田崎健太★真説・長州力 1951―2015
「旨い酒でも楽しい酒でも、いつか底が見えますよ」
「底が見えるとは?」
ぼくは訊き返した。
「人間はみんな永遠に酒を飲めると思っているんでしょうね。やっぱり勢いがいいときは、どんな仕事の世界でも旨い酒を飲めます。
でも、いつまでも旨い酒は飲めない。だんだん透明になって底が見えてきた」
そして「ああ、ぼくは底が見えていますね」と小さく頷いた。
「だから缶珈琲で割ってしまおうかと」
長州は泡盛を珈琲で割った、黒い液体が入ったグラスを上げた。
★真説・長州力 1951―2015│田崎健太│集英社インターナショナル│ISBN:9784797672862│2015年07月│評価=◎おすすめ│幼馴染から大物レスラーまで多くの証言で迫る「人間・長州力」
当方にとってプロレス本といえば、門茂男→村松友視→井上義啓→柳澤健という流れだった。しかしプロレスが演劇に似ているとはいえ、どれも著者が作った知的遊戯の舞台を見物している観があった。
ところが本書は、マニアには突っ込み不足で不満が残るかもしれないが、長州力という人物とその時代のプロレスの興亡を描いた正統派ノンフィクションであり、一級品である。
長州力のマットを一度だけ見たことがある。1980年代、維新軍を率いて馬場の全日本に参戦していた頃で、ラリアットを放ち、サソリ固めでフィニュシュ。地方の試合であったとはいえ輝くカリスマだった。上掲の「旨い酒」を飲んだ時期は、この頃からこのあと新日本に復帰、坂口のあとの現場監督(マッチメーク担当)の頃だろう。
「マッチメークは作家や脚本家、映画監督の仕事とよく似ている。物語、作品を最良のものとするためには、登場人物とは距離を置き、ときに冷酷にならなければならない」(本書)。生涯頭が上がらなかった猪木の「理屈や論理の埒外」のある行動に翻弄されたり、この秘密裏の現場監督とマットに上がる選手の二本立ての時期に長州は自信を深め、のちの独立につながるのだろう。
プロレスの興亡といっても「所詮レスラーというのは個人事業主の集まり」(保永昇男)であり、「今いる組織を辞めたとしでも、狭い世界のどこかへ行くしかない。その中で生き延びていかなくてはならないから、彼らは情報が早い。特殊な、独特な処世術のようなものがある気がする」(杉田豊久)ので、昨日の友は今日の敵、離合集散が激しい。選手報酬と事務所経営、つまりはカネの世界でもある。
2000年代前半に格闘技ブームが起こり、レスラーが色褪せプロレスか壊滅寸前になる。
「格闘技(ブーム)というのは長く持たないとぼくは思っていましたしね。(総合格闘技は)瞬間だけのビジネスで、将来的なものを(どう)構築していくか、ぼくには見えなかった」(本書)
そして格闘技ブームが去り、今またプロレスが注目されているが、当方には“肉体の曲芸”にしか見えない。なお念のため記すが、本書の取材を拒否したのは、アントニオ猪木、マサ斎藤、佐々木健介の3名である。
それにしても著者の『球童――伊良部秀輝伝』でも「プロのアスリートたちの人生第2章はほんとうに難しい」という印象を持ったが、本書でも長州のこんな発言。
「普段、何をなさっていますかと訊かれるのが一番つらいです。テレビを見て、誰かから電話があったら、ちょこっと飲みに行く。それだけですよ」。
長州、1951年生まれである。
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