川西政明◎新・日本文壇史──第5巻・昭和モダンと転向
* その時、整は少女の顔が妙に曖かいのに気づいた。少女のほうもこの人が整だと認めた。少女は腰をかがめて挨拶して、伊藤整さんですかと尋ねた。 整は赤くなって、そうだと答え、帽子を取って挨拶した。少女のよく微笑を浮かべる卵形の橙色の顔を見ているうちに、整は「何の理由もなく、オレはひょっとすると、この少女と一緒に暮らすことになるのではないかな、と感じた」のだった。〔…〕 貞子は整が生まれてはじめて「精神的に強く惹かれた女性」であった。整は貞子のような女性に対しては、強い性の衝動を感じなかった。 整には貞子的女性が必要不可欠であったが、同時に精神的に惹かれることのない、性の衝動のままに交接できる女性が必要だった。 そこが整の厄介なところだった。 ──「第25章 伊藤整の性と愛」 |
◎新・日本文壇史──第5巻・昭和モダンと転向│川西政明│岩波書店│ISBN:9784000283656│2011年03月│評価=○
<キャッチコピー>
大正デモクラシーを継承した昭和初年は、西洋風の生活スタイルが日常生活の中に取り入れられ、徐々に浸透していった時代であった。この時代の表現者の「華」として登場した伊藤整を彩る愛と性、最後の文士といわれる高見順の修羅の人生、リンチ共産党事件を身近で経験した平野謙とその周囲の人々などを活写して、この時代の文壇の実相に迫る。
<memo>
伊藤整の『若い詩人の肖像』、詩集『雪明りの路』を読み、小樽近郊の忍路(おしょろ)や余市へいつか旅したいと思ったのは、半世紀前。こんなフレーズがあった。
そこは頬のあはい まなざしの佳い人があって
浜風のなでしこのやうであったが。
しかし伊藤整はのちにこう書く。──「雪明りの路」で「俺は汚い人間であるがために清らかな少女を歌った。卑屈であったがために素直さを歌った。もとより俺は俺の詩を信用しなかった。それは嘘であって美しかった。
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