恩田陸●土曜日は灰色の馬
** 初めての絵本も、児童文学も、かつてお話のほとんどは三人称だった。文字通り、絵本や児童文学で、世界を傭放し、自分を外側から見ることを覚えていったように思う。 それに、私の印象では、かれこれ三十年も前は、一人称を使うのは、一人称を使うこと自体にお話の仕掛けがあるか、 かなり突っ張った、既成の大人社会への抵抗を示す場合のみだった。 だからこそ、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』や庄司薫が若者に熱狂的に受け入れられたのであり、今現在、村上春樹が世界で「青年の文学」として人気を博しているのだと思う。 そのいっぽうで、私は小説を書き始めたころから、一人称というものが言わば「禁じ手」のように感じられていた。 ――「一人称の罠」 |
●土曜日は灰色の馬|恩田陸|晶文社|ISBN:9784794967510|2010年08月|評=○
<キャッチコピー>
小説家・恩田陸さん。汲めども尽きぬ物語の源泉はいったいどこにあるのでしょうか!? 大好きな本・映画・マンガなどを大胆奔放に語る、ヴァラエティに富んだエッセイ集。
<memo>
しかし、ここ10年くらいで、一人称の性質は大きく変わった。知りあいの編集者に聞いたところ、純文学系の新人賞の応募作品は、ほぼ99パーセント一人称だという。〔…〕世界は「私」になり、「私」をそのまま世界に一致させることに抵抗がなくなったし、世界の中にいる「私」を俯瞰するよりも「私」という檻の中から世界を見、「私が傷つき」「私が癒され」ることが最優先になったのである。〔…〕「私」を表現するには、冷徹な自己観察力を必要とすること、「私」の視点でいる限り、いつまでも自分を発見できないこと。「本当の私」をつかむには、何より三人称の視点を獲得する以外ないという、逆説めいた事実を受け入れるしかないのだということを。 (本書)。
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投稿: 藍色 | 2013.11.29 12:31