星野博美◎コンニャク屋漂流記
* 私が先祖に興味を持ったのも、家族がどんどん消えてゆき、自分ひとりが最後に残される、という恐怖があったからだ。〔…〕家は私の代で終わろうとしている。「みんな死んでもうた」というのは、私がいつか言うかも知れない台詞なのだ。 私の祖父・量太郎が手記を書き始めたのは、自分に残された時間がもう長くはないと悟った時だった。祖父が最後の力を振りしぼって書いた手記だが、家族にとっては長い間、それほど重要な意味を持つものではなかった。〔…〕 祖父の存在が家から消えると同時に、それまでわが家に満ちていた漁師的空気が消えた。 人が消えると、その人が持っていた記憶も消えてゆく。 消したくないものを私は無意識のうちに求めていたのかもしれない。 人はどんな時、家族の歴史を知りたくなったり、人に伝えたくなったりするのか。それは、終わりが近づいている時。 |
◎コンニャク屋漂流記│星野博美│文藝春秋│ISBN:9784163742601│2011年07月│評価=◎おすすめ
<キャッチコピー>
先祖は江戸時代、紀州から房総半島へ渡った漁師、屋号はなぜか「コンニャク屋」。祖父が残した手記を手がかりに、五反田から千葉・御宿、そして和歌山へ、ルーツ探しの珍道中。笑いと涙のなかに、家族や血族の意味を静かに問い直す作品。
<memo>
圧巻はルーツをたどる紀州において、著者が“中国遊子”の経験を発揮するところ。和歌山の湯浅町と広川町とは隣り合わせだが、「よほど別個のアイデンティティ」をもっていると観察する。「湯浅は旧市街の一部を重要伝統的建造物群保存地区として、必死に往年の景観をとどめようとしているが、広川は意図せずともそのまま保存されているような感じがする。〔…〕湯浅が若かりし頃の美しさをとどめようと厚化粧と整形を繰り返す美人だとしたら、広川は時の流れを受け止めた誇り高き老貴婦人といった趣きだ」。そして人情の差異を感じる。
「わずかな記憶以外に何も残されていない。だからこそ、想像する楽しみがある。先祖が私に残してくれた最大の宝物、それは想像する自由ではないかと思うのだ。400年前、紀州から東国への移住を決意するには、それ相応の理由があったに違いない。よりよい生活を求めて? 宗教弾圧? 身分差別? それとも、さしたる理由はないが、古い世界とおさらばして新天地を目指したくなった? あるいは食いつめたか、そこに居続けられないようなヤバいことをしたとか?」(本書)
先祖のルーツ探しといえば高橋秀実『ご先祖はどちら様』(2011)があるが、そのなかの「身内を大切にするということは、実はそのまま他人を大切にするということにつながっているのです」というフレーズを思い起こした。本書に登場する星野家ゆかりの人々も「あたたかい」。ついでながら屋号で呼ぶといえば、わが家は「ちゅうよめさん」である。忠右衛門からきている。そんなことも思いだした。
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