小倉孝保◎大森実伝──アメリカと闘った男
* 繰り返すがライシャワーは晩年、大森とのやりとりを悔やむことが多かった。 北畠霞とパッカードの二人は、大森・ライシャワー会談を企画する。最初、二人はとても乗り気だった。 「大森さんは最初、面自そうだ、どうせなら、二、三日かけて会って、本にしようととても積極的だった」〔…〕 結局、大森・ライシャワーの歴史的和解の会談は実現することはなかった。 大森の妻恢子はこう言う。 「会談場所について大森は最後まで納得できなかったようでした。つまり、ライシャワーさんのところに出かけていくのはおかしい、と。〔…〕 自分が訪ねて行って、会わせてもらう、というような形になるのはおかしいと思っていたのです」〔…〕 大森は、米国との対等な関係に最後までこだわった。米国を「教師役」として崇め、いつまでも独立できない祖国にいらだちながら大森は、せめて自分だけは米国と「五分と五分」の関係でいようと踏ん張り続けたのだ。 |
◎大森実伝──アメリカと闘った男│小倉孝保│毎日新聞社│ISBN:9784620320434│2011年03月│評価=◎おすすめ
<キャッチコピー>
1965年9月23日。大森実は、西側記者として初めてベトナム戦争下のハノイに入った。世界的な快挙の後に待ち受けていたのは、その報道を批判するアメリカとの闘いであった-。「エンピツ一本」。現場にこだわり、アメリカに真っ向勝負を挑んだ国際ジャーナリストの実像に迫る。
<memo>
著作の多い大森は自分の人生についても、『エンピツ一本』や『激動の現代史五十年』『わが闘争 わが闘病』でかなり詳細に書いている。そのため、私は大森の人生を忠実に再現することにはあまり関心がなかった。むしろ、大森の周辺の人からみた大森に興味があった。大森が放ったエネルギーが、周辺の人々にどう影響したのかを取材し、大森の周辺を描くことで「他伝」的大森像をあぶり出したかった。(あとがき)
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