大村彦次郎◎文壇挽歌物語
* 和田[芳恵]の妻であり、従妹であった照は2年前の冬、結核のため二児を残し、33歳でこの世を去った。 和田は妻に死なれて初めて自分の暮らしを省みた。雑誌記者生活の過労と貧困が妻を殺したのではないか、と思った。 和田は昭和14年の夏、妻の遺骨を二人の子供に托して、故郷である北海道長万部の訓縫村に送った留守に、樋口一葉の日記を読み始めた。 一葉の命を奪った病名が妻と同じであったことが、和田の気持を一気に傾斜させた。あれから四半世紀が経過し、和田はいま「ひとつの文壇史」を書いている間も、編集者稼業というものがいかに泡沫のごとく、はかないものであるか、ということを覚らずにはいられなかった。 この連載のために雑誌編集者のその後の足どりを辿ろうとしても、彼らの消息はすぐに途絶え、生死さえ掴めない者もあった。〔…〕 仕事をして生きてゆくことは清濁の流れを生きるようなものだから、ときに汚れることは仕方ないと思ったが、和田の場合は人に迷惑をかけたことがおおき過ぎて、その罪の意識に脅え、ずっと苦しめられた。 |
◎文壇挽歌物語│大村彦次郎│筑摩書房│ISBN:9784480823458│2001年05月/文庫版: 2011年04月│評価=○
<キャッチコピー>
石原慎太郎の華々しい文壇への登場とそれに続く太陽族ブームは、出版界に大きな影響を与える事件となった。編集者の目から眺めた戦後昭和文壇史の舞台裏。好評の『文壇うたかた物語』『文壇栄華物語』につづく“文壇三部作”の完結編。
<memo>
永井[龍男]と同じく、永年編集者を務め、のち作家になった和田芳恵の死は、永井が芥川賞委員を辞任した3カ月後のことです。偶然とはいえ、この二人の文壇からのフェード・アウトは目立たないながらも、象徴的な意味合いを帯びている、と思います。つまり昭和52年(1977)、文壇はこの年の前後に消滅に向かい、文士は四散した、と見ることができます。──文壇挽歌物語・補説
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