司馬遼太郎●竜馬がゆく(二)
*** 江戸には、若い血気の武士の大巣窟が三つある。 神田お玉ケ池・桶町の千葉道場(塾頭坂本竜馬) 麹町の神道無念流の斎藤弥九郎道場(塾頭桂小五郎) 京橋アサリ河岸の桃井春蔵道場(塾頭武市半平太) この三道場はそれぞれ千数百人ずつの若い剣術諸生を収容している。今日でいえば、さしずめ、東京大学、早稲田大学、慶応義塾大学というところだろうか。〔…〕 剣を学ぶ一方、たがいに国事を語りあい、書物を交換しあい、意見を練りあって、入塾一年もたてば、ひとかどの志士になってしまう。 維新の志士(佐幕派のたとえば新選組隊士などもふくめて)の多くは、この三大道場から出ているし、もしこの三大道場がなければ日本史も相当ちがったものになっているだろう。 かれらの思想は、多くは剣術仲間からきいた耳学問であり、たれを思想の師匠とするよりも、むしろ友人仲間で切磋琢磨しあった。 |
●竜馬がゆく(二)|司馬遼太郎|文藝春秋|1963~66/文庫版1975|評=◎おすすめ
<キャッチコピー>
黒船の出現以来、猛然と湧き上ってきた勤王・攘夷の勢力と、巻き返しを図る幕府との抗争は次第に激化。先進の薩摩、長州に遅れまいと、固陋な土佐藩でクーデターを起し、藩ぐるみ勤王化して天下へ押し出そうとする武市半平太。坂本竜馬は、さらに大きな飛躍を求めて、ついに脱藩を決意した。
<memo>
当時新聞もラジオもなく、世人は時勢に想像以上に暗かったといったが、竜馬のこのときの役割りはいわば新聞記者のようなものである。〔…〕この当時の高名な勤王の志士というのは、すべてこれである。吉田松陰も、清河八郎も西郷隆盛も桂小五郎も、そして坂本竜馬も、しきりと諸国を歩き、土地の見どころのある人士と会い、中央地方の情勢を伝播し、全国の同志を一つの気分と昂奮に盛りあげていっている。要するに、史上名を残した志士というのは、足で取材し、足で伝播した旅行家ばかりということになる。(本書)
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