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2010.10.07

原寿雄●ジャーナリズムの可能性

20101006

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ジャーナリズムは権力を監視し、社会正義を実現することで、自由と民主主義を守り発展させ、最大多数の最大幸福を追求する。

人権擁護はもちろんのこと、自然環境の保護も、人間性を豊かにする文化の育成も、ジャーナリズムに期待される機能である。

よりよい社会を目指す、という理念がないものをジャーナリズムとは呼ばない。

ジャーナリズムは理念のない情報流通業とは違う。単なる情報は、個人や個別の組織にとって有用でありさえすればよいが、ジャーナリズムには公共性の観点が必要な条件となる。〔…〕

特に若い世代は自分の欲しい情報にだけ接する傾向を強め、民主主義社会に不可欠な基本的情報の共有が崩れ去ろうとしている。

現実への批判機能を果たすジャーナリズムなど不要とする情報時代の出現を放置することはできない。情報産業栄えてジャーナリズム滅び、ジャーナリズム消えて民主主義亡ぶ――そういう危険な時代の戸口に今、われわれは立っている。

●ジャーナリズムの可能性|原寿雄|岩波書店|ISBN9784004311706200901月|新書|評=△

<キャッチコピー>

マスコミへの不信・批判が叫ばれて久しい。いま原点に戻って、ジャーナリズム本来の力、役割を問い直す必要があるのではないか。長年の現場体験を踏まえ、放送、新聞の現状を検証し、再生の道を構想する。

<memo>

1925年生まれ、元共同通信社社長のオールド・ジャーナリストによる時代遅れのジャーナリズム論。ネットの激しい動きや劣化した記者たちという現実を直視した処方箋がない。

内田樹●街場のメディア論

魚住昭■ 官僚とメディア

高山正之■「モンスター新聞」が日本を滅ぼす――メディア閻魔帳

山際澄夫■ これでも朝日新聞を読みますか? 

烏賀陽弘道 ■ 「朝日」ともあろうものが。

<朝日新聞の購読をやめた理由>

わたしは朝日新聞の購読をやめることにした。本の広告が多いという理由で30年以上惰性的に朝日を読んできたが、ついにキレた。

やめる理由の一番は、20109月の民主党代表選における小沢バッシングである。社説に小沢一郎の立候補を「あいた口がふさがらない」のタイトルで「非常識を通り越して、こっけい」と書いた。念のため言うが、わたしは小沢支持ではない。2009年の自民党総裁選に西村康稔、20106月の民主党代表選の樽床伸二という“無名”の“泡沫”でも立候補は自由であった。今回の小沢は金の問題というリスクを覚悟に賛否を問うたのであり、公職選挙法に関係のない選挙とはいえ事実上首相を選ぶ選挙に「あいた口がふさがらない」との朝日の非難は何事か。朝日をはじめ新聞、テレビは菅直人“大政翼賛会”と化し、小沢のネガティブキャンペーンを張った“品格なき”菅夫婦に同調した。ジャーナリズムの無能、無力を露呈されるのを恐れたマスコミが官僚、検察とタッグを組み、世論を誘導したといえる。

朝日新聞をやめた理由は、第2に星浩など編集委員という肩書きの“中二階”記者たちの小ざかしい、緊張感のないコラム類がわがもの顔で掲載されており、数も多すぎる。第3に、“病気”ではないのかと思わせる大阪のバカ殿橋下徹知事に迎合し媚を売る記事が多い。前言訂正の“日替わり思いつき発言”は ニュース性がないのに、なぜ記事にするのか。

第4に、例えば、むかし加藤周一いま大江健三郎から三谷幸喜、テレビ評(大阪だけ?)の島崎今日子まで、同一人物の長期の連載で紙面が停滞している。第5に、夕刊のエンターテイメント性が、中高年記者の発想であり、斬新さがない。第6に、ここ1年広告料金を半額以下にしたせいか(と推測)、通販のチラシのような全面広告がいちじるしく増え、新聞全体が見た目に品位がなく、きたならしい。

以上が、劣化はげしき朝日新聞を捨てた理由である。

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コメント

朝日新聞の“中二階的管理職”の編集委員の煩わしさは、米原万里『心臓に毛が生えている理由』の中で書いていることを思い出させます。朝日は報道ではなく、署名論評が中心になってきました。それが嫌気をさす理由でしょうね。以下、引用。


――新聞記事はすべて署名記事にすべきだ、と言い張る人が時々いる。誰が書いたのか分からない文章ばかりだから、無責任な内容の記事が氾濫するんだ。書いた人の顔が見えない文章だから、人の心に響かないのだ、と。
一理はあるのだけれど、そうかなあ、と思う。新聞記事にいちいち書いた人の顔が見えたら、うるさくて仕方ないではないか。
一つ一つの記事に心動かしていたら、毎日の生活や仕事に支障を来してしまうではないか。
新聞が紋切り型だらけの文体から成っている効用として、激動する時代を伝えつつ同時に安定した日常性という足場を保障することではないか、と前に述べたが、もう一つ、紋切り型には、書いた個々人の人格を消し去る、という目的もあるのではないだろうか。
――「無署名記事」

投稿: KOBE`RANDOM | 2010.10.17 09:03

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