発掘本・再会本100選★変容│伊藤整
* 岩井透清は私の顔を、身体をじろじろと見まわした。お前はまだ役に立ちそうだが、自分の人生がもう残り少いことに気づいているのか、と言わんばかりであった。 「龍田君、七十になって見たまえ。自分の中にある汚れ、欲望、邪念として押しつぶしたものが、ことごとく生命の滴(したた)りだったんだ。 そのことが分るために七十になったようなものだ、命は洩れて失われるよ。生きて、感じて、触って、人間がそこにあると思うことは素晴らしいことなんだ。語って尽きず、言って尽きずさ。」 彼は私を脅かすように睨みつけ、やがて私を羨むように目をそらし、失われた生そのものを感じて歯ぎしりするような、怒った顔になった。 |
★変容│伊藤整│1968年10月│岩波書店/文庫版:│ISBN:9784003109625│1983年05月│評価=○
<キャッチコピー>
老年期に入ろうとする主人公たちが展開する心理や行動は、性の快楽が青年の特権ではないこと、さらには、それらの行為を通して人生の真実により深く到達するのは、若者や壮年よりも老年であることを啓示する。老年とは、ひいては人間が生きるとはーという根源的な問いに真正面から取組んだ作者(1905-69)最後の傑作長篇小説。
<memo>
いつのまにか読むテーマが“定年前後、還暦前後”から“老齢・老年”に変わっている。老年を描いた小説の1960年代の代表作として、川端康成「眠れる美女」(1961)、谷崎潤一郎「瘋癲老人日記」(1962) とともに、伊藤整「変容」(1968)がよくあげられる。著者64歳、死の前年の作。手元にあるのは岩波文庫版で、1983年第1刷、2009年第9刷とある。いまも読まれているようだ。当方は、初読。
60歳を迎える画家龍田の煩悩を、60歳を過ぎた女性歌人千子、日本舞踊の女師匠咲子、元モデルで酒場のママ歌子、死んだ妻の友人で学園経営者せつ子など、老年に向かう女性たちとの関係で描いたもの。
「刊行された68年は、まだ日本の社会での性意識の自由化の風潮が進展している最中であり、その風潮を促進するものとして、この作品も読書界に受け入れられたのである。が、それにしてもこの作品が、当時の読書界に与えた影響は衝撃的であった」と文庫版解説で中村真一郎は書く。「己れの欲望のままに生きることこそが、生の燃焼であり、生の意味であり、死の予感と引きかえに、老人に与えられるものである」。
「この60歳前後の老人の激しく貪欲な性の行為の実態は、耳もとでシンバルを鳴らされたような、脳の中枢に響く激動であった。〔…〕30代、40代の細君たちがこの小説を読んで、それまでもう自分たちの女性としての生命は終りかけていると信じていたのが、突然にむしろ女生命の頂点は20年、30年の先にあるのだと眼を見開かされて色めき立ちはじめ」云々と解説は続く。つい半世紀前の作品を読むには、登場人物の年齢を10~20ほど足して読む必要が出てきた。以下、本文から引用……。
──「執着やねたみや憎しみのあるところには、やがてそれをこやしとして愛というものが咲き出るのかも知れません。」
──「老齢の好色と言われているものこそ、残った命への抑圧の排除の願いであり、また命への讃歌である。」
──「生きることの濃い味わいは、秘しかくすことから最も強くにじみ出て来る。」
──「生きている間は、何が起るか分らない」という言葉が、つぶやきとなって私の口にのぼった。それは「生きている間は何をするか分らない」と言った方が正確だった。私にとってその言葉は、「生きているうちは救いなどありはしない」という意味だった。
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