」

これはちょっと誰にもわからない。でもあれやこれやの試行錯誤の末に、「ディズニーランド」

ではないかという結論に達する。

「それ、ディズニーランドか?」とお兄さんが尋ねる。

「そう」と彼女は言う。そして強くうなずく。〔…〕

こうして原稿を書きながら、「生きる」というのはいったいどういうことなのだろうと真剣に考えている。久しぶりにそういう〈根元的な命題〉に直面している。

 夫を亡くし、その後子どもが生まれた女性(当時31)の発言。

――真実を伝えてほしいって思っているのに、テレビ局は自分に都合の良いところだけを放送するんです。こっちが本当に言いたい部分は出してもらえません。たとえば坂本弁護士が失踪したときに、神奈川県警がもっと本腰を入れて捜査をしていれば、地下鉄サリン事件だって起きなかったはずです。こんなにたくさんの犠牲者を出さずに済んだはずです。私はそれが言いたかったんです。それなのに、全部カットされてしまいました。どうしてかって訊くと、そんなの放送しちゃうと圧力がかかるからだって。それは新聞も雑誌も同じです。

松本サリン事件を経験した信州大学医学部長・柳澤信夫は、被災者が病院に運ばれる様子をテレビで見て、そこに名前が出てくる病院に片端からファックスで「硫酸アトロピンとパムといった解毒剤、輸液、あるいはジアゼパムといった鎮静剤を治療に使うといい」といった情報を送る。「求められもしないのに、こっちからわざわざほかの病院に連絡して情報を送るなんていうことは、通常はやらない」。

――この地下鉄サリン事件や松本サリン事件を見ていて、私たちが得た大きな教訓は何かと言いますと、「何か大きなことが起こったとき、それぞれの現場は非常に敏速に対応するけれど、全体としてはだめだ」ということですね。こういう大きな災害が起こったときに、組織が効率よく速やかに対応するというシステムが、日本には存在しないのです。きちんとした命令系統というものがありません。役に立ちません。それは阪神大震災のときだってまったく同じでしたね。

弁護士・中村裕二は、数々のオウム事件の捜査が後手後手に回ったことの原因をこう語る。

――オウムの示すこっけいさの裏にある残虐さが、おそらく警察当局には見抜けなかったのだと思いますね。彼らのやっていることかあまりにも荒唐無稽で、漫画的すぎて、ピエロの仮面の奥にあるその底なしの恐ろしさを、見通すことができなかったということです。そういう点では警察は、組織として非常に大きな盲点を持っていた。オウム真理教は警察にとって、これまでにないタイプのまったく新しい相手だったのです。

村上春樹『約束された場所で』1998)は、『アンダーグラウンド』と同じ形式でオウム真理教の信者(元信者)8人に長時間のインタビューし、その気持ちや主張を聞き書きしたもの。同書に収録されている河合隼雄との対談の一部……。

村上 オウムの人に会っていて思ったんですが、「けっこういいやつだな」という人が多いんですね。はっきり言っちゃうと、被害者のほうが強い個性のある人は多かったです。良くも悪くも「ああ、これが社会だ」と思いました。

河合 それはやっぱりね、世間を騒がすのはだいたい「いいやつ」なんですよ。悪いやつって、そんなに大したことはできないですよ。〔…〕このオウムの人たちというのは、やっぱりどうしても、「良いこと」にとりつかれた人ですからねえ。

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